15 酒場・雪うさぎ亭に集合
夕暮れの、歩き慣れた最寄駅までの道を足早に進んでいく。
母親のショックを受けたような顔がこびりついて離れない。こんなことを考えている暇などない、とみずきは頭を振った。これから一世一代の、みずきのまだ短い人生の中で最も大きな問題にぶち当たるのだ。親のことなどどうでもいい。
閑静で坂が多い住宅街が続く。その一軒一軒にまるで母がいるかのように思え、苛立ちを覚えながら足早に歩いた。
みずきはあまり電車に慣れていない。通学で使用しないため、一ヶ月に二回乗れば多いほうだ。多少もたつきながら、メモした乗り換え駅を指折り数えて乗り換えた。横浜の東戸塚駅に住むみずきは、東京駅で乗り換えて秋葉原に向かう。
結局、旨い店というのは予約がとれないという残念な原因で場所が決まらなかった。そんな折にグダグダした話し合いの顛末を聞き、そこそこ旨い肉料理を出す店が会場に名乗りをあげてくれた。
それは大規模戦闘専門でプレイしているメンバーがオーナーをしている、秋葉原では至って普通のアトラクション付き居酒屋だった。
秋葉原駅から数本道を逸れた裏路地の先へ、みずきは一人でどんどん進む。モノアイタイプのプレーヤーに表示したナビに従い、ある一件の店にたどり着いた。着いた途端、門構えですぐにここが集合場所だと分かる。
見覚えのある建物だ。雪深い外国の山小屋のような、重厚なオークルの扉が中央に鎮座している。ドアノブは鈍錆で、繊細なライン模様が施されていた。
はめ殺しの窓は分厚い。少し濁りのある半透明の、歪みのある手作りガラスだ。表の看板には、雪うさぎ亭という可愛い店名が木のレリーフで彫られ、上からスポットライトで照らされている。名前は違うがどこかで見たような形だ。
近代的な商業ビルに囲まれている秋葉原の街で、この一角だけが小説の指輪物語のようなファンタジーで出来上がっている。
ここは「RPGに出てくる酒場」を忠実に再現している特殊な居酒屋だ。秋葉原という立地もあり、コアな固定ファンが夜な夜な集まってくる。客層はゲーマーが中心で、名物は全国各地の地ビールと香り高い香草のグリルチキンだ。
「う……」
とっくに決心はついていたはずだ。みずきはもう一度決意を振り返る。
正体を打ち明けるのは胸が張り裂けるほど苦しいが、逃げ出そうという気持ちは欠片も起きない。今日は仲間たちに会うために来た。帰るつもりもない。必ず海外に行くのだ。
だが、と足踏みする。
この扉を見ると入りにくい。女性一人で焼肉屋に行きにくいのと同じように、みずきにとって「一人で居酒屋に入る」ことはハードルが高かった。
まだ集合時間まで二十分ある。八秒ほど店の前で立ち止まったみずきは、そのまま店を通り過ぎた。どこに向かうでもなく、ふらふらと時間を稼ぐために。
「やばいなー、今月は素うどんでしのぐしかないなー」
上機嫌で重そうなこげ茶色のテーブルに突っ伏しながら、男がそう口にした。カジュアルなロングシャツにダウンベストを重ねた、スポーティなファッションをしている。派手すぎない程度のブラウンの髪を半分刈り上げたツーブロックで、アゴヒゲも合わせると若く見える。
手にはくびれのある独特な形をしたグラス、そこに琥珀色のビールがなみなみと注がれていた。イギリスのパブで使用されているビアグラスだ。ジョッキほど厚くないそれは、軽やかにドリンクを口元に運ぶ。
「調子乗ってあんなでかいの買うからだろう。少し考えれば分かる話だ」
「理性より欲望が上回ることだってあるだろ?」
「それじゃ世の中犯罪だらけになるって。ま、分かるよぉ。買っちゃうよねぇ~」
ニヤニヤしながら「貧乏になった」と愚痴る男に冷たい小言を言っているのは、特徴のない顔の男だった。
寒色系のカッターシャツとニットベストという質素な組み合わせに、チノパンと革靴を合わせたコーディネートだ。シルバーフレームのメガネがキラリと光っている。長いこと散髪屋に行っていなさそうな少し長い黒髪とマッチしており、理系らしさが前面に出ている。
手には日本酒の入った猪口をもち、近くには熱燗が待機している。九州に住んでいる男は、普段飲まない東北の日本酒を楽しんでいた。
その隣で頷きながらレモンの刺さったハイボールを傾けているのは、襟ぐりの開いたエキゾチックなだるニットを着ている男だ。安物のバングルやピアスなどを程よい量身につけており、ただの派手好きとは違うセンスを感じさせる。だが、壁のハンガーにかけてある彼のアウターは南アフリカの民族衣装のような布地を使っていた。ファーが付いているところが雪国仕様だ。
ウェーブのかかった長めの明るい茶髪をシュシュで止めており、ピンで前髪や耳元を抑えている。近寄ると香る程度のフレグランスはスモーキーで、香水の甘さが無い独特のものだと分かる。
彼らは予約の時間より早く入店して話に花を咲かせていた。休日ということもあり、一日フリー組は都内の観光を行ったのちに秋葉原に来ていた。
スポーティな服装をしているのは榎本だ。都内に住んでいる割に秋葉原にあまり来ないため、機械に強いマグナの助言を得ながら、データバックアップ用の外付け記録機器を購入した。配達を頼むような一m近いタワー型で、値段は榎本の懐的に厳しいほどに高価だった。
VR映像のデータは一昔前の2Dと比較してみると容量が大きく、年々肥大化している。近く次世代型のデータ保存形態が発表されるらしい、という噂を信じていた榎本は販売を待っていた。マグナから「いやあと三年は出ないだろうな」と今日聞いたため、すっぱりと購入を決めた。
「ガルドと夜叉彦はともかく、ジャスは迷わず来れるか心配だな」
「賭ける?」
「迷うに決まってんだろ」
「同じく」
「賭けにならないねー」
最後にリアルで会ったのは三年前だが、自然に会話が運ばれていく。容姿について話題に登ったのは合流直後の五分だけだった。
相変わらずの二人を見て、マグナは悔しくなった。自分だけが一層老けたように思え、もう少しファッションに気を使わなければと気持ちを改める。まずは理髪店だ、と髪をひとつまみつまんだ。まだ来ていないジャスティンはハゲだ。変わるとしたらヒゲ程度だろう。髪をピンと弾いて猪口を持ち直す。
そしてマグナは、ぼんやりとまだ見ぬメンバーを想像した。夜叉彦はおそらくほとんどあの姿だ。タレ目で、犬みたいで、真面目な服を着ているだろう。
流れるようにガルドを想像し始めた彼の脳裏を一瞬、肩の小さな女性が通りすぎる。思い出したのは、ギルドホームで剣の手入れをするガルドだった。
容姿に似合わず丁寧な仕事で、中心の宝石に素材アイテムを振りかけ布地で磨いていた。その姿が何故か、自宅のキッチンで洗い物をする恋人の後ろ姿に被ったのだ。
筋肉もりもりのビルドを施しているアバターを愛する女と重ねてしまった理由が、マグナには検討もつかない。だが早三年の付き合いのなかで、直感からガルドのリアルが全く別系統の容姿をしていることには気付いていた。
それは凛とした背筋であったり、指先の力の入れ方であったり、歩き方だったりした。おそらくリアルは細身だ。マグナは日本酒を一口飲み、脳裏で二人を思い出す。
マグナの恋人がそうであるように、ガルドには物を触るときに接触面と手を同じ角度にする癖がある。決してがしりと掴んだりしない。タッチパネルなどを人差し指だけでなく中指でもコントロールし、歩き方はモデルのようにまっすぐで無駄がない。そのわりに座り方が雑で、丸まってコンパクトになることが多い。
ガルドは、いいところの若いお坊ちゃんなのではないか。草食系、ジェンダーレス、女っぽい男。
マグナはそう考えていた。
マグナの恋人は後ほど再登場します。同棲しているため事実婚で内縁の妻ですが、マグナは彼女を恋人だと言い張っています。




