第二章30 Monday⑦
燎祐が手の噛み傷を隠そうとすると、レナンがその手を、待って、とでも言いたげに弱々しく掴んだ。
レナンが手首をゆっくりと返すと、血を垂れ流す傷口が露わになった。かみ切られた皮膚と、酷く内出血した手の平の色味のせいか、まるで腐ったトマトにかぶり付いたようだった。
「この前、俺が庭で暴れた時にさ、レナンが身体張って止めてくれたろ。あの時、正直、なんでお前が許してくれたのか全然分からなかったんだけど……、今ならなんとなく分かる、かな」
「うん……。私も、ダーリンがあれから何度も謝ったのが、なんでなのか分かったよ。傷、痛むだろう。直ぐに何かで手当をしないと――」
「傷口をレナンの精で焼いてくれ。処置するなら、それが一番確実で手っ取り早い」
「……分かった」
レナンは真剣な眼で頷いた。
それから燎祐の手を離すと、今度は自分のシャツをたくし上げて、犬歯を立て――というところで、慌てて燎祐が止めに入った。
「馬鹿やめろ?! お前の服は千切っていい場所ねーだろ!? いいんだよ、こんなの当て布なんかしなくて!?」
燎祐が止めるのも無理はない。
レナンの服装はノースリーブのシャツに、ホットパンツなのだ。布地なんて胴体の周りにしかついてない。
もし当て布用に服を引き千切ったら、地肌が丸見えだ――
というか、レナンがシャツをたくし上げた時点で、きれいなおへそがコンニチワしていた。
よって、こんなところで年頃の少女を破廉恥な姿に剥くわけにはいかない、というわけだった。
だが自分の責任ゆえとあっては、簡単に譲らないのがレナン。何もしないのは、どうしても気がとがめるのだ。
「ダーリン、私の服のことなど気にしないでくれ。私は下着くらい見られたところで恥ずかしくもない」
「俺は見るのも見られるのも恥ずかしいんだよ!? ちょっとは気にしてくれよ!?」
「私は大丈夫だ、気遣いは無用さ。ダーリンこそ気にしないでくれ」
「そうじゃなくて!? 下着姿ってのは俺がダメだから! 頼むからそれだけは勘弁してくれ!」
「そこだ、そこが分からない。どうしてダーリンはそんなに気にするんだい」
「お前が女だからに決まってるだろ!? 他に理由があるか?!」
「ただの下着じゃないか。恥部を見られるわけでもあるまいに、どうしてそんなに恥ずかしがることがあるんだい?」
「下着は恥部と同レベルだぞ普通は?! 八和六合では違うのかよ?!」
その声に、レナンは眉をハの字に歪めて首を傾げた。どうやらまったく分からない感覚らしい。
ただ、恥部を見られることは恥ずかしい、と思うところはあるようだ。
「水着と似たようなものだと思うんだが、八和六合と世間とでは認識が違うのだな……」
「だいぶ違うから……。つーわけで、マジで布はいらないから傷だけ焼いてくれ。一思いにジュッと」
そう言って燎祐は、レナンの前に、改めて噛み傷のある手を出した。
レナンは大事そうに指を広げさせ、傷口の全体像を露わにさせた。
「分かった、すぐに終わらせるよ。ところでダーリン――――」
「ん? どうした?」
燎祐がレナンの言葉に反応した直後、レナンの指先に炎が灯り、傷口の上に走った。
そして――――
ジュゥ!
炎の精が傷口を焼いた。
その所業は、さながら小児科医がする注意を逸らした注射。痛みの起こる場所に意識を集中させない、痛みを遅らせるための手段だった。
「――――ッ!!!」
精の熱刺激が燎祐の手の平の神経を刺した途端、全身が強張った。
レナンの指が触れた部位から、パチパチっと肌と肉の焼ける音がする。
燎祐は、顎が壊れそうな程、ギチギチに歯を食いしばった。傷口を直に焼かれているのだ。痛くないはずがない。
「~~~~~~~~ッッ!!!」
「もう大丈夫だ、これで傷は塞がったよ。お疲れ様ダーリン」
炭化した血の臭いが鼻を衝いた。
焼きごてのように押し当てられていたレナンの指が、燎祐の傷口の上から離れた。
燎祐は絶叫こそ上げなかったが、表情はいまだ険しく、額には大きな汗の玉が浮き上がっていた。
焼き終わった手は、硬直したままで動かすことも出来ず、患部を中心に、痺れた感覚が強く残っていた。
様子からして、手が使えるようになるには、まだ少し掛かりそうだ。
しかし、二人だけの世界に、のんびり浸っていられそうにもなかった。
音や気配を断ち、視覚さえも遮断したレナンの防郭魔法だったが、臭いは遮断していなかったのだ。
それを部屋の中心で嗅ぎ取った相羽が、顔を右に左に向け、臭いの方向を探りはじめた。
「ん……なんだ、この妙な臭いは……?」
カビ臭い空気に混じった、何かが焦げたような臭いは、流石に誤魔化しが効かなかった。
これを異変だと決め込んだ相羽は、手で儀式の進行を制止させると、くるりと踵を返し、入り口の方を睨み見た。
「ネズミが居るかもしれん。少し様子を見てくる、貴様等はそこで待っていろ」
相羽は、部屋の中央から、つかつかと入り口に向かって歩いてきた。
部屋の入り口は、幅広な通路と比べると少しばかり狭まくなっていて、入り口の脇には、観葉植物なり長椅子なりが置けそうな小スペースがある。二人はそこに身を潜めている。退路は後ろにしかない。
「待てレナン、相羽がこっちに近づいてきているぞ!」
燎祐たちがそれに気づいたのは、相羽がほとんど目の前まで接近してきた時だった。
噛み傷のことに気を取られすぎていたのだ。
二人は防郭魔法があることも忘れ、ピターッと壁面に張り付いて、死ぬほど息を殺した。
相羽は、入り口の少し手前で足を止めた。
「入り口の方から臭いが漂ってきたはずだが」
「「――――」」
燎祐は焼いた傷口の痛みを押し殺して、ポケットの中にねじ込んだ。そして、手をグッと握りしめて、拳の中に臭いを閉じ込めた。
「「――――」」
「気のせいか」
相羽は、フンと鼻息をついてその場から離れていった。
靴音が離れていったのを耳にして、二人はドッとその場に崩れた。
緊張から解放された心臓が、ドクッ、と重たく鳴った。
「はぁ~……臭いか、そりゃ盲点だった……」
「メイ殿が探知結界の術者を釣り上げていなかったら、今ので発覚していたな……」
レナンは思い返したように口にしたが、その先は言わなかった。
今はメイの安否を気にしていられるほど、余裕のある状況ではないからだ。
「次に何かヘタを打ったら、相羽のやつ、疑心暗鬼になって燻り出そうとするだろうな」
「するだろうね。なら、ここはあえて部屋の中に移動するのも手だろう」
「なるほど。アリだな。じゃあ早速――――」
と、燎祐がレナンの提案に乗りかけた時、遠くから音がした。
靴音だ。それも走っている音だ。
廊下中に反響して、甲高くカツンカツンと鳴っている。
それは、二人の後方から確実に響いてきて、一歩毎に、音の強度が強く大きくなっていく。
燎祐とレナンはバッと後方を振り返った。
未だ影は見えない。
しかし、間違いなく近づいてきている。
「相羽の仲間か?! このままやり過ごせるか!?」
「いや、この狭さでは、防郭魔法の防護範囲に手なり服なりが接触しかねない……! すぐに部屋の中に移動しよう!」
「分かった! 善は急げだ!」
二人は急いで身を起こし、部屋の中へ身を滑り込ませようとする。
しかし、その時――――
「フン、いよいよ誰かいるらしいな」
音に気づいた相羽が、くるりと踵を返し、再び入り口に向かってきた。
そして今度こそ部屋の外に、くせ者を探しに出てくるつもりだった。
燎祐は身構えた。
「やばいぞ!! どうする?!」
待避しようにも、後ろからは靴音が迫ってきている。
前からは相羽が。
この靴音の主が、たとえ相羽の仲間でなかったとしても、防郭に接触されてしまったら発覚は免れない。
そして、二人がいるここは、一本道。
前後を塞がれた今、進路も退路ない。
相羽の足が入り口に差し掛かる。
後方から響く音が、グッと近づく。
相羽の靴の先端がレナンの防郭魔法に僅かに接触する。
防郭が靴を押し返した。
ジッ、と変な音がした。
「ん……、なんだ今のは?」
相羽は入り口から、ぬうっと身体を出した。
レナンと燎祐が壁伝いに遠ざかって距離を稼ぐ。
相羽が一歩踏み出し、それに合わせ、二人も動く。
レナンは防郭の防護範囲を楕円形に展開しているため、ギリギリのところで接触を免れているが、相羽がその場で腕を広げ振り回しでもすれば、即座に接触するだろう。それくらいの近さだった。
しかし、安堵はしていられない。
反響する靴音がさらに接近し、相羽がレナンたち側に一歩寄って、臨戦態勢を取った。
もはや防郭と接触寸前の距離だ。
その一方で、走って近づいてきている誰かは、明らかにここを目指している。
もし相羽が、一歩でもこちらに寄ったら、接触する。
そうでなくとも、走ってきている誰かが当たる。その公算が高い。
そして走ってきた誰かは、その予想に適って、レナンの防郭と接触するコースを取っていた。
「やばいぞ! このままじゃ!」
拳を握り、その時、を覚悟する燎祐。
レナンも意を決した。
「私を――――信じて、ダーリン!!!」
「え、ちょ!? なにを!!」
瞬間、レナンは燎祐の頭に手を回し、彼の顔面を思い切り胸に掻き抱いて、背中から一気に倒れた。
二人の身体が、上下に重なったまま、ストンと一文字に床に倒れた。
直後、相羽が一歩こちらに寄った。
しかし防郭と接触しなかった。
レナンは通常は円形や楕円形に展開する防郭魔法を、この土壇場で、人間大に変形させたのだ。
(内心ヒヤリとしたが……巧く行ったか……)
得意ではない魔法を、緊張の中で使いこなしたレナンは、胸の中で小さな安堵をした。
レナンが床に倒れたのは、接触面を減らす目的もあったが、本当の理由は、はっきりと身体の形と大きさを意識するためだった。
そのためには何かに触れている必要がある。密接であればあるほどよい。
だから背から床に倒れ、胸に燎祐を掻き抱いた。そしてレナンは、完璧な形で、燎祐と自分だけを包み込むサイズまで防郭を変形させたのである。
レナンは、ジタバタしようとする燎祐に「動かないで!」と耳打ちし、彼の頭をぎゅっと自分の胸に押しつけた。
燎祐は、その状態でなんとか頷いて返事をすると、ふにっと柔らかい感触が顔に当たった。
布越しでもはっきりとわかる、ナイスおっぱいだった。
(これは布越しだから大丈夫!! これは布越しだから大丈夫なんだ!!)
燎祐は必死に自分に言い聞かせたが、既に耳まで真っ赤だった。もちろんアッチも元気いっぱいだ。
この年頃の男子にとって、女の子の身体はもはや一撃必殺の兵器である。
燎祐は、レナンにバレないように必死に腰を浮かせた。もしバレれば悲劇の再来である。何としても隠し通さねばならない。
だが、それと分からないレナンは、足を搦めて、燎祐の身体を引き戻そうとする。
(ダーリン離れないで!!)
(当たる当たる当たる当たる!!!)
(私から離れたらダメなんだって!!!)
(いやあああああああ!!! お許しをぉぉぉぉぉぉ!!!)
ピンチの影で、哀しい闘いが始まった。
その傍らでは、相羽が足を止めて、廊下の奥の方をキツイ目つきで眺めていた。
無論、自分の足下に、凄い体勢で密着した燎祐とレナンが潜んでいることなど、気づく由もない。
しているうちに、廊下の奥から走ってきた男が、いよいよ姿を現した。
やってきた男は、さっきまで防郭が展開していた範囲内に足を止めた。
もしレナンが、背から床に落ちるという判断をしていなかったら、たとえあの瞬間に防郭の範囲を落とせていたとしても、男の手足が、確実に接触していただろう。
(あとは相羽たちが立ち去るのを待つばかりだが。この位置取り、流石に肝が冷えるな)
レナンは顎をグッと仰け反らせて、走ってきた男の方に目を向けたが、男は秘匿魔法で顔を隠していたため、のっぺらぼうにしか見えなかった。
男の体つきは、相羽とそう変わりないくらいガタイがよかった。
男は肩で息をつきながら相羽に一礼し、慌てたように告げた。
「すみません相羽さま! 先ほど外で爆発がありました! 現在炎が上がっているため、警察や消防が動くことが予想されます! 封鎖区画に踏み込んではこないでしょうが、念のためご移動を!」
「何の爆発だ」
「さっきの車かと思われます。その方角から火柱が上がったので」
「そうか、饐えた臭い混じった焦げ臭さは、ともするとそれか……。念のため確認するが、先ほどの車のヤツは、始末がついているんだな?」
「抜かりなく」
それを聞いた相羽は、顎をさすりながら踵を返し、男を伴って部屋の中に戻っていった。
二人の顔の傍から、男たちの靴が離れていく。
レナンは、相羽たちの靴音が遠ざかり、かつ安全マージンを稼いだことを耳で確認して、腕に込めていた力を解くと、防郭魔法の変形を解いた。すると弾力に富むゴム製品のように、ビヨンと楕円形に膨らんだ。
どうやらレナンの防郭魔法はデフォルトの範囲が定まっていて、そこから拡縮するものらしい。
一方、レナンの腕の戒めが解けるや、燎祐は、起き上がりこぼしのようにバイーンと立ち上がり、即座に片手をポケットに突っ込んで元気なヤツを押さえ込み、もう片方の手をレナンに差し出して、引っ張り起こした。
「ふふ、ダーリンに、この場で起こされるのは二度目だな」
「そうだな。てか、なんでバレなかったんだ……?」
レナンのおっぱいの感触以外なにも記憶にない燎祐が、不思議そうに聞いた。
するとレナンがジトッとした眼で言った。
「ダーリン、バレてないとでも思ってるのかい」
「え”っ」
「空気を読んで無視していただけで、本当はバレバレだよ」
レナンの言葉に、ドキッとして、脂汗を垂らす燎祐。
えっ、マジでナニもかもモロバレていらっしゃったの!?
いや、でも、先端どころか一ミリも当たってないはずだ!!
大型化する前に離陸したはずだ!
俺は胴体着陸なんてしてない! 断じて断じて!
そんなことが悶々と頭を駆け巡っていると、レナンがぽろっとネタバレした。
「ふふ、冗談だよ。大丈夫、相羽たちにはバレてないよ。ダーリンは本当に心配性だな」
「デスヨネーヨカッター」
燎祐は、ふぅ……、と溜め息をついた。
その安堵と一緒に萎えるものがあった。
「しかし、あの走ってきた男、妙なことを言っていた」
「妙なこと? レナンは、なにか気になることでもあったのか?」
「ああ、少しね。だけど、今それを話ている暇はなさそうだ。相羽たちが奥の扉から移動する感じだよ。あっちの口も外に通じているのかな」
「念のため同じ通路は通らないってことか。にしても檻を放置して出て行くってことは、よっぽど封鎖区画を信頼してんだな。まあ、こっちにゃ都合がいいが」
「同感だ。相羽たちには、この流れで退場して貰おう」
「だな」