第二章36 イルルミ・レナン
あいつ、拾い子なんだって。
あいつ、人間と同じじゃないらしいよ。
あいつ、人外の子供だから変な名前なんだって。
そんな声が周りから聞こえるようになったのは、いつ頃のことだっただろうか。
少なくとも、まだ、イルルミ・レナンという少女が八和六合で御庭番を始めるよりも前のことで、まだ、イルルミ・レナンという少女が、普通に学校に通っていた頃のことだろう。
イルルミ・レナンは、自我が芽生えたときから、親というのは、自分を拾って育ててくれた垂燈妍という人外以外に知らない。
姿形が似ていないことは気にしたことがなかった。
ずっと、当たり前のように、本当の親だと思っていたからだ。
イルルミ・レナンは、自分が拾われた子供であったことは知らなかったし、垂燈妍が本当の親でないことも知らなかった。
最初にそれを耳にしたのは、小学三年生になった頃。
魔法の授業が始まって、しばらくした時のこと。
教室の中で、レナンの特別な才能を疎ましく思った男子から、唐突に浴びせられた言葉によってだった。
『イルルミって化物ん家の子供なんだぜ』
イルルミ・レナンは、それまで、自分が人外か人間かなど考えたこともなかったし、それを毛嫌いするようなアレルギー的な感作が、世間の、それも子供の域にまで浸透していたことなど、知る由もなかった。
『イルルミは化物』
『イルルミは人間じゃない』
それを聞いていたクラスメイトは、止めるどころか面白がった。面白がって、同じような心ない言葉を、自分が一番面白いんだとでも主張するように、挙って言うようになった。
その輪の広がりは、男子も女子も関係なかった。
誰もが、自分がそれを口にすることに関して、なんら罪悪の感情を抱くことはなく、むしろ愉しんで、意図してやっていた。
そうやって段々と醸成された悪質な空気は、いつしか教師すらも日常の一幕と見做すようになって、時には教師自身がそれをネタに使って教室で笑いを取ったりなんかもした。
本来、その流れをくい止めるべき立場の教師が、流れの主流側に立ったとき、イルルミ・レナンにとっての学校生活の全てが決した。
気づくと、イルルミ・レナンは、誰とも一緒にいることがなくなった。
仲がよかった――以前ならそう感じていた誰かとも、口をきかなくなった。
それからイルルミ・レナンが登校拒否に陥るまでに、また、自分の真実を知るまでに、そう時間はかからなかった。
イルルミ・レナンは、自分の声を聞いてくれない人間だらけの学校を、自分を員数外に扱う社会構造を、子供ながらに心底嫌悪した。
そして自分を、一方的に嬲り倒す世界を憎んだ。純粋に憎んだ。
しかし、イルルミ・レナンは、世界に立ち向かうには、まだ弱かった。
だから、反攻できるだけの力が欲しいと思った。自立したいと思った。
そしていつか自分の力で戦おうと思った。自分を害そうとする何も彼もと。
その時は、徹底的に叩き潰してやろうと思った。自分を害してきた何も彼もを。
イルルミ・レナンの紅蓮の炎は、瞋恚に燃えた。
その一端は、戦闘衝動や、勝利願望として、今も見え隠れするときがある。
しかしイルルミ・レナンが、今日まで歪まずにいられたのは、ひとえに垂燈妍の教育だった。
学校に行かないことを許す条件に、今まで以上の鍛錬と、あらゆる家事手伝いを、精神修養として課したのだ。
いつか人外の元を離れ、人のもとに帰ったときに、困ってしまわないように。
それからというもの、イルルミ・レナンは、自分を濁らす黒い心を忘れ、ひたすらに鍛錬に打ち込んだ。打ち込み続けた。
疲れていてもも家事は全部こなした。何があっても弱音は口にしなかった。ただ、ただ毎日をこなした。
そのうちに体力も、身体操作能力も、子供以上のものになって、精の制御も輪をかけて上達した。
元々イルルミ・レナンが持っていた才能を、垂燈妍が、幼少期から少しずつ引き出し、伸ばしていたのもあったが――
そうした下地があった上に、課された厳しい鍛錬を休みなく重ていくうちに、イルルミ・レナンは、ねじけていた自分の心を戒めるのと同時に、自分自身が、誰よりも強くあることを願うようになった。
だから、女の子らしかった言葉遣いをやめた。
弱々しく見えた居住まいを変え、強者であろうと努めた。
そして、誰よりも強い女になるのだと、決めた。
それから四年後。
イルルミ・レナンは、形式上、地元の中学校に進学した。
中学校では、小学校と違って、幾日かの出席を求められたので、仕方なく応じた。
その際、かつての同級生たちと久しぶりに出会った。
面々は、見違えたイルルミ・レナンの姿を目にしてもなお、自分たちは「あいつになら何をやっても許される」特権があると錯覚していた。そして、直ぐに、無抵抗な人間を嬲り倒す加害の愉悦を思いだし、当たり前のように、そう振る舞った。
男子たちは、あわよくばイルルミ・レナンを自分の好きにしてやろう、などと思っていたかもしれない。
結果。
イルルミ・レナンは、因縁をつけた同級生たち、それに連れられた上級生たちを、例外なく病院送りにした。
後日、『人外から暴行を受けた』と騒ぐ保護者の圧に押された学校が、イルルミ・レナンに謹慎処分を下した。
それ以降、イルルミ・レナンが学校に姿を現すことはなかった。
そして政府の役人から案内された『人権回復手続き』――即ち、人間の里親の養子入りの打診も、イルルミ・レナンは、蹴った。
イルルミ・レナンは、八和六合に与する、人外の道を選んだ。
丁度この頃から、御庭番の見習いを始めた。
舟山昇と組むようになったのもこの時期だ。
イルルミ・レナンは、世間から孤立していたが、孤独とは感じていなかった。
学校に行かずとも、世間と相容れずとも、イルルミ・レナンの日常には、大きな不満はなかったからだ。
たとえそれが閉ざされた小さな箱庭であっても、多少の乾きがあったとしても、決して全てを満たすことがなかったとしても、終わらない理不尽と差別からは身を置けたから、それで十分だった。
しかし、それは同時に、自分を受け入れてくれる誰かを、自分を満たしてくれる誰かを、ずっと求めていたのと同じであることを、イルルミ・レナンは知らなかった。
そんな折りだった。
ある頃から一緒に暮らすようになった人外の子供「くーちゃん」が、イルルミ・レナンのことを占った。
そして、貔貅の欠片を指さして告げた。
「あれをつかえるひとが、せかいで、いちばんあいたいひと」
強さに執着していたレナンは、それを「自分の好敵手」と信じて、貔貅の使い手が現れるのをずっと待った。
技を研鑽し、いつか戦えるその日に備えて。
そして。
イルルミ・レナンは、常陸燎祐と出会った。
***
イルルミ・レナンが探していた貔貅の使い手、常陸燎祐は、魔法が使えなかった。
それどころか魔力が無かった。
彼は、言ってしまえば無力な存在だった。
多少の格闘能力はあっても、まったく自分に敵うレベルではなかった。端的に言えば、弱すぎた。
――とすると、自分の好敵手たるのは、まだ先のことか
などと思って、常陸燎祐をやる気にさせるため、そう仕向ける挑発をした。
もし、それでも使い物にならないようなら、自分の傍に置いて、まともに戦えるようになるまで鍛え上げようと思った。
雪白の誓約まで持ち出したのは、本来、その為だった。
しかし、たった七日後。
常陸燎祐は、圧倒的優位であったイルルミ・レナンと互角以上の戦闘を繰り広げ、最後は【威光】の奥義まで使わせ、引き分けた。
無論、イルルミ・レナンが、最初から全力を出していたら、違う結果になっていたことは明白だが、それでも結果は結果だった。
イルルミ・レナンは、無能や最弱と侮った少年に、いつの間にか、白熱させられていたのである。
対して、常陸燎祐はどうだっただろうか。
普通、人は、圧倒的な存在を前にしたとき、それに立ち向かおうとは思わない。
まして、どうやっても勝てないと分かったとき、心の根がポキリと折れて、だらしない負けを喫するものだ。
それなのに、常陸燎祐は、圧倒的強者に立ち向かった。危うい場面は何度もあった。負けそうな場面も。
それでも立ち上がった。立ち上がる限り、負けない、立ち向かう限り、負けない。負けるわけにはいかない。
常陸燎祐は、その一心だった。
その一念が、イルルミ・レナンに土をつけた。
最後に放たれた【威光】の光は、彼そのものにすら感じた。
眩く、誉れ高い輝きだった。
その瞬間から、イルルミ・レナンは、常陸燎祐の姿が、網膜に焼き付いて忘れられなくなった。
まぶたを閉じれば、あの熱い闘いが、容赦なく打ち込まれた打撃の一つ一つが、鮮明に思い浮かんだ。
イルルミ・レナンは、人生で初めて、八和六合以外の他人によって満たされたと感じた。
そして「もっとそれを!」と求める気持ちが芽生えた。
その気持ちは、どんどん膨らんで、制御できないほど大きくなっていった。
いつの間にか、『せかいでいちばんあいたいひと』の意味が、変わっていた。
初恋だった。
しかし、それは勝ち目の薄い横恋慕だった。




