第二章49 リフレーミング④
――時を同じくした頃、防衛省市ヶ谷庁舎内の一角が慌ただしい動きを見せていた。
週の頭に決行された第一次作戦の第一フェーズは結論から言えば、成功した。
発射した二機のミサイルのうち一機がバリアを突破し命中。漆黒の船体に黄色い花を咲かせた。この報告に本部は湧いた。が、本フェーズでは、久瀬まゆりが警告した「作戦通りの攻撃はしてはいけない」という事柄については果たされなかった。
その結果――第二フェーズに移行した際ミサイルの一機が撃墜された。第三フェーズでは四機中の三機が落とされた。第四フェーズでは全機が。第五フェーズも同様の結果に終わり、第一次作戦は中止。
当初、久瀬まゆりの発言と作戦結果についての因果関係は相当に疑われていたのだが、ほどなく、本作戦の結果をそのまま予知した噂が現場のいたるところで広まっていたことが発覚した。しかも、その噂が流れ出したのは、護衛隊が横須賀港を出港する以前からだということも分かった。
本件について、久瀬まゆりは「噂を現実にする外法使いが紛れている」と推理し、独自に船内調査を進めたところ、船員に扮していたカリスの工作員を発見する――。
その後、久瀬まゆりに追い詰められた工作員は甲板上から海に身を投げ自殺。他の二艦では、自刃あるいは他殺体の船員四名の遺体が見つかった。
現場の遺品や状況証拠から『北領軍』の関与も疑われはじめて間もなく、今度は市ヶ谷庁舎内に間諜が紛れていたことが判明し、一時騒然となった。
指揮所と現場が落ち着きを取り戻した時には、第一次作戦中止から丸二日が過ぎており、魔法船団との距離もぐっと近づいていた。
こちらの攻撃は通用する――しかし遠距離攻撃のアドバンテージが無効である以上、海上で顔を突き合わせての直接対決は避けられず、三隻からなる護衛隊は、敵勢船団に向けて直進をしている。
作戦のキーパーソンは、もちろん久瀬まゆり。
常識を逸する小さな女の子だけが、異界からやって来た未知の化物と戦える。滅ぼす力を持っている。
だから、どんな手を使ってでも、たとえ何があったとしても、久瀬まゆりに献身を強制させなければいけない。その命をもって、水際で食い止めてもらわなければならないのだ。
そのための策を防衛省は持っている。
常陸燎祐だ。彼の身柄さえ抑えてしまえば、久瀬まゆりに選択権はない。永遠に二つ返事を強制させることも容易い。
だが――――問題が起きた。
確保に向かわせた『黒服』部隊全滅の一報が届いたのだ。
報せを送ってきたのは、燎祐の捜索のために投入された部隊で、大至急応援を寄越してくれと切羽詰まった声で連絡してきたらしい。
久瀬まゆりの離反という、あってはならない『もしも』が頭を過った防衛省の幹部は、人払いを徹底した別室で青い顔を突き合わせていた。
で、その密室の会議の盗聴に成功した国魔連の工作部隊から、オペレーターの五六経由で、尾藤に連絡がいっていた。
「――――定期交信に応じない『黒服』に何か事態が迫っていると察して、燎祐くんの捜索隊が応援に向かったところ、路上で『黒服』全員が昏倒しているのを確認したそうです。防衛省が引き上げたあと、国魔連の人間にも現場を改めさせましたが、目立つような戦闘の痕跡が殆ど見当たらないことから、展開は一方的、というより一撃で決着してしまったようです」
秘匿魔法を掛けた通話を耳にしながら、尾藤は、庁舎の外の空気を肺いっぱいにとりこんで、長く深い一息を付いた。
息が気道を通るたび、酸欠に似た血管の絞まる感覚が頭に走って、視界がクリアになっていく。
隠岐の計らいで、すっかり気兼ねなく外にでる権利を得ていた尾藤だったが、しかし、常に誰かの眼が背にくっついている。下がれば下がった分だけ下がって、進めば進んだ分だけ進んで、まるでその位置に縛られた幽霊のように同じ距離を保ってずっと付いてくる。
こうした場合、魔法で姿をくらますのが定石だが、ここでそれをやったら面倒を招きかねないので、尾藤は致し方なく姿をさらしている。
そのため、魔法で秘匿できる言語情報以外のところは、演技でもって、それっぽくセルフでカバーするしかなかった。
五六の声を聞きながら、尾藤はだらしなく首を折った。
そして左耳に小指を突っ込んで、部下からつまらない報告を上げてきた素振りをする。
「あの黒服が一撃ね……。そんな芸当ができるの燈妍さんの娘さんくらいだろ。とすると家出娘がやっと出てきた感じか?」
「いえそれが、現場からは精の反応は出ませんでした。というか、未だに魔法台の魔力監視網に引っかかってないんですよ、彼女」
「じゃあ、いったい誰がそんなことを? まさか燎祐少年ってことはないだろ。彼、魔法使えないんだからさ。……まあ、妥当なところだと、黒服を飼ってる連中とは別の派閥の仕業だろうよ」
小指に付いた耳垢を、フッと口で吹いて散らす。
「……その線ですかねえ――――あ、ちょっと待ってください。いま、監視班から新しい報告が――――」
受話器の向こうが急に騒がしくなり、誰かに向かって慌てて聞き返す五六の高い声がし、その後を追って、紙媒体を折り曲げたような音、何かがガサガサと崩れ出す音、ボールペンがシャッシャッと線を引く音が続いた。
「お、お待たせしましたぁ!」
ドッと跳ね上がった五六の声量に、尾藤は反射的に携帯から耳を離した。
そして、眉を潜めながら音量を下げて、再び通話に戻った。
「で、状況はどんな調子になった五六、変化があったんだろ」
「はい! 特報です! 入手した監視カメラの映像に、常陸燎祐と思われる人物が映っていました! かなりの速度で走っていたので、一瞬しか映っていませんでしたが間違いなく彼でした。ですが単独です。同伴者はいません。恐らくですが、向かっているのは自宅かと」
「一緒に行動していたはずなのに妙だな……。で、彼が映っていたのはいつだ? 最近か?」
「それがいまから約二時間前――黒服全滅の一報が飛んできた時刻とほぼ一致しています」
「なっ!? おい黒服は彼が倒したって言うのか?! 相手は本職だぞ!?」
驚きのあまり注意を失念してしまった尾藤は、ハッとして手で口を覆った。
尾藤はその手で顎をさすりながら、常陸燎祐が、湊暁丞に拝師していることを思い出していた。そして、二年前の魔獣狩りのあとに起こった、ある一件のことも。
(――燎祐少年が、あの時以上に強くなっているなら、本職相手でも善戦できるかもしれないが……しかし、しかしだ、相手は四人だ、圧勝なんてことはまずない。ましてや一撃だなんて、ありえるはずがないぞ。彼は魔法が使えない、ただの高校生なんだから。いくら超人の湊に鍛えられているとはいえ、所詮は生身の身体なんだ。限界がある)
尾藤が想像しているとおり、生身の人間の身体には限界がある。
たとえば成人男性の場合、筋力リミッターを完全に解除したところで、五百キロを超えるものは持つことが出来ない。骨と関節の耐えうる限界の値を超えてしまうためだ。よって筋力がいかに優れていようと、骨格の限界と耐久力を超えることは出来ない。それを示すように、生身の人間が残したベンチプレスの最高記録は約四七六キロとなっている。
無論、この記録は魔法を使わない場合のものであり、先天的・後天的を問わず、肉体に特異的な変質をきたしていない常人の記録であることに留意したい。
だが、人外化によって肉体が最適化された燎祐はこれに該当しない。
というか、幼少の頃から湊暁丞のシゴキに耐える並外れた身体能力を有していたので、そもそも燎祐は普通などではなかったし、人外化前でも、パンチ一発で外灯をへし折るくらいに頑丈かつパワフルで、脚力に至っては抱っこされた久瀬まゆりが悲鳴を上げるくらい早かった。そして高速で飛翔する無数の魔法攻撃を平然と打ち返す程度に動体視力と反射神経がよかった。
しかし尾藤は、最近の燎祐の事情はとんと知らないので、思いあたることはそれよりも過去に限定されていた。
(……それともなにか、燎祐少年の身に二年前と同じことが起きたって言うのか? だが、もしそうなら、今の彼が五体満足でいるはずがない。無事だというなら、彼はやはりあの時、久瀬まゆりに……)
尾藤は、眉間に深い皺を作りながら、二年前に起きた魔獣討伐後の事件のことを思った。
事の発端は単純なことだった。魔獣討伐を終え帰宅した久瀬まゆりは、極度のストレスと恐怖から、半ば心神喪失状態にあった。それに激怒した燎祐は単身で国魔連に殴り込んだのである。
そして、ある事件が起きた。尾藤はそのことを考えていた。ドツボに嵌まるほどに。
(だとすれば、久瀬まゆりと離れたことがトリガーになって、彼の身に何かが起こったということなのか。それとも別の変化があったのか。いやまて、彼単独で黒服を片付けたと決まったわけじゃない。
精に焦点を当てすぎて見落としている人物がいる可能性だってある。やはり、別の組織の介入ということも。
今回、庁舎内に間諜が見つかったことで、防衛省内のパワーバランスに狂いが生じたわけだから、あり得ない話でもない――)
ディスプレイの通話時間のカウントが刻々と進む。
けれど尾藤は思考の迷宮に嵌まったまま、無言。
呼吸音だけが相互に聞こえている。
それから二、三分の間があったあと、五六の呼気が深くなった。
「尾藤さん、黒服に付けていた監視を外して燎祐くんの捜索に充てませんか。彼なら、御庭番の子の行方を知っていると思うんです。不躾を承知で言いますけど、黒服にはもう監視するほどの価値はありません。それよりも、イルルミ・レナンの安否ですよ。事と次第では、八和六合と抗争になりかねませんから、とにかく今は、彼女と燎祐くんのことを優先すべきです」
「…………」
五六は、受話器越しの感じから、尾藤の思考が停滞していることを見抜いていた。
その声に諭されるように、尾藤は眉間に寄り集まった険を解く。そして、行き過ぎていた思考をやめ、今成すべき事に意識を向けた。
「そうだな。国魔連は全力を挙げて二人の捜索を、魔法船団の件は俺が、真朱の件は専女さまに任せる」
「それでいいと思います。ところで誰が国魔連を仕切るんです? 尾藤さん、暫く市ヶ谷の地下に缶詰で、これから無線封鎖でしょう?」
「そっちのことは五六、お前に一任する」
尾藤はきっぱりとした口調で五六を名代に任命する。
が、そんな采配がとられるとは思ってもいなかった五六は、「この人いまなにか凄いこと言ったぞ」とでも言いたげな空気を電話越しに寄越してきた。
「……あの、私はただのオペレーターなんですよ」
「知ってる。けど、お前ならやれるだろ」
「……。私に任せたことを死ぬまで後悔させてあげますからねっ」
「いい二つ返事だ。自由にやってくれ」
「はあ……。分かりました。責任、あの世の果てまでブッ飛ぶくらいツケときますんで――」
居直ったように吹っ切れた声でたんかを切る五六。
目の前に居らずとも、どんな顔をしているか尾藤には想像が付いていた。
「――くれぐれもクビが飛んでいかないように、ガッチリと固定しておいて下さいね? ふふふ」
「はは……お前のやる気すげー伝わってきた」
尾藤は苦笑を漏らした。
釣られて五六も苦笑した。
夜の風が、冷たく街路樹を揺らす。ざあ、ざあ、と低い梢が鳴る。
夜空の真ん中にうっすらと見えいた白い月が、重たい灰色をした雲の向こうに隠れた。
尾藤は、すっと一呼吸付いた。
「五六、健闘を祈る」
「こちらこそ」
いつになく礼儀正しい五六の返事が聞こえた直後、尾藤は携帯を虚空に放った。
すると尾藤の手を離れた携帯は、水面に沈み込むように、宙空に透明の波紋を作り、空気に溶けるように消えた。尾藤の固有空間に格納されたのである。
尾藤がその場で踵を返すと、庁舎の方から、こちらへと歩いてくる隠岐の姿が見えた。
そんな隠岐は大きなジェスチャーをしながら歩み寄ってくる。それを解読するに、どうやら間もなく庁舎を封鎖する時間らしかった。
尾藤は頷き返しながら、一度目を閉じて、深い呼吸をする。
ゆっくりとした動きで尾藤の胸が膨らんで萎む。そして、おもむろにまぶたが持ち上がる。
「よし、行くか」
開かれた尾藤の眼に迷いの色はなく、その背の向こうの空には、雲の絶え間から顔を出した白い月がくっきりと浮かんでいた。




