156 落ち着きと煙草の香り
「閣下、平気?」
「……ん、へいき」
騒ぎは急速に沈静化した。阿国の雇った私的な警備の集団と、空港側の制服警備員が何事かやり取りをしながら黒づくめの男を取り押さえている。ガルドには、それから先のオレンジカウチの動きはわからない。
ボートウィグに強く抱え込まれていたということに、当の本人は少し経ってから気付いた。暗闇だと思ったそれは、グレイのパーカーでおおわれた肩だったらしい。腕のようなものは、やはり腕で間違いなかった。
強制的に視界を封じられたガルドは、幾分冷静さを取り戻すことが出来た。影武者が首を、つまり命を狙われているらしいシーンをこの目で見てしまったこと。それはガルドにとって大きな衝撃だった。
「さすがの筋肉ですね。あいつ触れもしなかった……大丈夫、悪いのは全部あいつですから」
「……ん」
「あ、『そもそもの原因は自分だ』とか考えないでくださいね。悪いのはあいつであって、閣下には落ち度一つ無いんですから」
「……ん」
「閣下」
ガルドの表情は曇り、陶器のように固まったままだ。ただならぬ様子に気付いたボートウィグの顔色が変わるのに、ガルドは逆に気丈に振る舞う気力を得た。そうしなければさらに彼を心配させることになる。
「だいじょうぶ、もう行くから」
振り絞った声は、尚更小さく弱かった。喉が乾燥していてうまく発声ができない。痛みはない。ささくれた心がガルドを襲っているだけであり、物理的に痛みなど無いはずだった。
「あの! 榎本さんを、もっと頼ってください……僕は肝心なときに、あなたの側を離れざるを得ない。だから僕の分まで、あの人があなたを守ってくれますから」
年長者の顔をしたボートウィグが静かに、いつもとはまるで別人のように語りかける。その彼の気持ちと言葉が、がさがさに乾燥した心に染み込んでくる。
「ん、ありがと」
目線を上にあげる。ボートウィグとガルドの視線が、ぱちりと何秒か混じり合った。一瞬のようで長く暖かい感覚がガルドの視界を覆い、恐ろしい景色を覆い隠した。
「僕はエコノミーなので、飛行機じゃ合流できないですね。残念ですが、次はハワイで会いましょう!」
そう手を振って離れるボートウィグの背中に、ガルドは唐突に彼を困らせたくなった。例えば頭突きとか、服を引っ張るとかをしてやりたい。困らせてもきっと自分に都合の良い反応しかしないはずだ。非難はしない。文句も言わない。そういう男だ。
自分の「将軍の呼称」を模したニックネームを呼び、少し困ったような照れたような、眉尻を下げた顔をするくらいだろう。不安と恐怖に溺れて苦しんだ自分を軽々と掬い上げたボートウィグの姿に、ガルドは小さくショックを受けていた。
今まで彼を軽んじていたのかもしれない。
自身に都合の良いことしかしない、悪く言えば、それ以上は自分に影響を与えない男だと思っていた。
そしてそれは間違いだった。彼は一人の男で、アバターのガルドはともかく、現実のみずきよりもずっと年上だ。くたびれているせいで老けて見える三十代の社会人で、自立し、一人でフルダイブ機を買える程度の経済力がある。親のおこぼれである自分とは雲泥の差だ。
それを自分は、まるで自分より意思が弱いかのように扱っていた。彼もまたそれを甘んじて受けていた。
「細いけど、強い」
その腕を思い出す。取り乱した自分を引き上げたその腕は、しっかりした大人の腕だった。
そしてふわりと舞った鉄の向こうに、かぎなれない煙草のくすぶった香りを知った。




