109 とろとろ角煮
鍋を見ている父は、菜箸を持ちながら「スターアニス、入れすぎちゃったな」などと困った顔をしている。
「ほんと凝り性」
「たまの趣味なんだ、凝れば凝るほど楽しいよ。ほら、どうだい?」
「やわらかい」
「そうかい? よかった。ほら、母さんも」
そうひと切れの角煮の乗った小皿と箸を差し出す父に、小言の続いていた母も折れた。一口つまむ。
「……ええ、とてもおいしいですよ」
「母さん、素直に指摘してくれてもいいんだよ?」
「あなたの料理はいつも美味しいですよ」
「お店の料理には果敢に指導入れるのに?」
「そんなことしてません……」
「料理人はきっと、有りがたいと思ってるよ。文句じゃなくて講評だからね、母さんのは」
「そうかしら?……香辛料が全面に出すぎなのと、もう少し甘味が強いと美味しくなるかもしれないわ」
「ははは、やっぱり入れすぎだったかな。それに砂糖少なかったかぁ、今いれても『さしすせそ』で染み込まないからね。次回かな?」
優しい表情の夫婦の背中を、みずきは内心肩をすくめながら見つめた。父が居ないと母は生きづらいだろう。父はそんな母を昔から支え、尊敬している様子だった。
我が家の両親は役割が逆転しているようで、一般の様式に納めようとどちらも努力している。そのため齟齬が出ているのだと思う。父より多く稼ぐ上に仕事人間だが、家事全般下手な母。負けじとせっせと働くが、綺麗好きで料理が得意な父。頑固な母、穏和な父。
みずきは何度も、父が専業主夫で母が稼げばいいのにと思っている。今もそうだ。役割分担も、精神的なこともそうだった。叱る母、それをたしなめ逃げ道になる父。みずきにとって、母的なことは全て父に求めてきた。
だが、父を大黒柱に据えている母は「父さんの決めたことに従う」といって、責めていたはずがころりと意見を百八十度変える。その矛盾も、みずきは好きではなかった。
炊飯器のチャイムが鳴る。
「ちょうど炊けたね」
「やる」
「ありがとう。はい」
父が食洗機からしゃもじを取り出し渡す。受け取ったみずきは茶碗を手にジャーを開けた。
ぱかりという開錠の音の後、ほかほかと粒立ちつややかな白米が顔を出す。
「いいにおい」
人間、向き不向きがあるものだ。
てきぱきと食器類を出し食卓をセットする父を手伝いながら、みずきは母をちらりと見る。立ってはいたものの、素早い父についていけず「座ってていいよ」と促されてしまう始末だった。
そんな母は、父よりよく稼ぐ。保険にも詳しく、金銭管理にも鋭い。一家の共有貯金管理を任せていたら、いつのまにか何割かを資金にして投信で増やしてきた。父が苦手な「大黒柱役」をこなしている。
母は嫌いだ。だが、どうしても大嫌いにはなれなかった。
「晩御飯にしよう」
家族三人でこのダイニングを囲むのもずいぶん久しぶりな気がする。父の出張前、母の仕事が忙しかった時期より前、一体いつのことかと思い出し、それが二ヶ月を越える昔だと気付き戦慄する。
我が家はどれだけすれ違っているのだろう。口をつけた味噌汁は少ししょっぱかった。




