203 辞めるもの、震えるもの
<ココドコ>
<ウミ>
そうチャットで流れ、ようやく男はここが船なのだと気付いた。
巨大な船は揺れを感じさせず、体力のあった彼は早々に住居エリアの救護室へと徒歩で移された。所々英語で書かれた船内標識は咄嗟に読めないため、彼は今まで、流されるまま指示通りに時間を潰していた。
そんな中どんどん流れてくる膨大な日本語が、ここを船だと、そして自分達が何者かに拉致されたのだという顛末を教えてくれた。
<ヨクワカラン>
<オレタチモ ダ>
彼らの心配事は、自分のことよりも意識を失う直前の出来事の続きである。
<ロンベル>
<セカイタイカイ ハ チュウシニナッタ>
その言葉は毒のようにじくじくと苦しめた。男は目を閉じて壁に寄りかかり、悲しむように顎を上げる。
チャット上は世界大会の詳細を共有する片言の事務連絡で瞬く間に埋まっていった。
アメリカ政府の行動は早かったらしい。frozen-killing-onlineの運営会社に大会中止命令を下したのは、彼らが保護されて数分後のことである。
<オレタチ ガ ミンナ |ノウハコン《脳波感受型コントローラ》モッテルカラ>
<バレタ フロキリダト コンシュウ セカイタイカイ フロキリダケダッタ>
<オレタチ ノ セイ>
「いや、そもそもあいつらが悪い……連れ去ったとかいう……おっ、俺たちが! むざむざ捕まらなかったら! 大会は中止になんなかったみたいな言い方……くそっ!」
悪態をつきながら、男は肩にかかっていた毛布をばさりと脱いだ。独り言のように呟いただけだったが、同じ部屋にいた青年は呆けた顔で聞く。彼もまた、謎の妙齢女性に見せられたメモ経由でチャットルームを知り、その中で膨大な情報を注ぎ込まれた一人だ。
「きっと事件が起こるんじゃないかって、考えたことはあったんです……」
「え?」
青年は申し訳なさそうな顔で、悔しがる男にそう声をかけた。彼は寒そうに毛布を寄せ着込んでいる。
「ウワサで、聞いたことあったんです。フルダイブVRには政府の陰謀で隠された、なにかとんでもない秘密があるって……それって、こうやって連れ去られるリスクのことだったんですね」
ぶるりと一度震えながら、ウワサのことを青年が話し始める。他愛もない都市伝説のような話を聞きながら、男は脳波感受型コントローラの埋められた部分をかきむしりたい衝動に襲われた。
意識を失う直前、スマホで見られるブルーホールの簡易ロビーに報告が上がっていたらしい。チャット上でも単語が出てきていた。
黒いネンド。
固形物で無線式の黒い物体が脳波コンに張り付いた瞬間、視界が奪われるらしい。その後どうなるか分からないが、こうして船にいる以上何かが起こるのだ。テレポーテーションか洗脳か、なんであれ男にはこめかみの機械がひどく恐ろしいものに思えてきた。
これはただの伝達補助機器なのではなかったのだ。医師の言葉なんて信じてはいけなかったのだ。「ハッキングなんて、そもそも脳は生身ですからありえません。生身の臓器にどうやって電子情報に過ぎないウイルス送り込むっていうんです」などというデタラメを信じ、能天気に爆弾のようなものを埋め込み続けていたのだ。
「帰ったら手術受けるわ……」
「え、抜くんですか?」
「ああ。ダイブ機も売る。まだ高値で売れる。楽しかったけど、もう楽しくなんてプレイできない」
「残念です。僕は続けますよ……だって、」
怯えで震えているのかと思った男は、彼が別の要因で毛布にくるまっていることを知った。
「ムカつくじゃないですか」
「怒ってるのか」
若い彼は、武者震いに震えていた。




