176 黒と涙
視界に入る黒は全て偽物だと気付いていた。
ガルドは、フルダイブのゲーム世界が紛い物だとは思っていない。デジタルデータの世界も人が情熱を傾けて作ったのだ。血と息の通う「人が住む世界」だと信じている。
だからこそ、この黒は偽物だ。ガルドは忌々しい漆黒を睨み付けながら、無意識に歯を噛み締める。誰も居ない、何者ともコミュニケーションがとれない世界。やる気もこだわりも感じさせない空間は、果たして世界と言えるのだろうか。
ここはなんだ。
「牢獄……密室……地下室……ガス室……」
気をヘドロのように重たくする言葉が漏れ、頭を振って追い払う。良くない流れに悪寒がした。忘れようと思えば思うほど意識してしまう。
浮かんだ単語は、状況を表現するのに全くふさわしいものばかりだった。まさに牢獄のような暗闇密閉空間で、それでもガルドは取り乱すことなく、その場でじっと座り続けた。不安感と混乱は別物だ、と恐怖を抑え込む。
「ふぅ……」
飲み込まれないよう一つ深呼吸をしてから、先程まで考えていた不穏なワードをきっかり三分使ってすっかり忘れることにした。
大事なのは今の自分そのものだ。
自分が抱える自分の体に集中し、普段との違いや感覚に意識を向ける。
体育座りでじっとしているガルドは、リアルと同じ大きさの膝に違和感を覚えていた。このデジタルな感覚に包まれる世界で、アバターではないサイズの体でいることが気持ち悪い。
艶どころか立体感すら塗りつぶしたような黒髪を一筋、指でつまんで観察する。
家庭用機器に限れば、毛先まで精密に3Dトレースするような技術はまだない。大型のそれは専用のカメラと広い空間、そしてそれを処理する大型のコンピュータユニットが必要だ。自宅用にまで小型化する技術力はまだ無いはずだった。
それが今、なぜかガルドは「みずきの体つき」をそのままトレースさせられている。
いつもの体は膝がバレーボールのように大きいはずだ。しかし今のガルドの膝は、テニスボールほどかそれ以下だった。
「——何時間、経った」
空港に持ち込んだとは思えない。逃亡中に意識を失った自分達を運びながらスキャンする余裕があるようにも思えない。
ガルドは、空港でぷつりと記憶を飛ばしてから相当時間が経っていると予想した。二、三時間だろうか。空港から脱出した後に、アジトかどこかで自分達を電子空間に閉じ込めたのではないか。そう考えるとガルドは、自分の体が人質のように思えて恐ろしくなる。
仲間といたあのラウンジと、窓から見えた白の乗り物が懐かしい。さらに前の、父を迎えにいったときにも見た白も思い出す。
それを眺めるだけだった自分。
とうとう乗れなかった。
飛行機はとっくに出ている頃だろう。顔をむすっとさせて膝にくっつけた。
「……んぅ」
体温がない。
寒くもなく暑くもない。そもそも床に座っているはずなのだが、材質が柔らかいのか固いのかも分からない。どうやら「情報がない」ことで無の存在になっているらしい。ガルドは悪寒が止まらなかった。
こんな時はどうすればいい。じわりとまとわりつく恐怖に負けないために、今の自分が出来る解決策を探す。
今日は無理でも、いつか仲間達と共にハワイへ行くのだ。そう気持ちを取り直し、続けざまに空港での出来事を思い出す。
脳裏に現れたのは虚ろな瞳だった。空港で大暴れしたオレンジカウチの狂乱ぶりが蘇り、データで出来た目がつんと痛む。
「……はぁ」
もうため息しかでない。そして、冷静に現状を見直した結果、ガルドのモチベーションは大きく下落を始めた。
ハワイでの世界大会は、果たして通常通り行われるだろうか。
「う、」
視界とお揃いの黒色に染まっていく気分に、必死に抗うよう希望を呼び寄せる。
凄そうな仕事をしているらしいチーマイのサブマス・ぷっとんがついている。せめて世界王者くらいならば決まるだろう。日本サーバー代表の自分達がダメだとしても、他の国同士で戦っているところくらいは見たい。
それすら叶わないのだろうか。ガルドはどんどんと絶望を強めた。
そして、こんなときに限って戦闘訓練中の仲間達を思い出してしまう。あれだけ必死に努力したのは高校受験以来だった。そうして悶々と、暗い思考を繰り返し続けた。
ガルドは今まで幸運で、勉強に多くの時間を割かなくても済んできた。しかし人気ゲームのトップランカーに居られるほど暇人ではない。
過疎化が進んだfrozen-killing-onlineだからこそ世界大会レベルにのしあがってきた。そこに幾栄にも重なる偶然が、最高峰の仲間と出場という機会を届けてくれている。
そしてガルドは、実力そのもので世界レベルになったわけでは無い事実に気付いていた。
雪の世界で出会った仲間たちと、今日という日を迎えられた奇跡。
陳腐な言葉だが心に刺さる。ガルドが人生で「今が一番幸せだ」と言い切れる自信があった今日、それを砕くような惨劇が立て続けに襲ってきた。
その暴風のような苦しさに、ガルドは目をつむり必死に耐える。
「う……くぅ」
涙は出ない。無駄な感情出力エフェクトなど存在しない世界にいるガルドの目は、ただのパーツに過ぎない。
シャボン玉のように浮かび消える思い出が、孤独なガルドを苦しめた。オフ会の日から心にしまっていた将来の夢、リアルで初めて会った仲間の顔、努力した日々。その一つ一つが泡のように現れてくる。
そして本当に唐突な出来事のせいで、その全てがあぶくのように消えてゆく。
「おわり……全部……」
まるで死刑宣告。ガルドは膝を抱えて臥せり続けた。




