153 首と腕と
壮年の男の愛車は、颯爽と有楽町から成田に向かった。自慢の愛車はボディからインテリア、シートまでモノトーンだ。シルバーからブラックまで多様な無彩色に整っている。車体は緩やかで美しい流線型をしており、低い車高で滑るように首都高を抜けて行く。かれこれ六年来になる相棒だった。
車内で音楽を流すこともせず、サイドミラーに当たる風や周囲の車が発する存在音、愛車が奏でる力強い足音を全身で受け止める。心地よい。
銀色のボディに太陽光を反射させて輝くそれは、都心を血管のように這う首都高を軽やかに抜けていった。
唐突にBEEP音。
初期設定から変えていない着信音が耳障りに音をたてる。音声認識で通話開始をスタートさせると、挨拶もなしに聞きなれた女の声が響いた。
「九郎っ、ちょっと厄介なことになってるんだけど!」
元同期の女から音声通信が入ったのは、空港まで残り一時間といった辺りであった。
空港では男が暴れていた。
悲鳴こそあがらないが周囲には動揺が広がっている。もちろん男が集団の中心に向けて起こした行動がその原因だ。撮影していた動画も慌ててここで途切れ、オンラインで様子を見守っていた遠方のフロキリユーザー達は驚愕に包まれSNSで文句を言い合っている。
本来であれば一般審査エリアよりも静かなはずの、時期的に騒がしく人の多いファーストクラス用審査エリア。その少し手前、人々が退いて開けたその場所に立つ男が二人。
オレンジカウチが影武者の男の首を絞めにかかったのが、そもそもの事の発端だった。
今まさに飛びかかっており、首に手を伸ばしてうなり声をあげていた。れっきとした暴行現場で、しかしそれは暴行未遂で終わる。
腕に目一杯力を込め狂人が人を殺そうと走ってくる時点で、影武者は臨戦体制をとっていた。かなり近づいてきた男の死んだような目と影武者の睨みがバチリと合う。そして首に伸ばされた手に気付き、疑問無くそれに対応した。
日々の筋トレに裏付けられた美しい豪腕が、華麗に素早く手首を掴む。
「ふんっ!」
「ひひっ……ひいぃ!」
笑いから悲鳴に変わる男の様子は、不審者以外の何者でもなかった。
この男が何をしようとしたのか、周囲の野次馬はよく分かっていない。
分からないが、それなりに考えた。世界大会出場メンバー(の影武者)の首の直前で止まる手、あたかも首をしめようとしているかのようなしぐさ、そしてそれを見事にガードしている英雄然とした大男。
そして「ガルドが何者かに首を絞めかかられている」のだと気付いた人物がいた。弾かれたように人の群れから勢いよく飛び出す。
「てめえ!」
咄嗟にその凶行に反応したのは、ガルドを模倣して大剣使いをしているファンプレイヤーの若者達だった。
三人組で壮行会に来ていた彼らは、影武者をガルドと信じて彼のすぐそばに立っていた。声を掛けずにいたが、瞬く間にエリアに吸い込まれたメンバーを見て慌て、手に持っていた色紙とマッキーを渡そうとした瞬間のことだった。
これはゲーム内の戦友とじゃれているのではない。そう気付けたのは、彼の小さな震えを見つけたからである。
ガルドが密かに震えているのだ。
「だああぁ!」
オレンジカウチからの危険にガルドが一人で立ち向かっているのだと思った一人が、咄嗟に男のリュックを掴み後ろに引いた。
痩せているが高校時代に野球部だった彼は、大学入学後もリアルでのガルドを再現すべく筋トレを続けていた。幸いにも効果が現れており、筋力と踏ん張りでオレンジカウチのリュックが肩もろともどんどん後方に下がる。
ここでようやく、周囲にも彼がハプニングに見舞われているのだと伝播していった。




