152 仕事の合間の談笑
有楽町の、古いビルディングの一室。ここにも成田に向かう男がいる。
その先には常夏の島が待っている。しかし彼は仕事人生をかけた大きな事件に立ち向かいに行くのであり、世間一般の島遊びをする予定はなかった。
「社長、また出張?」
「らしいな。急に決まったとか」
モニタを一人四台、さらにレーザー投影を二つ重ねたスクリーンレスのデュアルディスプレイが中央に鎮座している。その異様に高い技術を一人一人、全員に惜しみ無く配るオフィスで、三名の男女が休憩をとっていた。
「え、出張なのかい?」
「今あちらで準備してます。上から正式にGOサインが出たとかで……また何か事件に首突っ込んでるみたいですよ」
ボスの出張を他人事のように話していた男女に、優しげな表情のスリーピーススーツの男が声を掛けた。標準体重をキープしているものの、少しふっくらし始めた佐野家の大黒柱である。
みずきの父、佐野仁はGW初日から不運にも出勤日であった。
手にはコンビニのアイスカフェオレとイチゴ味のドーナツが握られ、その視界からの甘味が男の方の部下にダメージを与える。
「うっ、甘そう……」
「三橋、痩せたなぁ。食べなきゃダメだぞ?」
「食ってるっす。それ、見た目だけで満腹中枢満たしてくるので離れてくださいよ」
鶏ガラのようだと娘にまで評される程痩せている部下の男は、そっとドーナツが視界に入らない位置に椅子ごと移動した。
社内で自由に私物持ち込みを許可されている椅子にキャスターつきを選んでいる彼は、するんと佐野の隣に陣取る。視線は同僚の女性に向いており、これでドーナツは目に見えなくなった。三橋はホッと息をついて背もたれに体重をかけた。
「ところで事件って、ボスまた長く留守なのかい?」
「ええ。一週間程ハワイですって」
「ほんとかい、凄い偶然もあるもんだね」
佐野が隣の三橋に振り向きながら言った。
「ぷわっ!」
手にしていたピンク色のドーナツを半分に割り、部下の口に押し当てる。食え、食わないと押し込むと言わんばかりに力を込めた。詰めたまま悲鳴をあげるが、部下三橋に対する佐野の愛だと女部下も理解している。助けずに会話を続けた。
「偶然?」
「うちの娘も今日からハワイなんだよ。ほら、前に相談した……」
「ああ、彼氏さんとハネムーンするのを阻止したっていうあれですか」
「もご、ちょっと佐野さんやめてくださいよ!……甘いし、そのみずきちゃんの件も甘いです」
ドーナツを受け取らざるを得なかった部下は、以前空港で会った上司の娘を思い出しながらそう忠告した。
「甘いかな」
「激甘です。その付き添ってくれる女性とやらも怪しいですし、男は狼なんですから。てか未成年をキープしとくなんて、ロリコンじゃないですか」
「それは心配だけど、娘の方がその手のことに無知だったから……きっとまだ清いと思うんだけどなぁ」
父は心配が尽きない。
数日前自宅に挨拶に来た桜子という女性は、むしろ自分に年齢が近い程度に熟女だった。もしそちらが本命で、娘のみずきは別枠の扱いだとしたら。最悪の展開に父はおののいた。
「うぅ——いやいや、もう高三だよ。僕が高三のころはもう今の妻と付き合ってたし。やることやってたし」
「えー? じゃあみずきちゃんにとやかく言う資格ないじゃないっすかー」
「かわいい娘を、かわいいかわいい娘を、どこの馬の骨ともわからない奴に奪われてたなんて……一生の不覚だと思わないかい三橋君?」
「なんすかその屁理屈ぅ」
「でも素敵な恋人だと思いますよ。女心を良くわかってて、今出来る精一杯で幸せにしてくれようとしてるのが伝わってきますもの」
女性の部下がそうフォローに入る。会えない時をフルダイブゲームで、会えるときにとびっきりロマンチックな旅行へと連れ出してくれるのだ。憧れの恋である。
そしてそれを高校生で体験できるのは貴重だ。大人過ぎるその恋を女部下が褒める。
「でも、同年代の不器用で純粋な恋愛は出来なさそうですね」
「どっちが良いんだろうなぁ」
「どっちでも良いですけど、ハワイなんてずるいっすよ。高校生で海外なんて」
「ハワイかぁ、着いていきたい。いいなぁ、ボスばっかりずるい」
佐野がそう羨ましそうな声をあげると、後ろから黒い気配がした。
「行きたいのか?」
心臓に響く重低音の声が佐野に向けられる。
「い、いえ……いや、行きたいんですけど。仕事ではなく……」
珍しくしどろもどろに返す佐野に、ボスと呼ばれたオールバックのエリートも部下二人も笑顔になる。
「ふふ、ほんと佐野さん子煩悩ですよね」
「なるほど、今日からゴールデンウィークだったか。初っぱなから仕事ですまんな」
「いえ! どうせ娘も海外なので」
「そうなのか……では、奥方と羽を伸ばすといい。明日から三連休だろう?」
「そうさせてもらいます、ボス」
「社長もハワイ、楽しんできてくださいね」
「フ、仕事だがな」
衣類など入っていなさそうなジェラルミンケースを手に、シャツもジャケットも黒で揃えた壮年の男がオフィスを出る。
「……留守は頼むぞ」
「お気をつけて」
部下達に見送られ、男は足取り軽く階段を降りた。計画以上に事がうまく進んだこともあり、上機嫌で車に乗り込む。皮張りのシートに体を預け、長時間の運転に耐えられるポジションへと腰の位置を調整した。
本来、進捗的にはまだハワイに行けるような段階ではない。上への前回の定期報告では「信憑性に足らない」と一蹴されたばかりだった。
彼がターゲットにしていた「対象」の搭乗日になって出張が決まったのは、アメリカ側からの口添えのお陰であった。




