第二章43 EMETH②
「……ん。おわったぞ」
レナンの上に跨がっていた女の子の手から、すみれ色の光がようやく消えた。
レナンの体内で増え続け、居座っていた『わるい空気』を全部追い出し終わるのには、それなりの時間を要した。
そして、レナンの身体から『わるい空気』が全てが取り除かれたとき、レナンを寝かせている手術台より下は、まるで汚泥の海に浸かったよな有様になっていた。
最初はドライアイスのスモッグ程度だった瘴気は、レナンが生来備える純度の高い力を食い、増殖を続けた結果、どうやらこんなものになってしまったらしい。
そして、この瘴気化した精は、どうやら沈殿するような性質を持ち、徐々に堆積していって今に至るわけだが、それにしても「膨大」と言わざるを得ないほどの量だった。
本来、実体として視認することは適わない「力」だが、このような形で顕在化すると、いったいどのようにして、これだけの力が人間一個の身体に収まっていたのかと不思議に思えてくる。
「これで、助かったんだよな」
「ん。まだだ。つぎは、こいつを、あれにいれるぞ、てつだえ」
一仕事終え、ふんわりと額を拭っていた女の子は、さらっとそれだけを口にして、室内の左手にある培養槽にチラッと視線を送った。
理由は分からないが、レナンを助けるのに必要な工程なのだろうと思った燎祐は、分かった、と返事をする。
「でも、そのまえに、このわるい空気、なんとかしないとな。また、こいつのなかに、かえろうとするからな」
していると、台の下に沈殿する漂う黒とも紫ともつかない靄が、まるで逆向きに気流が発生したかのように、レナンに向かってゆるゆると流れ出した。瘴気には、どうやらそういう性質もあるらしい。
女の子が、あっちけでもするようにパッパと手を払うが、その流れは一向に止まる気配がなく、さながら駄々っ子を見かねた親のように腰に手を当てて、仕方ないと溜め息をつく。
「このわるい空気、しつこいな。だったら――――とっておきだな」
ジトッとした眠そうな目が、すうっと閉じた一拍後、女の子の周囲の空気が、急に張り詰めた。
女の子の小さな手が、ぴたりと合わさって、綺麗な合掌をする。
燎祐は、ビリッとしたものを頬に感じた。
感覚を目で追った先で、バチバチと、すみれ色の雷線が短く尾を引いていた。
その雷線が、次第に秩序だったように集まり、女の子の周囲に渦を巻きはじめているのに気づいた。
そして、渦巻く雷線は、徐々にその幅を狭めていき、やがて絹のように滑らかな光沢を放ちはじめた。
その光の形が、女の子の姿に重なるまで収縮し、ほとばしるオーラのように全身を包んだ。
女の子は、ゆっくりとした所作で左手をはなし合掌を解き、右手で片合掌をしながら、僅かにうつむく。
「くしてぃがるば ぼーでぃさっとう゛ぁ ぷーるう゛ぁ ぷらにだーな すーとら――――まに」
女の子は、ふんわりした口調で呪文めいたなにかを唱え、空いている左手のひらを汚泥の海に向けた。
すると、女の子の髪に描かれた梵字が炯と光り、かざした手のひらから、すみれ色の雷光を放つ珠が一粒、零れ落ちた。
その珠は、月面の重力下にあるように、のんびりとした動きで、汚泥の上に降った。
ぽっ
透明の波紋が広がった。
珠は、そのまま、ゆったりとした落下で、汚泥の中に沈み込んでいくように見えた。
否、沈んでなどいなかった。
女の子の手のひらを離れた珠は、中空をのんびりと滑りながら、瘴気化した精を吸引していた。
それは微細な風穴か、或いはブラックホールのように、周囲の『わるい空気』を、ただの一点に収集していく。そして珠は、地面に触れる瞬間までに、部屋に充満していた瘴気を全て、己の内へと綺麗に封じ込めてしまった。
珠は床に落ちた途端、今まで忘れていた重力を思い出したように、コロコロと通常の速さで転がった。
女の子が、小声で「ぼろん」と口走った。
珠は、ひゅん、と飛び上がって女の子の左手に収まった。
すると発散されていた電気的な魔力の波動がピタッとやんで、髪の上で光っていた梵字も、もと通りの紺に近い色にもどった。
「ん。これであんしんだな」
女の子は手術台の上から、覚束ない足取りでお立ち台の上に降りて、それから小さく跳んでトンと床に着地した。
それから女の子は、一言、おい――と、だけ言って燎祐の行動を促した。
燎祐はレナンを腕に抱えて、指示された培養槽の前まで行く。
その間、女の子は、指をくわえながら部屋を見回しつつ、しかしその直後、何かを閃いたように、ぽんっ、と手を打って、お立ち台を持って部屋の最奥にある机のほうに小走りした。
どうやら培養槽の操作盤があったらしく、お立ち台に乗った女の子がもぐら叩きくらいの大振りで、ぺちんぺちん叩いていくと、燎祐の前にある培養槽が起動し機器の初期動作が走った。
ガコンガコン
ウィーーーン
ジジジ……
ガコ
ガコ
ゴン
ヴィイイイイイー……ヴィイイイイー……
――と、室内にメカニカル音が一度に響きはじめた。
「な、なんだ?!」
急に鳴り出した機械音に面食らい、燎祐はレナンを抱えたまま、しりきにキョロキョロした。
そのうちに、目の前の培養槽がシューシューと音を立てはじめた。そして内部の減圧完了と同時に、シリンダー状の分厚いガラスの前面が、ゆっくりと上向きにスライドして、培養槽の入り口を作った。
燎祐は、確かめる意味で女の子に視線を送る。すると、目をぱちくりとされて、ふんわりと小首をかしげられた。
意志の疎通に失敗したときのまゆりの返しの、そのまんまだった。
「あ、えーっと……、この中に入れたらいいの、かな?」
「ん。そうだぞ。でも、お前は、はいったらだめだからなっ」
そう言ったあと、女の子は、思い出したように自分のローブを摘まんだ。
「あと、これ、いれたらだめだ。とってやれ。ほかのはへいきだ」
「アッハイ」
燎祐は、言われたとおりに、着せていたローブを回収してから、レナンをそーっと培養槽の中に寝かしつけて、後ろに下がった。それを見取った女の子が、大振りにぺちんと操作盤を叩くと、ガラスのシリンダーがゆっくりと閉扉をはじめた。
ゥイン……
ウィィィン……
ゥイン……
プシュゥー……シューゥ……
最後に蒸気が噴き出したような音を打ち上げ、シリンダーは完全に閉じた。
その内側には、透明なガラスの壁面に背を預け、意識を失ったままのレナンがいる。
人間が水族館に展示されているような、あまりに現実感のない光景に燎祐は言葉をなくしていた。
ほどなく、培養槽から、ゴウン……ゴウン……、とポンプの駆動する音が響き、シリンダー内の天井と床下から、メロンソーダのような色をした液体の注水がはじまった。
「お、おい!? いったい何するつもりだ?!」
燎祐は慌てたように女の子に向き直る。
すると、それを見越していたように、女の子はお立ち台の上で、小さな胸を、えへん、と張った。
「んふふーん。それは考えたことあるぞ。だから教えてやる。これ、からだを、きれいにしたり、なおしたり、げんきにするやつだ」
「ええっと、一応聞いておくけど、魔法使わなくても息できるんだよな……?」
「ん。私もつかうからな。へいきだぞ」
ふわっとした回答に、ほっと胸をなで下ろし、シリンダーの中のレナンに目を送った。
水っ気に塗れた髪が、ガラスの壁面に張り付いていた。
どうやら天井から吹き付ける培養液よりも、下から湧き上がる量の方が多いらしく、既にレナンの胸元あたりまで水位が上がっている。
そして水位が上がるにつれ、浮力によって、レナンは徐々に姿勢を崩しはじめた。培養液がシリンダー内に満ちたときには、レナンは立ったまま眠っているような姿で、培養液の中に浮いていた。水分を限界まで吸った衣服と髪が、不自然に浮き上がっている。
「本当に大丈夫なんだよな……」
燎祐は、培養槽のガラスに手を付きながら、重たげな声でつぶやいた。
その言葉の先で、レナンの胸が、ゆるく浮き上がっては、ゆるく沈む。
それを静かに繰り返している。
口元や鼻から気泡らしきものは出ていないが、呼吸はできているらしい。
――よかった……、本当に、助かるんだなレナン……
燎祐の心の声に応えるように、レナンは、ゆるい静かな呼吸を繰り返した。
その呼吸を、しかとなぞるように視線を向けていた燎祐は、ようやく得た安堵に、覚えずその場に崩れそうになった。
「ん。あとは、あれを、ぱんってやるだけだな」
女の子の言っていることが飲み込めず、燎祐は、一瞬はてなを浮かべていると、培養槽の前の床の一部パカッと開いて、何かがせり上がってきた。
ボタンが数個ついているだけの、簡単な操作盤らしかった。
部屋の奥から小足で駆けてきた女の子は、持参したお立ち台の上に立って、せり上がってきた操作盤の前へ立った。
――が。
あ、あれ……どれだったかな?、的な、迷った感じを全身から漂わせていた。
そして、迷った挙げ句、とりあえずといった感じに、ボタンの一つを、例のごとく大振りな挙動で、ぺちーんと押した。
しかし、何も動かない。
「…………」
続けて二、三回ほど、ぺちん、したが同じことだった。
女の子は、燎祐の方にふわっと振り返った。
「あ、あとは、ぱんってやるだけだな!」
いまのは練習だったといわんばかりに、ぜんぶ無かったことにした。
というか、誤魔化し方まで誰かさんと同じだった。
これは任せていいものかと訝しんだ燎祐は、あらためて操作盤を眺めてみて、そして絶句した。さもあろう。操作盤のボタンが、ビデオデッキよろしく、巻き戻し、再生、一次停止、早送り、停止、取り出し、の記号だったのである。
なるほど、この装置を造った人間は『再生』と『再生』をかけたのか、よほどビデオデッキに愛着があるのか、それともなにも思いつかなかったかの三択であろう。
ちなみに、女の子の指が乗っかっていたのは、停止ボタンだった。
「いや、なにする機械だよこれ?! 他のボタン押すと何が起こるんだよこれ?!」
燎祐はマジで意味が分からなかった。
一方、女の子は、案の定、記号化されたボタンの持つ意味が分かってなかった。
燎祐はあんぐりした顔で女の子を見る。
女の子は、眉をハの字にして、燎祐の方を見る。困ったときの顔まで同じだった。
燎祐は、意味的に合わないであろうボタンを除外し、しかし確信がない様子で、恐る恐るといった感じに『再生』ボタンを指さした。
「えっと、たぶん、これじゃないか、な?」
その燎祐の指先をワンテンポ遅れで目で追いかけた女の子は、目的のところに視線が到着するや、「わっ、そんなことろに!」みたいに小さく仰天した。
どうやら当たっていたらしい。
「よ、よし! ぱんってするからな!」
女の子は大振りな挙動で左腕を仰け反らせ、引き戻す勢いに乗せて『再生』ボタンをぺちんとした。
停止ボタンの時と同様、なにも起きず空気がシンとなった。燎祐と女の子は、あれ?、と顔を見合わせた。
と、その途端、足場がブルブルと小刻みに振動し、周囲から無数の機械音が忙しく鳴りだした。
「今度は何だよ?!」
徐々に大きくなる振動と音に警戒を強める燎祐。
その傍らで女の子は、手をブンブンと振り乱して一生懸命にバランスを取ろうとしていた。
どうやら足場の振動で、お立ち台が床を滑っているらしい。
「わわわわわっ、うごく、うごくぞっ! なんだこれ!? なんだこれ!?」
「お、おい大丈夫か――――」
「んっ! これ、おもしろいな! おなかがうばばばってなるな!」
動き出した瞬間は悲壮感たっぷりの声音だったのに、もうすでに、滑るのが楽しくなっていた。
ただ危なっかしいのには変わりはないので、女の子が台から落っこちないように、燎祐は目で見守った。
――――だが、そのために、培養槽の中で起こっていた大きな変化を見落としていた。
機械音や振動に気をとられていたというのもあるが、やはりレナンが助かるという安心感が、燎祐に緊張感を失くさせてしまったのだろう。
燎祐は気づかなかった。シリンダー内の培養液の、透明度が著しく低下していることに。
そして、奇妙なほど泡立ち、注水された液体がシリンダー内で渦を巻いていることに。
「にしても、このボタンはいったい――――」
なんだったんだろう――と、口にしようとした矢先、燎祐の声が止まった。いや、凍り付いていた。
燎祐は最初、なぜ培養液が抹茶みたいに濁っているんだろうかと思った。
次に、なんでシリンダー内に水流が起きているんだろうと思った。
そして、どうしてレナンが高速で回転しているんだろうと思った。
その水流は、一定時間ごとに僅かなニュートラルを挟んで、真逆にまわる。
その中心部で、虚脱しきったレナンが、フィギュアスケート選手もかくやとばかりに高速でキャンドル・スピンしている。
気のせいか、時折回転軸がズレて、レナンがシリンダーの壁面に激突している気がしなくもない。いや、している。
いまも一瞬、サランラップをぎゅうぎゅうに巻き付けたような無残な圧迫面のレナンが、壁面にべたっと張り付いていた。
「な?! ちょ、レナァァァァァァァァァン!!!」
まさかの異常事態に絶句する燎祐。
女の子は、その隣で、滑るお立ち台をくるくると回転させながら、得意そうに腰に手をやって鼻を鳴らした。
「んふふーん。これで、ぜんぶきれいだぞ。おまえも、こいつも、あんしんだな!」
「むしろ不安しかねーよ?! つーか、なんだよこの人間洗濯機?! 新手の拷問器具じゃねーか?!」
ご無体極まる仕打ちに異議申し立てる燎祐。
心身を清めるためといって滝行に臨む人間はいても、高速で回転する洗濯機につかる馬鹿はいない。また、それを勧めるアホもいない。
――が、現実はどうだ。
燎祐の目の前では、女の子のすすめで、レナンがシリンダーの中でぐるんぐるんと回っている。
何のためか。
綺麗になるとか、元気になるためらしい。
だがこの拷問の一体どこに人を元気にする効能があるのか――もとい、これのどこに癒やしがあるのか、甚だ疑問でしかなかった。
「あ、あの……これ、止めない? なんか怪我させそうだし……?」
けれど女の子は、首を縦に振ったりはしなかった。
「わるい空気にたべらると、からだの中がおかしくなる。これは、おかしくなったところ、なおすんだ。まわってるあいだは、なにもしたらだめだ」
とはいえ、その見てくれが悪すぎる。
しかし、他に手立てのないいま、レナンを回復させるためにはどうしても承服せざるを得ない話だった。
「それで、どれくらいかかるか、分かるか……な?」
燎祐は、たぶん突っぱねられるだろうなと思いつつも、他に聞くべきことが思い浮かばなかったので、女の子の顔色を伺いながら訊ねた。
女の子は培養槽に視線をおきながら、右手の人差し指で唇を押さえ、右に左に顔を傾けながら、ん~、と逡巡。それから二分くらいたっぷり悩んだあと、ふんわりと燎祐の顔を仰ぎ見た。
「こんなにまわってるの見たことないからな、たぶん十日くらいだ」
「そんなにか!? 一日で治ったりしないのかよ?!」
「こいつの中がどんなのか分かったら、お前、そんなこといえないぞ」
「でも最初の時よりは具合もよくなった感じはするし、そのうち目を醒ますんじゃないか?」
「んー……。わからないやつだな、お前っ」
反駁気味な燎祐に業を煮やした女の子は、右手を水槽にかざし、左手で燎祐の手首を掴んだ。
いったい何が始まるのかと、まばたきを一つした、その途端、熱湯に肌を焼かれたようなヒリついた痛みが、燎祐の身体の内側に走った。予想だにしない痛みと衝撃に思わず肩が跳ね上がった。
「――うぁっ!?」
次に感じたのは、身体の内部を、スプーンやディッシャーでごっそりすくい取られたような、断片的にしか自分を感じることが出来ない虚無感、或いは空洞感だった。
四肢は全体の六分の一もない。指もまばらだ。胴体と首も千切れて繋がっていない。それこそ身体がパズルのピースのようにバラバラになったみたいで、それを感じたままを口にするならば、全身と呼べるだけのものが残っていなかった。
身体のピースは、切れ味の悪い刃物で肉を刮ぎ落としたみたいに一片一片がささくれ立っていて、その一つ一つが、意識が通う度に、赤く燃えるような疼痛を発している。
「な、なんだ、これッ?!」
「こいつとお前をつなげたんだ。わるい空気がはいってたら、もっともっとすごいんだぞ」
そう言って女の子は、掴んでいた燎祐の手首を離した。すると、同調していた感覚がぷつりと切れた。
燎祐は、額にうっすらと浮かび上がっていた汗を手の甲で拭って、女の子の方に目をやった。
「ここまで深刻だったなんて……。たしかに、完治には時間がかかりそうだ」
「ん。だからお前も、ここでゆっくりしていけ。でも外に出たいなら出してやる、あの壁がきえたあとだけどな」
やっと分かったか、みたいな顔でいう女の子。
それにしても、すっかり燎祐とレナンの世話を買って出るつもりだった。
女の子のさり気ない申し出に、燎祐は安堵を覚えた。
しかし、それと同時に「外、か」とぽつりと零し、視線を落とした。
その表情は、どこか曇っているようにも見えた。




