第二章40 碧瑠璃の眼
とある山中に、人払いや入場遮断の効力を持たせた強力な結界が展開されていた。
保護対象は、もちろんダラハの洞窟工房だ。
この工房は一見すると自然洞窟に見えるが、実はダラハ老が魔法で地形を変形、加工して形成しているもので、今回の依頼が終了次第、消えて無くなる仕組みになっている。
ダラハは特定の工房を持たないのである。
そのため、仕事を頼むたびに、ダラハからの指示に従って居場所を突き止め、新しい工房を探し出さないと行けないのだが――しかし、こっちが到着するまで待ってくれるほどダラハはお人好しではない。探している間に、まったく別の場所へふらふらと旅立ってしまうこともあって、見つからないときはとことん見つからない。
しかも、質が悪いことに、認識を攪乱する防郭魔法を常時展開しながら移動しているので、発見そのものが困難だったりもする。
各国の魔法機関が、血眼になって探しても、足取り一つ掴めないのはそういうわけだった。
そこで、米国魔法省が目を付けたのが、ダラハと幾度となく接触している舟山だったが、あっさりと取り逃がしてしまった。
その舟山が、いま丁度、窮屈な姿勢から解放されたみたいに、大きなあくびまじりに、腕と背をぐ~っと上へ伸ばしながら、洞窟の外へてくてくとやってきた。
レナンからの定期報告を受け取る時間だった。
「ふぁ~あ……。そもそも、あの蛮族娘が常陸くんに決闘なんかふっかけて、【威光】で貔貅を破壊しなかったら、こんなタダ働きなんてせずに済んだワケなんですが……。こうなってしまっては、あの蛮族娘を小馬鹿にできるこの瞬間だけが、生きがいですねホント。さあて、今日はどんなオモシロ系の怪文書が届くんでしょうかねー。楽しみですねえ」
舟山は口角をもちあげて、くっくっく、と笑った。
洞窟工房に来てからというもの、ダラハ老とドワーフ系に、物理的に、踏んだり蹴ったりにされている手前、レナンから届く定期報告だけが舟山の癒やしであり、精神安定剤だった。
だが、紙の鳥は飛んでこなかった。
予定の時間を過ぎても、何も飛来してこなかった。
はじめのうちは、それも「忘れてるんですかね」などと面白可笑しく思えていたが、しかし、だんだんと時間が押すにつれ、舟山の顔から喜色の気配が消えていった。
そして、朝の眩しい光が、地平の彼方から登ってから、もう何時が経っただろうか。
山々の背には、薄らとした雲の影が泳いでは飛び去って、緩慢とした時の流れを刻んでいる。
そんな中でひとり、舟山はしきりに空を見回す。
「流石におかしいですね」
定期連絡というからには、用件の有る無しにかかわらず報告が飛んでくる。なのに来ない。
舟山は思案気に顎先をさすった。
舟山が知る限り、レナンが今まで定期連絡を寄越さなかったことはない。遅れることがあっても、三〇分も待てば必ず届いた。
それが未だに来ない。
「何があったんでしょうか……」
やんわりとした力で胸を圧迫されているような、重たく、嫌な感じがした。一抹の不安といえばそうなのだろう。
いくら普段から小馬鹿にしているとはいえ、レナンの生真面目さと腕っ節は舟山も買っている。
さもなければ相羽という危険分子が残る街を、レナン一人に任せてなどいない。その天邪鬼チックな信頼が、舟山の思考を惑わせ、ことの運びを余計に勘ぐらせていた。
していると、上空に一点の白が踊った。
舟山は目を細め、睨むような目で、その点を追った。
真っ白い、一羽の鳥だった。
その鳥は、舟山に引き寄せられるが如く、どんどんと高度を落としていく。
舟山はそれが、一瞬、レナンの寄越したものだと思ったが、すぐに違うと気づいた。炎の気配を感じなかったからだ。
「……差出人の察しはつきますが――」
そう言って舟山は、鳥が自分の頭上に飛来するなり、素速く刀印を切った。
すると鳥は、途端に便せんに姿を変え、ひらりひらりと中空を舞い落ちながら舟山の手の中に収まった。
舟山は、また国魔連からの面倒ごとの依頼か……、と思いながら、溜め息交じりに目を走らせる。
直後、舟山は落雷に撃たれたように硬直し、尾藤からの手紙を取り落としていた。
「二人が、行方不明……!? 何の冗談ですかこれ……ちっとも笑えませんよっ!?」
舟山は懐から、バッ、と赤い和紙を取り出し、そのまま勢い任せに宙に放った。
すると赤い和紙が真っ赤な大鳥となって、舟山の頭上に羽ばたいた。
それは、指定した対象に向かって瞬時に飛ぶ、緊急用の手札だった。
舟山は、その鳥が飛んだ先に転移しようと考えたのだ。
「イルルミさんのところへ飛びなさい!」
舟山は、赤い大鳥に向かって、一も二もなく命令を下した。
しかし、命令を受けたはずの赤い大鳥は、うんともすんとも言わず、一定の高度を保ったまま空を旋回するのみで、どこへも飛び立とうしなかった。
「命令が履行されない……?!」
舟山の顔に驚きの色が張り付いていた。
その理由は一つ。
緊急用の手札がもつ八和六合の特殊な術式が、レナンを感知できなかったからである。
つまり、尾藤から寄越された手紙の通り、レナンと燎祐は、本当に消えてしまったということだった。
「あの二人に、いったい何があったっていうんです!?」
舟山がいつになく真剣な声音を響かせていると、洞窟の奥から、ギョロッとした大きな目が覗いた。ダラハだ。
ダラハは、無賃労働から逃げたと思われる舟山を鍛冶場に連れ戻すつもりでやってきたのだが、漂わせている空気の色から、どうやらただ事ではないなと察して、一つ話を聞いてみることにした。
もちろん、舟山の抱えていることが下らないものだったら、断罪の意味を込めて作業をもって償わせる気だった。
「おいクソムシ、仕事をサボってなにしていますか。事と次第によってはぶち殺しますよ。ところで、窒息死そうなほど浮かない顔をしていますね、何かありましたか」
普段から人を避けまくっているせいか、ダラハは、言葉での気遣いが下手くそだった。
「い、いえ……ダラハ老にお話するほどのことでは、これは八和六合のことですから――」
「五月蠅いやつですね。いいから話せと言っているんです」
大きな黒々とした目玉が、咎めるように舟山を睨み見る。
舟山は、苦悶を浮かべながら歯をきつく噛みしめた。
「お前がそんな状態では、こっちの作業に差し障ります。このダラハに雑な仕事をさせる気ですか」
しかし、根っから他人に気を遣わないせいか、尚も、ずけずけと踏み込むダラハ。対して舟山は、どうすべきか決めあぐねているように、無言だった。
ダラハは、舟山を睨みつけながら、目をキツく眇めた。
「それともお前、万が一の時はあれを使うつもりですか。しかしそれは、もう手遅れということですよ。後悔したくないなら、さっさと吐きなさい」
足下を彷徨っていた舟山の眼が、ダラハを見る。意を決したらしかった。
ダラハは、ゆっくりとまばたきをしながら頷いた。
それから舟山は、今起こっている事情をダラハに聞かせた。
ダラハは深く考え込み、暫く黙ったままでいた。
それから数分、重たい沈黙が二人の間に落ちた。
その沈黙をようやく拾い上げて、先に口を開いたのはダラハだった。
「霊装の核が未だ金色を保っている以上、五体満足かは分かりませんが、所有者は存命しています。そこだけは安心なさい。まあ、二人が同程度の力量で、かつ片方が存命しているわけですから、もう片方も、生きている見込みはあるといえます」
「なるほど、霊装の核ですか。それは盲点でした……。確かに常陸くんが生きているなら、イルルミさんが生きていたっておかしくないですねっ」
舟山は、ダラハの言葉に少しばかりの希望を見た。
しかし、焦る心中が穏やかになるほどではなく、一刻も早く貔貅の件を切り上げたくあった。
その時、ダラハが眉を寄せながら、渋い顔付きでいった。
「ですが、問題があります」
「問題?」
舟山の問い返しにダラハは一つ頷いて、静かに口を開いた。
「時間です。貔貅の再構築には、とにかく時間がかかります。お前は今すぐにでもここを飛び出していきたいでしょうが――――やめておきなさい。そうなれば、私もここを引き払って別の場所へ移ります」
「……です、よね。貔貅が使える状態になるまでに、あとどれくらいかかりますか」
「霊装の核が思っていたよりも変化をしていますから、それに合わせた再構築となると、少なく見積もっても、あと半月以上はかかります」
「半月もですか。それ、どうにか短縮できませんかダラハ老」
「展開武装や補助魔導機ならいざ知らず、霊装ですからね。素材も魔錬鉄や魔鋼鉄というわけにはいきませんよ。鍛造も冷間になりますから、時間が要るのは尚のことですね。ここはやはり、お前が、専女七野の秘術を模倣し、編み出した、経過時間を伸張させる『あの術』を使うしかありませんか」
「そのアイデアは私にもあったんですが……。ひとつ、気になることがありまして」
舟山は言葉を濁した。
ダラハは、続きを促すように、気になることとは?、と訊ねた。
舟山は観念した顔になって、重たい溜め息を付いた。
「前回あの術を、固有空間内で使ったとき、何者かが干渉してきたんです。最初は攻撃かと思っていたんですが、後々になってみると、なにかを探っているような感じでした。魔力の質感としては、冷たく、青いような、そんな具合でした。ですから、まさかとは思うんですが――――」
「――それは間違いなく碧瑠璃の眼ですよ。お前、あの厄介な魔女に、とうとう眼をつけられましたか」
「やはり碧瑠璃――西方の塔の『管理人』でしたか……。過去に一度、専女様の前に碧瑠璃が来た際、私も居合わせたので、魔力の質感に覚えがありましたが、しかし号をもつ魔女が、どうして私なんかを」
「お前は知らないでしょうが、碧瑠璃の眼は、時間に関係する魔法を監視しています。お前は、運悪く、その探知網に引っかかってしまったんですね。もしあの術を使うなら、碧瑠璃に見つかる覚悟が必要ですが、お前にその意気があるというなら、付き合いましょう」
「それくらい私は構いませんが、ダラハ老は……? 西方の塔から離反した身なんですから、碧瑠璃に見つかるのは不味いのでは?」
「まあ、暫くのあいだ、八和六合の本山で匿って貰えればそれで構いませんよ。雪白の城ともなれば、碧瑠璃も手出しできないでしょうし、ついでに燈妍にも会っていけそうですからね。隠遁するのはそのあとにしましょう」
「……分かりました。じゃあ、無料で、最大限やらせてもらいますよ『黒頭の民』のクソジジイ」
「言いましたねクソムシ。しかし折角あの術を使うんですから、この際、二度と壊れないくらいに徹底的に鍛えてやりましょう」
ダラハは、熟練した職人が見せる浅い笑みをフッと浮かべる。
その内側では、鉄を溶かすほどの熱い情熱が滾っていた。
ダラハの裡で湧き上がる真っ赤な熱は、すぐに体という器を満たして、体外へ溢れでた。
「くふふふ。丁度思いついた機能もある。鍛え直すどころか、面白いくらいに多機能かつ高性能な霊装に仕上げてくれるぞ貔貅っ!」
黒い目の中に炎を灯し、老人とは思えない力強さで、ぐっと拳を固めた。
ダラハの職人魂に、消すことのできない火がついた。
「さあやるぞクソムシ」
溌剌とした声を響かせ、ダラハは洞窟の奥へ引き返していった。
気合いが乗るに乗った、生気に満ちた足取りだった。
「職人モードに入ると人間が変わっちゃうのは相変わらずですか……。スピード仕上げは私も大歓迎なんですが、ああなると、下手打ったときに半殺しじゃ済まないんですよねえ……。なんで私の周りって、スイッチ入るとキレやすくなる人ばっかりなんでしょう……」
熱い空気から取り残された舟山は、頬を掻きながら、苦笑を浮かべた。
ふとその時、少女の姿が脳裏に浮かんだ。
人の世に見捨てられ、裏切られ――そして決別を選んだ、少女の姿が。
紅蓮を纏い、誰よりも強くあろうとする、イルルミ・レナンの姿が。
「あのイルルミさんが簡単にやられるとは思いませんが――――私も急がなくてはいけませんね」
普段、飄々としている舟山の目に、ある種の決意のような色が、聢と灯った。
舟山は懐から取りだした白い和紙に、サラッと文章をしたため、宙に放った。それは一瞬で鳥の姿へと変わって、大空に羽ばたいていった。尾藤宛の連絡便だった。
その鳥が、青空の向こうへと吸い込まれるのを見送った舟山は、ダラハにも劣らぬ急度した足取りで、洞窟の奥へと進んでいくのだった。




