207 牢獄の者と外の者
時間は少し巻き戻る。
彼らが脳のモデリングに驚愕し、未だ自分達が敵の手中だと気付いた頃。
「ぱっぱっぱ、パンプキン。ぴっぴっぴ、ピーナッツ。ぷっぷっぷ、プリン。ぺっぺっぺ、ペペロンチーノ」
奇妙な歌のようなそれは、彼が心から望む食べ物というものを片っ端から思い出すための呪文だった。
何も口に出来なくなってから五年。
「ぽっぽっぽ、ぽ、うーん……ぽ? ぽー?」
ぽから始まる食べ物を思い出しながら、見飽きた塔の一室から外を見る。出ることは叶わない。内側も、その小さな枠の外側も見飽きてしまっている。男はただ惰性でそれを眺めているだけだった。
「ぽ、パポパポぉポォップコーンっ!」
閃いたような顔をして手を叩き、その軽やかで映画館のお供の代名詞となったそれを叫んだ。
「バター味、キャラメル味、醤油味、塩味……はちみつレモン味!」
そう言ってフレーバーを一つずつ追い、奇妙な味を叫びながらくるりとその場でターンする。
彼は半ば狂い気味だったが、リストカットのような自傷行為だけはしなかった。その中途半端に理性的で豊かな思考はほぼ食べ物へと向けられ、残りは睡眠浴と性欲に当てられている。
謎解きの意欲も犯人への怒りも、最初の一年で使い果たしてしまった。
「レェモン、キャンディー!」
幻のそれを指でつまみ放り投げ、上を向いて口を大きく開けてぱくりとキャッチする。
不思議と舌の横がきゅんとした。
「レモン牛乳! レモン鍋! レモンラーメン! レモ……ん?」
彼は違和感に目を疑った。
「れ、あれ、あれ?」
窓の枠の外は、五年間毎日二時間以上見続けてきた白のイラストだったはずである。まるでおもちゃの城をリアルに楽しむために、紙で描いた背景を設置したかのような、ちゃちで安易な雪道の絵だ。
それが少しだけリアルに見える。
「あーれ、あれれ? あれ、白いねぇ、うんうん。白いしろい」
それはただの雪だった。圧雪で歩きやすそうなその雪道と、強い風に混じる雪が外を真っ白に染め上げている。
それは見慣れたイラストと変わらない。
「風?」
しかし本当に雪が風に吹かれている。よく耳を澄ませると、暴風のびゅうびゅうという激しい音が彼の耳まで入ってきた。体感できないが、風は吹いている。
「絵じゃない……風? 本物? 本当の、雪?」
五年前から成長も老化も止めてしまったその体で、窓に近づきへばりつく。目を凝らしても白以外の要素は見えるようにならなかったが、彼にはそれでも大きな刺激になった。
「……う、ううう! うう動いてる! 動いてるじゃないかぁーっ!」
思わず窓を思いきり叩き、その場で数度ジャンプした。
「ううう、うあああ! 生きてる、生きてる!」
顔をぐしゃぐしゃに歪め、ジャングルのチンパンジーのような甲高い雄叫びをあげる。彼は一人で喜びに咽び泣き続けた。その声は彼が閉じ込められた部屋と、彼を生かし続けている部屋の両方に響きこだまする。
「ある! ある! うああ、うわあああっ!」
生そのものを感じられなくなって五年、彼が久しぶりに見た「命」だった。
そして、瞬く間に数日ほどの時間が過ぎていった。
「六日も経って、まだわからないなんて……」
「焦りは禁物だ。奴らは被害者達を選り好みしている。帰ってきたメンバーを見ればわかるだろう?」
「そうですが……」
オホーツクの海で二十四人を救ったフロキリ救援合同チームは、現在もそのまま海の上に待機していた。
初動で動いたあの日本人スタッフ達も全員缶詰状態であり、心身共にかなり疲弊してきている。特に佐野の様子は鬼気迫り、周囲が心配になるほどだった。
「佐野さん、とにかく寝てください」
「ええ、奥さんびっくりしますよ。佐野さんのその……ヒゲ」
女性スタッフで佐野より一回り若い大柳が、常日頃の様子からは想像も出来ない今の佐野をストレートに表現した。周囲が言うのを避けてきたヒゲの二文字が佐野に突き刺さる。
一週間も剃らないなど、佐野の人生で片手ほどしかない。
「そ、剃ってくるよ……あとちょっと仮眠してくる」
「はいこれ」
「え、いいのかい?」
「カミソリとかは自分で調達してください。佐野さん肌白いし、剃り負けちゃいそうですから……」
照れ臭そうに大柳が渡した合革の化粧ポーチには、ベースメイクとスキンケアに使う女性らしい携帯ボトル一式が入っていた。化粧水や乳液を皮膚のケアに使えということらしい。「ありがとう」
「いいですよ、どうせ安物ですから」
「ほんとほんと。賃金低いのにこんな馬車馬のように働かされて、俺たちかわいそう」
「……成果が出れば、考えなくもない」
「まさかボーナス? わぁい! やったー!」
「おお~!」
話を聞いていた仲間達が賃金向上に無理矢理繋げて茶化すが、それを聞いた九郎がモチベーションを鑑み余地を持たせた発言をした。
成果とはつまり、被害にあっているプレイヤー達の「肉体の位置」の調査であった。
この数日で判明したことは多い。
救出され既に日本へ帰国済みの彼らは、何も知らず何もわからない状態で「空港で足止めをくって一夜を過ごさざるを得なかった」ことにされた。実際に事件当日の空港は多少混乱が起きており、ベンチで寝泊まりしている客の様子がニュースで報道されている。
しかしそれは晴天故の強風による被害者であり、彼ら二十四人とは関係のない平和な被害であった。そもそも日帰りで応援に来ているに過ぎない彼らがそれに巻き込まれるというのは、それなりの矛盾がある。それを完封するために人員を割いたのは、九郎が上と呼ぶ者達だ。
彼らは、九郎が隠蔽活動をほったらかしにして救援にまわっていることも不満であるらしい。それは彼の文章メッセージ受信ボックスに現れている。
上からの小言が固い表現で書かれたメッセージを、九郎は片っ端からゴミ箱に移して完全消去をかけていた。指示命令を受ける立場ではあるものの、九郎に命令遂行の絶対性はない。部下ではないのだ。
その上九郎は今、過去に培った仲間意識も国への従属感も取り払っている。残っているのは田岡を救いたいという自己中心的な目的だ。そのために上役たちを道具のように使っているに過ぎなかった。
「所詮老人どもだ。知ったことか。利益は吸えるだけ吸ってやる……思惑通りに動くと思うなよ」
独り言のように、しかし部下に聞こえる音量で九郎は呟いた。大柳達は薄々「上司の上司らしい存在」には気付いていたが、彼のこの発言でそれが九郎とは別の目的を持っているのだと気付く。
「ボス……」
察した大柳の視線をわざと見逃しつつ、九郎は虚空を見つめた。また一本やって来たメッセージには、九郎の行動で変化した計画部分を改訂した作戦指示書が添付されていた。厳重にロックがかけられたそれを、九郎は読みもせず廃棄する。
続けて部下達に指示を飛ばした。
「Sの動きに乗るぞ。布袋の生体ビーコンを最優先に、空港で拾った時のでかまわん、ガルドの位置コードも合わせろ。受信機が奪われていることを想定、特定した位置から|いつも通り《暗号化して別方法で解読》こなせ」
「了解。どこの借ります?」
「鳥取のやつだな。あそこは今すいているはずだ」
「申請します」
「あー……」
言い淀む声に、九郎が視線だけで「なんだ」と尋ねた。
「それが……あー、民間の機関ですが、すでに圧力がかかっているかもしれません……つくば、もう駄目でしたから」
「つくばが?」
「はい……」
部下の一人が申し訳なさそうにそう言うのを聞き、九郎は上の動きを甘く見ていたことを知った。彼らの行動を制限しようする動きは次第に活発化している。部下だった自分の害になることは察知していたが、こうも表だって妨害してくることは想定外だった。
しかし対策はある。
「久仁子」
「ええ。ワタクシの名前をお使いになって?」
久仁子、つまり阿国の名字は速効性のある爆弾のようなものだ。源流に旧華族を持つ彼女の名前は、現行の支持率低迷中の政府権力を容易く凌駕する。
「司法とマトリには負けますので悪しからず」
「十分だ。フ、まさかキメてるのか?」
「してませんのっ! ニコチンに頼るアナタに言われたくありませんのー!」
過激なジョークを言い合いながら、阿国は板かまぼこ程の大きさをした携帯機器を耳に当てた。卵のようにつるりとした、デザイン性が高いものの昔と進歩のない衛星電話だ。
「ハロー、お父様」
彼女は実の父親を味方につけ、アメリカとの交渉にアドバンテージをつけている。
久仁子はその事務連絡を行いつつ、さらに、先程出た鳥取の研究施設への手回しを依頼する。そこからはスムーズだった。
部下の仕事で膨大な電子処理が海を越え、日本の小さな田舎町に届く。日本に三桁あるという研究施設の中でも有数の、田舎には勿体ないほど高処理なマシンに委託した解析データは、アメリカ側が物理的に潜水艇から手に入れた情報と絡み合って整合性を増していく。
「恐らくこれで当たるはずだ。そこからは時間との勝負になる……我々は兵装を持たない。やれるのは情報戦だけだ。盗めるデータを根こそぎ奪い、動けるやつらに提供するぞ。国のプライドなど捨てろ。これは、利用し合う共同戦線だ」
事件を取り巻く様々な思惑は刻一刻と変化し、彼らはその最前線に立ち続けた。




