第二章31 Monday⑧
相羽たちが奥の扉から去ったのを目視で確認した、燎祐とレナンは、静かに、部屋へと踏み込んだ。
防郭魔法はまだ解いてない。
視認されない有利というのもあるが、防郭魔法が障壁系の防御魔法であることも忘れてはいけない。
つまり探知された場合にも備えているわけだ。
想定する相手は、相羽たちに限らず、燎祐が遭遇した『禍刺』といった正体不明も含んでいる。尤も、それらが視覚情報を頼りに攻撃対象を選んでいるとは思いがたいが、少なくとも不意の初太刀が致命打となることはない。
そういった意味では、防郭魔法は非常に重要な防御魔法なのだが、如何せん維持が難しく、よほど高級な補助魔導機でなければ、対雷属性や認識攪乱といった特殊な性質を付加できなかったりするので、防郭魔法が実践的な防御魔法として学習されるケースは殆どなく、割と適当でもやれる障壁の方がスタンダードとなっている。
昨今では、中級程度の補助魔導機であれば、攻撃を検知して障壁を自動展開する機能が備わっていたりと、障壁ブームは加速の一途だが、障壁とは文字通り壁なので、伴っての移動はできない。
その点では、やはり機動性が犠牲となり、有用度と利便性は防郭魔法に劣る。
ちなみに、ふんわりした子の場合、超広域の障壁を作ったり、ピンポイント障壁という離れ業を平然とやったりするので、あんまりどころか全然関係なかったりする。だからこその規格外の世界最高位か。
二人は、防郭魔法で消音が効いている中でも、慎重な足取りで、一歩また一歩と進んでいた。
魔法を検知するトラップがないとも限らない、というのも当然あったが、それよりも原始的で、物理的な、ブービートラップというものの存在も疑っているのである。
「……檻の上に、また黒い布が被さってるけど、あれは大丈夫だ。トラップじゃない。室内にもそれっぽいのは見当たらない。このまま進んで平気だ」
「もしかして、ダーリンはそういうのに強いのかい?」
「夏はいつも罠だらけの山で修行だったからな。今まで師匠に何度殺されかけたことか」
「そこは普通、死にかけた、だと思うんだけれど……。ところでダーリンのお師匠というのは、いったいどんな御仁なんだい?」
「致死量のガンマ線を浴びたのに生還したグリズリーと、それと同じゴリラが渾然一体になったような魁偉の怪物だぞ。湊暁丞っていうんだけど」
「あぁっ。国魔連の最終兵器と名高い、あの人か。それはまた、随分と著名な御仁じゃないか」
「お陰で夏が地獄だぜ……。ところで、魔法的なトラップの方はどうだ?」
「オールクリアだよ。何にも見当たらない」
「味方だったら考え物の不用心さだな、そりゃ」
「敵としては都合がいいったらないね」
その言葉を合図にして、二人は、黒い布の被さった檻に近づいていく。
近づくにつれ鼓動が自然と早くなっていく。
たった十数メートルの、二人には、命綱のない綱渡りのように、緊張が満ち満ちて感じられた。
そうしてようやく、辿り着いた先で、二人は顔を見合わせ、檻に掛かった布に、レナンが手を掛ける。
ドクン、ドクン、と重たい音が胸の中心から響く。
レナンが布を掴んだ手を、ついっと引いた。
布が自重で、スルスルスル……と、檻の上から滑り落ちた。
レナンが手を離すと、布は蛇腹に折り重なって床の上に落ちた。
いま、二人の前に、黒い檻がある。
眼下にのぞくのは、狭い空間で手足を折り畳んだ、白骨の何か。
それは東烽高校の制服を着せられた、何か、だった。
レナンは、ガッと檻の鉄格子を掴み、そして項垂れた。
「ここに、いたんだな……。やっと、やっと見つけたぞ……」
「レナン……」
「君を迎えに来たんだ……。無事なら、どうか返事をしてくれ……何か言ってくれ……、お願いだ……」
ようやく見つけた友を前に、レナンは、もう必死さを隠しきれなかった。何度も呼びかけた。
しかし、生徒Aは返事をしなかった。まるで物言わぬ死体のようだった。
生徒Aの沈黙は、二人に諦めざるを得ない現実を突きつけた。
レナンの膝の力が抜けていく。
「私は、遅かったのか……」
「レナン、彼をここから出してあげよう」
燎祐はレナンの肩に優しく手を添えた。
レナンは、燎祐の手を握って、その手に頬を寄せた。
じんわりとした熱が手の甲に伝った。
それから少しの間、二人は口を閉ざしたままだった。
言いようのない静寂が部屋いっぱいに広がった。
「……必ず君を連れて帰るよ。あともう少しだけ待っていて欲しい」
そう言ってレナンは、冷たい床の上から、凜として立ち上がった。
燎祐は、手の甲から頬の感触が離れた頃に、レナンの肩から手をのけて、檻の周囲を歩いてまわった。
だが、燎祐は檻の周りをぐるっと一周半まわって、疑問を浮かべた顔で、ぱたと足を止めた。それから僅かに半周、反対回りに歩いたが、やはり疑問に足を止めたらしかった。
レナンは、どうしたんだい?、とでも言いたげに燎祐を見た。
燎祐は、一拍ほどの逡巡を挟んで、その視線にこたえた。
「この檻、鍵穴も出入り口もついてない。どうやって中に入れたんだ」
「檻自体が魔法生成物で、そこに魔力鍵を組み合わせたものだろう。解錠すれば、天板や鉄格子が消えるはずだ」
「こいつぁ、またマジカルなモンが出てきたなあ……。で、これ壊せるのか?」
「強度次第だが、それは一応可能だよ。ただ、あの相羽のことだ、檻に余計な機能を付加していないとも限らない」
「たとえば通報機能とかってことか、なるほどな。そうすっと、こいつを安全に解錠するには、相羽たちの魔力手形がいるってわっだ。どうするよレナン」
燎祐は暗に、追うか?、と訊ねた。
「ダーリン、分かっているだろう」
「そうこなくっちゃ」
即決だった。
しかし、檻を解錠するのに、相羽一味全員を縄にかけるのは理に適っていない。
手形として、魔力鍵を登録してるであろう人物を一人ピックアップして、とっ捕まえる方が、ずっと効率がよい。
そして、さっきの十人のうち、手形として魔力鍵の登録をしていると考えられるのは、リーダー格である相羽、そして探知結界の術者。扱いからして、黒ずくめの七人と稲木出の線はないだろう、というのが二人の直感だった。
よって、ターゲットは二択。そのどちらを選択しても、今飛び出せば、二人の足ならば、まだ十分に間に合う。
二人は、相羽たちが出て行った奥の扉に目を向けた、その時、
ダァァン!!
奥の扉が、衝角を打ち込まれたみたいに、外側から激しく蹴破られた。
直後、何かが、扉の外から勢いよく放り込まれ、長い放物線を描いた。人間だった。
ドチャ……
水っぽい音を立てて、人間が、床に転がった。
顔は無かった。剥ぎ取られていた。赤々とした肉だけが見えた。
服装から察して、最後に相羽と合流した男だろう。
腹には深い切り傷を幾つも抱えており、そこから血が、水溜まりを作るように広がりだしていた。
恐らく、息はもうない。
予想だにしなかった光景に、思わず息をのむ二人。
その時、異様とも思える殺気を感じた。
燎祐とレナンは、すぐさま扉の奥に目を移した。
すると、怒りに満ちた相羽の顔面が、扉の奥から、ぬうっと迫り出してきた。
「裏切り者めぇえ!!! この私を謀ろうとしたか!!」
「…………」
男はぐったりとしたまま、傷口から血を吐き出し続けていた。やはり、既に事切れているのだろう。
相羽は、怒り心頭の体で、ずかずかと男のもとに向かっていき、血だまりに浮かぶ男の体を容赦なく踏みつけた。
何度も何度も踏みつけた。
「裏切り者め裏切り者め裏切り者めえぇぇぇ!!!」
相羽の怒声と、生々しい音が部屋いっぱいに響く。
燎祐とレナンは、完全に言葉を失っていた。
それでも怒りの収まらない相羽は、男の裂けた腹を、丸太のような脚で思い切り蹴り上げた。
男の体が、ブシャァ、と血が飛沫かせながら宙を舞った。
そして再び、水っぽい音を立てながら、冷たい床の上に転がった。
執拗なまでの死体蹴りだった。
「これでお別れだ、裏切り者」
直後、男の体が上下に分かれた。
相羽の放った不可視の斬撃に切断されたのだった。
だが、放ったのは一撃だけではなかった。
縦に横に、無数の線が走り、男の体は、みるみるうちに断片化した。
程なく、男は、血溜まりの上にひっくり返された、赤い挽肉になっていた。どれがどの部位だったかなど、もう誰にも分からない。
それが、さっきまで人の形だったことさえも、いまはもう朧気だ。
あまりにも陰惨な光景に、二人は慄然とした。
燎祐は、食道を駆け上ってくるキツイ吐き気を自覚し、不快そうな顔の下で歯を食いしばって、それをグッと堪えた。
レナンも、口を真一文字に結んで、険しい顔をしていた。
無感情でやり過ごすには、二人は、まだ若すぎた。
相羽は、目を留めていた男の死体から視線を外すと、今度は、怒りに満ちた眼光を、部屋の中に飛ばした。
「見えているぞ貴様等!! まさかここまで追ってきていたとはな!」
相羽は、二人の位置を正確に睨んだ。
ハッタリではなかった。
燎祐とレナンは、数瞬、互いの目を見合わせた。意志の疎通は、その間に完了した。
「……そうか、見えているか。ならば、この魔法は、もう無用だな」
そう言って、レナンは、防郭魔法の認識撹乱を外し、燎祐共々、相羽の前に正体を晒した。
相羽が、ニヤリと口端を持ち上げた。
「ククク、わざわざ貴様等の方から来るとは関心したぞ。これで探す手間が省けた」
「ほぉ。私たちを探そうとしていたなんて、殊勝じゃないか。まさか登校拒否を咎めようっていうんじゃないだろうね」
普段と変わらぬ調子だったが、酷いものを見たばかりのせいか、レナンの表情には余裕がなかった。
相羽には、それが、闘いに向かう戦士の顔に見えた。レナンに対する相羽のイメージは、常に敵対的なものだからだ。
そのイメージと対峙するように、相羽は鼻息を荒くした。
「たわけぇ!! 以前より我々をつけ回し、さらには、そこに転がる裏切り者を唆した、あの『メイ』というやつのことを、洗いざらい吐いて貰おうと思ってのことよ!! 貴様等が、あれと同じタイミングで現れたのは偶然ではあるまい!!」
「偶然でなけりゃ、俺たちも唆された口かもしれないぜ?」
燎祐も普通に振る舞ってみせるが、やはり顔色は優れない。
対して相羽は、たったいま人一人を殺したのに、顔の端に余裕さえ浮かべていた。
「フン!! どうであるにせよ、『メイ』、に関する情報は一つ残らず頂く! それだけのことよ!!」
「そう簡単に口を割ると思うか、私たちが」
「侮るなよ小娘!! 情報なぞ死体からでも引きずり出せる!! 貴様等は首からうえだけあればいい!!」
相羽は、ズン、と脚を踏みならした。
二人の足下に振動が走った。
戦闘の気迫は十分だった。
「それがカリスの人類救済か、相羽。お前たちが席巻する世界は、さぞ死体にあふれているのだろうな」
「我々が目指す真なる世界に、不純物は不要だ。不純物は、それ自体が罪だ。罪は滅さねばならない。あらゆる過ちもだ。そして貴様等のような異分子は、そもそも救済の対象外だ。よって、この私が、手ずから間引いてやる」
「結局、自分たちの不都合は全部消し去ってやろうってだけの、ガキの理屈じゃねえか! カルトはどこまで行ってもカルトだな!」
「所詮貴様等は、真なるものを理解できぬ愚か者よ。名も知らぬ誰かが発した世迷い言を信奉する、考えたフリをする愚か者よ。世に於いて己が心情のみが絶対に正しく、我こそは万能の権利を有すると思っている愚か者よ」
相羽は、黒い情念に満ちた炎を目の中で燃やし、腹の底から、憎悪に滲んだ声を吐き出した。
そして、徐ろに、二人を指さした。
「貴様等は間違っている。我々カリスこそが真に正しいのだ。我々は『眠れる時』を揺り起こし、それを証明してみせる。我々に埋め込まれた不純物を取り除き、真なる世界に生まれ変わるために。今の我々は、その為にあるのだ」
「眠れる時を、揺り起こす……?」
「少しお喋りが過ぎたか……。まあいい、貴様等との縁もここまでだ。さあ、殺されろ! そして死んでいけい!」
相羽のドス黒い気が、烈と膨れ上がった瞬間、見えない斬撃が二人目がけて走った。
レナンはサッと燎祐の前に回り込み、炎の壁を作った。
すると、高速で迫ってきた不可視の斬撃が、炎の壁にぶつかり、ガラスのように砕けた。
そして炎のヴェールを脱ぐように、炎の壁の向こうからレナンが姿を現す。
「私にも、見えているぞ、相羽」
「ククク、ならば目で追えないほどばら撒けばいいだけのこと! 無能のお荷物を背負って、どこまで戦えるか見物だな!」
「言っておくが、私のダーリンは、無能でもなければお荷物でもない。それと今のは、私が出しゃばっただけさ、勘違いをするな」
「ものは言い様だなイルルミ! それは結局、お荷物と言っているのと何も変わらないではないか! クククハハハ!!!」
「ならば試してみろ。お前では通用しない。私にも、ダーリンにもだ。しかし、お前には、それが理解出来ないだろうな。最後まで」
「~~ッッ!! 抜かしたな小娘がァツ!!! 後悔させてくれるぞ!!」
相羽は、体内で無限に生まれ続ける怒気を、まるで蒸気機関車のように、口と鼻から吐き出した。
直後、一気に身を沈ませ、その勢いに乗って、全速力で突っ込んできた。
ドドドドドド!!!
その突進力に地面が爆ぜる。
使用限界を逸した補助魔法フルブーストの吶喊だった。
レナンは瞬時に炎の壁を展開し、守勢にまわった。
「ここは私がやる! ダーリンは周囲の警戒を!」
「分かった!」
燎祐は、レナンの意を汲み、その場から大きく後方に飛び退いて、戦闘領域から離脱した。
同じタイミングで、相羽の頭突きがレナンの障壁と激突した。
ズゴォォォン!!
トラックが追突したかのような、強烈な衝撃だった。
衝突面から、ぶわっと炎が吹き上がった。
だが、依然、炎の壁は健在。その守護能力を遺憾なく発揮している。
当然、激突した相羽は顔面は、炎に焼かれっぱなしだ。
しかし、相羽は止まらなかった。
相羽は、顔面を炎の壁に押しつけたまま、皮膚をぐじゅぐじゅに焼きながらも、硬く握った拳を振り上げ、炎の壁を殴りつけた。殴り続けた。炎に拳が焼かれてもお構いなしだった。
「イルルミィィィいいいいい!!!」
「信徒のくせに、まるで狂戦士だな」
レナンは、炎の壁に張り付く、焼けただれた不気味な顔を、眼を細めて睨んだ。
異常としか思えない相羽の行動に、いちぶも怯んでいなかった。
それどころか壁の燃焼を激しくさせて、加速的に相羽を焼いた。
そして衣服に燃え移った火が、相羽の体を尚焼いた。
「ぐおおおおおおっぉぉおおおおおおお!!!」
相羽の吠え声に、呻吟の色味が混じった。
勝負の行方は、もう誰の目から見ても明らかだった。
しかし、燎祐が声上げた。
「レナン、左だ!」
「!」
燎祐の声を拾ったレナンは、瞬時に右へ飛んだ。
その直後、銀色の線が、レナンが立っていた位置めがけ、縦一文字に走った。
ヒュカッ!!
空を切った奇襲の一撃は、そのまま床に食らいついていた。山刀による一撃だった。
余程切れ味がよいのか、刀身の半分以上が、床の中にスッポリと埋まってしまっている。
その一撃を回避したレナンが、片脚をついた瞬間、今度は、一度に六つの銀線が宙に走った。
二つはレナンの上下から、四つは前後左右から。それは斬撃の籠だった。もはや逃げ道など無い。
しかしレナンは、人間離れした動きで、それら全てを、皮一枚の所でひらりと躱した。それからサッと距離を取って、構えた。
眼前には、七人の黒ずくめが全員、同じ山刀を手に、幽鬼の如く立っていた。
レナンは、黒ずくめの持つ山刀に眼をこらした。
「どうして、カリスが北領軍の武装型補助魔導機を使っている……。それは洗浄ができない魔導機のはずだ……。お前たち、まさか……!?」
初太刀を放った黒ずくめが、その疑問に答えるように、床から引き抜いた山刀を、真横に振った。
すると、場に残っていた炎の壁が、一撃で掻き消えた。
その向こう側から、全身からぷすぷすと白煙を上げる相羽が、ぬらりと姿を現した。
炎の壁に散々っぱら炙られた顔は、一部が炭化するほど焦げ付いており、肉の下からしみ出す血が、てらてらと不気味な光を放っている。
ただでさえ顔面凶器だった相羽の顔が、もはやクリーチャーすら泣いて逃げ出すような、異形と成り果てていた。
その顔面の中で、一際朱に染まった相羽の目が、ギロリとレナンを睨んだ。
「貴様がなにを察したかは知らんが、生きてここを出て行けると思うなよ」




