第二章29 Monday⑥
相羽と稲木出は、古びた業務用通路を道なりに歩いて行く。
程なく、二人の目の前に、行く手を阻む鋼鉄の扉が現れる。
その扉は、ドアノブの代わりに円形のハンドルがついており、見てくれは水密扉だった。
それに向かって、相羽が「通せ」と一言発すると、ドアハンドルが一人でに回りだし、半回転ほどしたところで、ガコン、と重厚な音が鳴り、扉のロックが外れた。どうやら手で回せば開くものではないようだ。
気を利かせた稲木出が扉を開こうと、片手でハンドルを掴んで、ぐいっと引っ張る。
しかし扉は数センチと開かなかった。
扉が見た目以上に硬くて重かった――というよりは、この時代の人間、とりわけ現代っ子たちは、肉体強化系の補助魔法に対する依存度が高いため、素の筋力や身体能力はかなり低いのだ。それには稲木出もご多分に漏れない。
「うあぁあぁっ補助魔法がかからねええええ!! 補助魔導機が壊れちまってるみたいだぜええええ!」
「ならば後で別のをくれてやる。とりあえず扉を開け、出来ないなら退け!」
「大丈夫だあああ!! うりぃぃぃぃああああああ!!!」
稲木出は両手で掴んだハンドルを、これでもかと目一杯引っ張り、三〇センチほどの隙間を作った。が、相羽の胸板の厚みではちょっと通れそうにない。ついでに言えば、稲木出のボンバーヘッドも間違いなく引っかかるだろう。
「もういい、どけ!」
しびれを切らした相羽は、ハンドルに取りつき顔を真っ赤にしている稲木出を押しのけると、その扉を左手一本で軽々と開いて、さっさと先を歩き始めた。
扉は開けたままにしておいたのは、後から運転手が合流する手筈だからだろうか。
「ま、待ってくれよおおお先生えええ!! 俺はあああ、先生に感謝してるんだぜええええ!! だってよおお、先生は俺のことを誰からも忘れねえようにしてくれたからよおおお!! 俺はその恩返しがしてえええんだよおおお!!」
見捨てられたように感じた稲木出は、慌てた様子で相羽の隣に並んで、ご機嫌を取ろうと焦り出す。
さながら気難しい客にすり寄る、うだつの上がらないダメ男の図だ。その様子からも分かるように、稲木出は、相羽に余程ご執心のようである。
対して相羽は一瞥もくれずに先を行き、淡々と口を開く。
「カリスは、求めに応じた救いを授ける。そして既に貴様はカリスの徒。ならば貸しも借りもない。それが我らの教えだ」
「けどよおおお!! 骨のアイツをやった時みてええによおおおお!! もっと役に立ちてえんだよおおおお!!」
「貴様は十分役に我々の立っている。だが貴様が、どうしてもと言うならば……手伝って貰いたいことが一つあるが、どうする」
「本当かああああ!! 絶対やるぜえええ!! 俺はやるぜえええええ!!」
稲木出は、勝ち誇った子供のように拳を振り上げ、通路を先へ先へと走っていった。そして突き当たりの部屋に消えていった。
相羽は、フン、と鼻息をついた。その顔は稲木出を嗤っているようだった。
していると、突き当たりの部屋から、ひょっこりと顔を出した稲木出が、通路一杯に響くほどの大声で叫んだ。
「先生ええええ、こっちはもう揃ってるみたいだぜええええ!!」
「そうか。ククク……」
焦らすようなゆっくりとした足取りで部屋に入る相羽。
そこは、学校の教室で換算すると二、三個分ほどの広さがある部屋だった。
元々は工場の事務所だったのだろうが、いまは間仕切りや設備の一切が綺麗に取り払われており、完全にがらんどうだった。
ただ、床には堆積した埃がなく、それどころか真新しい傷が壁や床のあちこちに出来上がっていることから、この部屋の片付けは、どうやら最近になってされたものらしい。
相羽たちは、それだけ度々、この場所を出入りしているのだろう。
部屋の中央には、稲木出の他に、フードを目深に被った真っ黒いローブ姿の男が七人、幽鬼のように立っている。
七人の前には、大人の腰の高さほどある四角いものがあって、上から黒い布を被せてあった。仮設テーブルのようなものだろうか。
相羽は目で人数を数えながら部屋の中央まで赴き、稲木出の傍に立って、彼の肩に手を乗せた。
「クク、確かに全員揃っているようだな。では早速『信仰』を始めるとしよう」
「ケケケ、待ってたぜえええ!! これでいよいよ俺の体質とはおさらばなんだよなああああ!! こいつに全部なすりつけられるんだよなああああ!! これで、これで、これでえええええええ!!」
稲木出は、目一杯に腕を広げ、口から唾を飛ばしながら歓喜の叫びを上げた。
今まさに彼の脳内ではドーパミンが大量に放出され、普段から不安定な情緒が、さらに妙なことになっていた。
その喜びようは、傍からすれば発狂しているようにしか見えなかった。それだけ情動を突き動かされたのだろうが、少々いきすぎている感が否めなくもない。
稲木出は異様に嬉々としたまま、くるりと身を翻し、そして興奮気味にガシッと相羽の両腕を掴んだ。
「先生の力のお陰だぜえええええ!! あのスゲえ力がなけりゃああ、俺は今でも誰からも覚えて貰えなかったぜえええ!!」
「クク、だがまだ完全ではない。貴様の大願を今日で成就するには、今まで以上の『信仰』の心が必要だ」
「分かってるぜええ!! 俺はもう一ミリも疑ってねええええ!! 俺の祈りは完璧だああああ!!」
「だといいがな。いくら私の『信仰』の御業であっても、肝心の『信仰』心が足らぬのでは無意味だ。まあ、そのために不足分を補う誘導処置をしているわけだが……ククク」
「流石だぜ先生ぇぇえええ!!」
さらに歓喜し、ぴょんぴょんと飛び跳ねる稲木出。
腕を掴まれたままの相羽は、稲木出のボンバーした髪が鼻先にガツガツ当たって、なかなか面倒くさそうな顔をしていた。
周りの七人は、黙したままだった。
その様子を、部屋の入り口から覗き見していたのは、勿論レナンと燎祐。
ここまでの道中は、防郭魔法の要訣を得たレナンのお陰で、移動しながら姿を隠せたこともあり、危うげなく潜入できていた。
車中で気張ったのは案外馬鹿にできない経験になったようだ。これはメイさまさまか。
入り口付近に張り付いた二人は、さっきまでの流れを漏らさず見ていたが、注視していたのは、それぞれ別のことだった。
例えば燎祐が敵の位置取りや室内の構造といった現場の状況を確認していたのに対し、レナンは相羽たちの目的を探るため会話を聞くことだけに集中していた。
これは役割分担を決めたわけではなく、偶然だった。
「そうか……、辻褄の合わない不可解なものの正体は『信仰』の御業によるものだったか……。しかし、どうして相羽に……」
レナンは自身の推理に一つの確信を得るも、別の疑問を浮かべ、眉を潜めた。
この件に何らかの御業が絡んでいることは、レナンには分かっていた。
しかし、御業の使用者は、相羽以外の人物というのが当初の見立てで、実際そのはずだった。
なのに相羽が『信仰』の御業を使える、ということは――――
「何かがおかしい。見落としがあるのか……? だとしたら何だ、私はなにを考え違いしている……?」
レナンは一人頭を悩ませた。
その側で、あらかた状況を確認し追えた燎祐が提案をした。
「敵は九人、部屋の奥に出入り口っぽいのが一つある。この先を探索するには、連中が奥に引っ込むまで待つしかなさそうだ。けど、あいつらが一歩でもこっちに近づいてきたら、一気にさっきの扉まで後退しよう。ここはほぼ一本道で、隠れられる場所も殆どないし、防郭魔法で凌ぐにしたって、道のど真ん中じゃ直ぐにバレちまうだろうしな」
レナンは静かに首肯したが、目の置き所からして、話半分といった様子だった。燎祐は鼻で息をついた。
「それにしても気になるよな、布の下」
燎祐は、食い入るように部屋を見つめるレナンの肩に、そっと手を回した。
しかしレナンは視線を少しも外そうとはせず、ただ小さく頷いて、淡泊な返事をした。
「ああ。私もそう思っていたところだ」
「……だよ、な」
やはり心ここにあらず、といった反応だった。
燎祐は、レナンに身体を寄せた。熱いと思った。
さっき手を握られた時もそうだった。いや、その時よりも熱くなっていた。
これだけ熱を発していたら、いくら防郭魔法で気配を断っていても、場の変化に聡いやつなら気づくことがあってもおかしくはない。
「レナン、精の熱を抑えてくれ。連中に気づかれたくない」
「……すまない」
返事は淡泊だったが、聞く耳はまだあったらしかった。
しかし、それだけだった。
レナンは言葉にした後も精を抑える様子はなかった。
燎祐の中で、一つの考えが決心に変わる。
その時、部屋の中の九人が、黒い布が被さったものを囲って手を繋ぎ、口々に何かを唱え始めた。まるで不揃いのお経だった。
九人は、それを唱え続けたまま、繋いでいた手を離し、左手を胸に、右手を布の上にかざす。
ズズズズ……
何か不吉なものが、布の中へ集まっていくのを感じる。
それがだんだんと凝っていくうちに、まるで揺蕩う陽炎のように、形が見えてくる。その様に、視覚の中に滑り込んでくる。
(相羽たちは何をしようとしているんだ……)
魔力がなく、魔法に疎い燎祐には、それ以上思考の余地はない。
方や、相羽たちが成さんとするとことろを、ほぼ正確に理解出来ていたレナンは、ギリギリと奥歯を鳴らし、壊れそうな程強く拳を握り込んでいた。堪える忍耐が必要なほどの事態らしかった。
しているうちに、稲木出が一歩前に出て、布の端を掴んだ。
それから数拍分、焦らすように身動きを止めたあと、手に掴んだ布を勢いよく引っぺがして。
バサァツと音を立てて、放られた黒い布が宙を舞った。
布の下から顔を出したのは檻だった。
膝を畳めば人一人入れそうな狭い檻だ。
そして、等間隔に並んだ格子の間に見えたのは、綺麗な白色。人骨のような何か。
よく見れば、人骨が、稲木出と同じ東烽高校の制服を着ている。
燎祐は、それが白骨化した生徒Aなのでは、と考えた。
(いや、でも……こんなに早く骨になるものなのか? というか本当に骨なのか?)
だが、それ以上は考えることができなかった。否、考える暇がなかった。
何故ならば、目を血走らせ、怒りに我を忘れたレナンが、相羽たちに今にも飛びかかろうとしていたからだった。
「相羽ァァァァ…………!!」
吹き上がる精が空気を焦がし、めらめらと、紅蓮に燃え上がるレナン。
もはや一秒だって猶予はない。
燎祐は、咄嗟にレナンを押し倒し、すかさず馬乗りになって口を塞いだ。
(くっ、やっぱりこうなったか……!)
押さえつけられたレナンは、反射的に、もの凄い力で抵抗するも、直後にパタッと大人しくなった。
だがフェイントだ。
もしこれに油断して燎祐が少しでも拘束を緩めれば、レナンはその一瞬で身を振りほどき、相羽の前に身を躍らせる。
燎祐はそれを見破っていた。怒りに満ちたレナンの蒼い瞳がそう告げていたからだ。ゆえに一切の隙を見せない。
レナンは、己の目論見が通用しないと分かると、再び全身に力を込めた。
(あそこにタクラマがいるんだ!! 今行かないといけないんだ!!! 私がやらないといけないんだ!! 私が!!!)
レナンの中に渦巻く情念、それは、友を巻き込み行方不明にさせてしまった事に対する罪の意識、消えた友を見つけ出せなかった事に対する焦燥、なにひとつ上手くいかない現実に対する不満――――
加護を持たない全員がタクラマに関する一切を忘れ、記憶できないことが加速させた、レナンの孤立と孤独、真の意味で誰をも頼ることが出来ない不安――――
それら全てが堰を切ったように一度に押し寄せ、レナンの理性を一瞬で水底に引きずり込んでしまった。
レナンは、もう自分自身を止めることが出来なかった。
「ああえ……ああえ、あーいん!! おおい、おおにあうああああいうんあ!!」
「落ち着けレナン、ゆっくり深呼吸をしろ」
激昂するレナンに対して、燎祐は努めて冷静だった。
普段からちょっと破天荒で行動が読めないところがあるレナンだが、この追跡を始めてからは、それとは違う、不自然な言動、脈絡のない行為といった、落ち着きのなさが目立つようになっていた。
それらはどれも、最初はメイとの遭遇が引き金になったのかと思ったが、しかし本当のところは、騙し騙しで上手く保ってきた心の均衡が、とうとう綻び、今回のことで、ぜんぶ雪崩れてしまったのが原因だった。
燎祐はレナンの変調、その兆候に気づいていた。
けれど、レナンの必死さを直に知っていたからこそ、黙っていた。
この追跡のことだって、止めるどころか、なんとかしてやりたいと、助けてやりたいと思って、背中を押してしまった。
それが誤りだったと知った今も、レナンを助けたい、その想いには、一つの違いもなかった。
ならばせめて、大きな間違いだけはレナンに起こさせはしまいと。
もしもの時は自分が全力で止めようと、燎祐は思っていた。
そして、今が、その時である。
「ああいえうえ……!」
「出来ない」
「あーいん!! あーいん!!」
「お前の友達を助けるんだろう。そのための来たんだろう。それをご破算になんて、俺がさせない」
猛獣の如く暴れるレナンを、全力で押さえつける燎祐。
二人の発する音は、防郭魔法が辛うじて防いでいいるため、相羽たちに気づかれてこそいないが、もし床でも壁でも壊すような事態にもなれば、その限りではない。
燎祐は、レナンにかかる体重を一層重たくし、身動きを完全に封じに掛かった。
その時、レナンの口を塞いでいる手に、鋭い痛みが走った。
自覚した瞬間、そこがかっと熱くなった。本当の意味で、がぶりと噛みつかれていたのだ。
「っ……!!」
「フー!! フーッ!!!」
噛みついたレナンの歯が、燎祐の手のひらの肉を皮膚ごと、万力のように、ギリギリと、上下から押し潰していく。
容赦のない噛みつきに、手のひらの皮が裂け、肉どころか骨まで食いちぎられてしまいそうだった。
それでも燎祐は耐えた。耐え続けた。
この痛みとレナンの苦しみが引き換えにならないと分かっていても、レナンを止めなければならなかった。
それで、たとえ我が身を削り、レナンの燃えさかる怒りを一身に受けることになっても、燎祐は構わなかった。
「ああいん!! おおいええをおええうえあいんあぁ!! おおいえっ!!」
「どうしてもだ。恨み言ならいくらでも聞いてやる。噛みたければいくらでも噛め。それでも俺は、お前を離したりしない。絶対にだ」
燎祐はジッとレナンの瞳を見る。
かつて決闘の時に幾度となく視線を結んだ、彼の真っ直ぐな瞳が、暴れるレナンの心を捕まえる。
叫びだしそうな衝動が、憤怒の滾りが、燎祐の青い瞳の内に全部吸い込まれていく。
レナンの荒々しい感情の波が静まる。
やがて少女の下顎から力が抜けて、口の中いっぱいに鉄っぽい味が広がった。
手の肉から歯の感触が離れていき、それで燎祐はレナンがようやく落ち着いたのだと分かった。
「俺たちの目的は生徒Aの奪還で、次に脱出。相羽たちは二の次、だろ?」
「あぁ……いん」
「もう平気そうだな」
その言葉に、レナンがこくりと頷いた。
燎祐は身体を退かし、レナンを抱え起こした。手に残る痛々しい噛み痕からは、血がとろとろと垂れ流れていたが、燎祐は顔色一つ変えなかった。むしろ痛そうな表情をしていたのはレナンの方だった。
「すまない……私は、…………私はっ……」
レナンは、どんな顔をしたらいいのか分からず、目を伏せることしか出来なかった。
「いいよっ。気にすんな」
そう言って燎祐は、レナンの身体を優しく抱きしめた。
まだ少し熱っぽい感じはしたが、熱いほどではなかったのでホッと安堵した。
「一人で気負うなよ。俺もいるんだからさ」
「ダーリン……、少しは、怒ってよ……」
「怒ってるぞ、目一杯」
レナンは泣きそうな声で燎祐に抱きついた。痛いくらいの抱擁だった。
二人の間に静かな時間が流れた。
静寂の内に、声にならない言葉があった。
鼓動は溶け合い、ほつれて分かたれていた二つの心が、それでようやく一つになった。
やがて二人の腕から力が抜けて、名残惜しむように、ゆっくりと身体が離れていく。
それから燎祐は、まだ少しぼうっとしたままのレナンの髪や服に触れて、押し倒したときに付けてしまった埃を払い落とし、
「あそうだレナン、ひとつ重要なことがあってだな」
「なんだい?」
「変なモンかじったからって、あとでお腹壊すなよ?」
そう言って、ニカッと笑って戯けて見せた。
涙が一粒、レナンの頬を伝いおちた。
「……壊さないよ。馬鹿だなっ」