201 家に帰ろう/帰れそうにない
弾け飛ぶ帽子に、ガルドはここがフロキリなのだと再確認した。
物質が物でなくなる時の粒子は昔と全く変わらない。氷の粒が室内のオイルランプの柔らかい光を反射し、自然に輝いてほつれていった。自己発光しないため派手さはないが、儚いそれがフロキリの落ち着いた雪世界に合っている。
「やっぱりここはフロキリのシステムが生きてるんだな……」
アバターでもリアルに近付けた容姿をしている榎本が、ツーブロックに整えた刈り上げ部分をわしゃわしゃとかいた。毛や顔のパーツも全てフロキリと差はない。
封入されているであろう真っ青な脳モデルは見えなくなった。こめかみが時おりチカチカと黄色に光るのは気のせいだろう。ガルドはそっと目を逸らした。
「ポーズメニューのコマンドは受け付けないが、アイテム装備は出来なければおかしいだろう。ほら」
マグナが壁にかかっていた片手剣を掴み、わざと手を開く。パーまで開かなければ、剣のグリップは手の中でくっついたまま落ちない。
「『ひっつき』に説明がつかない」
「おお! そこもか!」
「じゃあ何とか着れるんじゃないのー? これ」
メロが体に装備を手で合わせ、くるりと一周回って見せた。
「着方が分からないよ」
「普段通りボックスの装備選択画面じゃないのか?」
「ボックスがアバター同様そのままこっちに来ているかは……別問題だがな」
「そもそも店員がいないと買えない。さっさとホームに行こう」
「欠落だらけだな、全く。ひっつきがなかったら、俺たちは物を握るのに人差し指から小指と親指をバラバラにコントロールしなければならない。想像以上に大変だぞ」
マグナが散った粒子を見つめながら言った。
VRゲームでの補助システムには名前がついていないことが多い。プレイしているユーザーが勝手に呼び始めた通称が公式に逆輸入されることもたまにあるほどで、ひっつきは武器装備の補助システムを意味していた。
握るという動作のイメージ有無で武器を取りこぼすというのは、アクションありきのゲームでは致命的だ。武器装備や防具装備は「身に付けたときに自動でその場所にキープする」機能が当たり前のように浸透している。ゲームタイトルに固有の名前がある場合を除き、日本では「ひっつく・ひっつき」で通る。
ある程度の仕組みは普段通りだ。ガルドはほっとし、この調子で服も着られれば良い、とチラリと目線を下に動かす。筋肉がこれでもかと隆起している胸部が邪魔をし、下半身は見えない。
「俺ら、歩行補助がないとロクに歩けないんじゃねぇの?」
「当たり前だろう」
「物理エンジンだけで歩いたり走ったりなんて無理だよー」
「腰から上が後ろに倒れるんだったか? そこんところどうなんだ、マグナ」
「詳しいなジャス。前にも倒れるが、後ろの方が多いぞ」
「こうか!?」
「そうそう、そのまま両手床につけて〜」
「ブリッジだな、それ」
「ははは! そのまま階段降りてみろよ!」
「どこのホラー映画だ! 裸のドワーフが逆さでとかヤメろ!」
「む、ヒゲがひっくり返って前が見えん」
「っはは! あはは!」
「バカなことしてないで起きろ、さっさと歩け」
そう雑談を交えながら、さっさと店を退出する。不便なゲーム内から脱出不可能なのだが、にも関わらず緊張感は無く、ガルドを含め全員が満面の笑みを浮かべていた。
しんとした部屋に、ドアベルだけが揺れる。ちりんと優しい音色が響いた。
彼らが立ち去った店の奥、ゲーム中では作られてすらいないモデリングの空白地帯。ベルの音が広がっていき、次第に溶けて消えてゆく。無音になるはずの店内に、ノイズのような音が残った。
データ上では床も壁も存在しないはずだが、少しずつ小物や家具がワイヤーのようなシルエットで自然発生してゆく。
装備用品を置く店らしさだろうか、革用の黒いクリームが入った陶器の器に形作られてゆく。針や糸、足踏みミシン。金具の見本や、ロール状に立て掛けられた布地が続々と生まれはじめていた。色は無い。それは、今後ディティールが深まれば「人の気配」となるだろう装飾品のベースだ。
小さな変化だ。
六人は気付かないまま、煉瓦が連なる町を歩いた。城より向こう側に位置するギルドへと、初心者時代の思い出話に花を咲かせながら家路を急ぐ。ギルドホームにさえ着けば裸足ではなくなる、服を着るシステムが生きていると信じて歩く。
ガルドたちは何かが蠢く城下町に気付かず、家を目指して歩き続けた。
家にはしばらく帰れそうにない。
佐野仁の妻・弓子は思ったよりも前向きな捨て台詞を残して通話を切っており、それが佐野の心配事の一つを吹き飛ばしてくれていた。それでも、あの一軒家に妻一人残しているのは不安だった。
「久仁子さん、ありがとう」
「これくらいどうってことありませんの、で。コホン。気になさらずドンドン申し付けくださいな」
黒髪を撫でつつ久仁子が胸を張る。自信に溢れた民間人女性は、他国へ非常に太いパイプを持つ富豪らしい。つい先程の妻への連絡は、彼女の協力がなければ不可能なことだった。感謝をもう一度述べる。
佐野が持つ端末は、会社側が信頼できるとジャッジした中継基地局が無いような海洋エリアでは私的な通信や電話は出来ないように設定されている。コンプライアンス、という呪いのキーワードが行動すら制限していた。
「また連絡と『避難』頼むかもしれないけど、いいかい?」
「ええ、もちろん!」
「助かるよ」
「義母様のお気持ちも大事ですもの。万全の状態でサポートいたします」
佐野は能天気に「あの子の母という意味でオカアサマかな?」などと考えていた。
「彼らがこうして無事に帰ってきた前例があるお陰で、妻には良い言い訳ができたよ」
「これから彼らは口止めされて解放されるでしょう。恐らくロクな情報を持たないでしょうし、政府は事を荒立てることもリークされることも嫌がるはずですの……敵は強大で、しかも複数。厄介ですの、よ」
日本側スタッフが詰めている部屋をわざと避け、被害者達が数名保護されている医務室で立ち話をしている二人は、その内容が一般人に聞かれても構わないようにと隠語を駆使して会話していた。
この場所を選んだ理由は、ボス九郎に隠れて動きたい佐野の意図がある。しかしもう一点別の思惑が絡んでいた。
久仁子は、被害者の一人に漢数字の書かれたメモを見せながら会話を続けた。
目線は佐野から動かさず、被害者の顔もチラリと見た以降は興味を失ったかのように無視する。外からは、佐野との会話に全能力を集中させているようにしか見えないだろう。逆に佐野が意識しすぎて久仁子の手元を見てしまいそうだった。
ベッドに腰掛け毛布を肩から羽織った被害男性は、久仁子の顔とメモを交互にきっかり四回見比べた。
「もちろん大本の原因はきっちり潰すよ。もう一方は……こちらが悪いことをしてるのは自覚してるからね」
「何をするにしても、ワタクシは味方です」
「心強いな、助かるよ」
上品に笑う同年代の久仁子へ、佐野は信頼を寄せ、同じように微笑み返した。




