第二章26 Monday③
それ、お姉さんが手伝ってあげよっか――――
一考の余地なく無視すべき提案。
二言返事で頷けるはずもない不審者からの申し出。
だが燎祐とレナンは、その思考を抱えた頭のままで、無自覚に、首を縦に振ったていた。
「「――え!?」」
無論、自分の意志ではなかった。
それで理解した。既に術中だと。操られているのだと。
「うふふ、決まりね。話が早くて助かるわあ」
パンっと手を叩いて、笑みを薄らと浮かべるメイ。
身体の自由がさらに奪われたように感じた。
(手と足の感覚が、今ので消えた……。術の深度をここまで自在に操作できるとは……!!)
メイが繰り出した魔法の完成度、その凶悪さを、改めて思い知らされるレナン。
しかしその思考が、更なる心の隙を晒すことになった。
それを見計らったように、メイが、パチンと指を鳴らした。
レナンと燎祐の身体は、完全な金縛りに遭ったように硬直した。
もはや二人は、指一つ動かせなかった。
戦々恐々とする二人に、メイは蛇のようにぬるりと顔を寄せる。
そして二人の耳許で擽るように囁いた。
「それじゃあ不倫中のお二人さん、あとは車の中で……」
ねっとりとした言葉が鼓膜に触れる。
途端、馬鹿みたいに加速する胸の早鐘。
焦る意志に反して、全身の関節に杭でも打ち込んだかのように、指一本として動かない身体。
メイは、そんな二人を胸に抱き込むように、燎祐とレナンの肩に腕を回して、
「私とゆっくりお話しましょお――――ね?」
「「――――っ!!」」
トンと、二人の背に指先を触れさせた。
瞬間、燎祐とレナンの瞳孔が開き、瞳が小刻みに震えた。
二人の目は焦点を失ったように宙を彷徨った。
瞬後、二人の意識は深い深い暗闇に沈んだ。
「「…………」」
呆然と立ち尽くす二人。
己を己たらしめるものを失った目は、酷く虚ろで、顔には表情というものがなかった。まるで人形だった。
メイは二人からそっと体を離して、満足そうに口元を緩めた。
「じゃあ乗って乗って~」
「「……はい」」
燎祐とレナンは、メイに言われるがまま、車に乗り込んでいった。
バタン、とドアの閉じる音が連続して響いた。
「あはっ、ではでは出発しちゃいま~す」
運転席に着いたメイの手元で、インサートされたキーが半回転ほど捻られる。
低いエンジン音が通りの中で反響し、ヘッドライトに一際強い明かりが灯る。
赤いスポーカーが勢いよく駐車所を走り去っていったのは、その直後のことだった。
****
駐車場を発進してから二〇分ほどが経った頃。
メイの駆る赤いスポーツカーは、湾岸に面した工場地帯の辺りを走っていた。
路面は工場地帯特有の幅があるも、舗装の質がなかなか悪いようで、凹凸がそこかしこにあった。
道の脇には、たき火をしたであろうドラム缶や、不法に投棄されたゴミ、それに混じって、パーツを剥ぎ取られ骨組だけと成り果てた哀れな車輌なども見受けられた。
何となしにも付近の治安の悪さが相当なものだと分かる。
それを立証するように、走行中の路面にはドリフト遊びで刻まれたタイヤ痕が何百とすり込まれており、その上にはガラスやミラーの破片と思しきものが点々としている。
メイの車が、それらを挽き潰すたび、ゴムを穿つザラついた音が車体に響いた。
「もー……酷い路面ね。ホイールに傷がつかなければ良いんだけど~」
その直後、はめ込みの悪いマンホールを前輪が踏んで、ガタっと車体が揺れた。
底の浅い窮屈な後部座席で、燎祐とレナンの体が大きく前のめりになった。
続く後輪が二の轍を踏み、再び車内に震動が走った折、燎祐とレナンの頭がゴチッとぶつかった。
それから程なくして、虚ろだった二人の瞳に徐々に光が戻った。
「……ぅ……う……、ここは、一体……」
レナンは、ジンジンと疼痛を発する額に気怠そうに手をやりながら、緩慢な動作で辺りを見回す。
しかし未だ全身の麻酔が抜けきっていないかのように、身体の感覚が鈍く、頭も酷くぼーっとしていた。
していると、同じ痛みを分かつ燎祐も、隣のシートで目を醒ました。
「……ぁ……れ。お、俺たち……なんで車に……?」
こちらもレナンと同様に、非常に怠そうな気配を全身から漂わせている。
燎祐は、それを振り払うように、しきりに右に左に目を走らせるが、しかし事態を把握することは出来なかった。
「くそ……何がどうなってるんだ……」
どうやら最後の記憶もおぼろ気で、いつから、どこから途絶えたかも判然としないらしかった。
窓の外の夜景が、一瞬のうちにオレンジ色の空間に呑まれた。
駆動する機関音が急にくぐもって聞こえだした。
「トンネル……。一体どこなんだ、ここは……」
「うふふ。さあて、どこなんでしょう?」
「「――――!?」」
二人は前方に目を向けた。
フロントガラスに薄らと女性の顔が映っている。メイだ。
「メイさん、これはどういうことなんだ?! 俺たちをどこへ連れて行くつもりだ!?」
「えー? さっき、自分たちで『この地図上の点を追ってくれ』って言ってたじゃない? 急にどうしちゃったの燎祐くん?」
「いつ、俺たちがそんなことを!?」
「車に乗って直ぐだけどー? 嘘だと思うならレナンちゃんに聞いてみたら?」
燎祐は姪の声を振り切り、レナンに同意を求めるように視線を向ける。
当然同じ事を口にするだろうと思った矢先、しかしレナンは目を見開いたまま額を押さえ、愕然とした顔で燎祐に告げた。
「あ……れ、おかしい……覚えている……私は確かに、メイ殿に言った……。追ってくれと……地図を渡して……」
「そんな!」
「でしょー? もー燎祐くんったら、ときどき認知症なんだからー!」
メイはくすくすと笑いながらハンドルを切った。
程なく、視界前方にオレンジと黒の境界線が見えた。
そのボーダーラインを通過すると、辺りは完全に夜の闇に呑まれ、林立する建造物はみな真っ黒のシルエットだけが浮かび上がっているように見えた。まるで真夜中の森だった。
それで燎祐は気づいた。メイが車のヘッドライトを消していることに。
(魔法で意識が飛んでたせいで、肝心の理由と経緯が分からないが、メイさんが相羽の車を追跡しているのは本当らしい……。しかしメイさんは、どうして俺たちに協力するんだ。いや……それとも、協力させられているのか、俺たちは……)
前者であれ後者であれ、メイには、それを明らかに出来ない理由があるのは確かだった。でなければ魔法を使って人を操ったりしない、燎祐はそう考えた。
その時、ふとレナンの言葉が頭を過った。
『――持続時間は三〇分程度、有効距離は最大で五キロ程度だ』
燎祐はダッシュボードのデジタル時計に目を向けた。
表示時刻は十九時五○分。
レナンが魔法を使ったのは、十九時半前後のこと。
仮に魔法がキッチリ三○分間仕事をしてくれるとしても、あと十分と保たない。
燎祐は、ダッシュボードの明かりを頼りに車内を見回した。肝心の地図は助手席のシートの上にあった。
しかし、地図上に浮かぶ赤い点は未だに動き回っている。
その位置を、カーナビ代わりのタブレット端末と対照すると、相羽の車とは四キロ近く離れていた。
このままでは追跡は失敗する――――
頭に浮かぶ最悪の結末に、燎祐は、今すぐ車を飛び出したい一心に駆られた。
けれど、この一件に心を砕き続けてきたレナンのことを思うと、そんな無謀は出来なかった。
そうした二律背反する想いが燎祐の中でどうにか纏まる間にも、時計の針はチクタクと時を刻み続け――
やがて、来たるべき瞬間を迎えた。
「あっ、地図が……!」
彼の視線の先で、地図上に浮かぶ赤い点が薄らと明滅を始め、そして、消えた。
魔力を使い果たした地図は、空気に溶けるように消えた。
自動的にレナンの固有空間に戻ったのだ。
それでようやくレナンも事態に気づいた。
「標識が……、魔法が切れた……」
「レナン、他に手はないか?!」
「私には連中を見つける手立てはない……。ここまでだ……」
「くそっ!」
燎祐は固めた拳で、自身の膝を思い切り叩いた。
レナンは沈痛な面持ちで、その音を聞いていた。
そして燎祐が、もう一度拳を振り上げた時、
「あのーそれがー、ここから、だったりしてー?」
「「え」」
メイは車内ミラー越しに、二人に目をやって、ウインクした。
その真意が分からぬ二人は、一瞬かち合った目をどこへ向けて良いのか分からず、その場で固まってしまった。
そんな二人にメイは、やはり普段と変わらぬ口調で続ける。
「実はね、私もあの人たちを私怨で追ってたんだよね。っていうのは、私が別邸で保管してた色んな素材を、あの人たちが全部掻っ攫って行っちゃって。けど、家宅侵入の物理的な痕跡は魔法で全部消されててね……、防犯カメラの映像みたいな客観的証拠がなかったから、警察は相手にしてくれなくって……。ただ犯人は魔法の処理が雑なのか下手凄くみたいで、部屋中を調べたら直ぐに魔力反応が出たの。それで国魔連に通報したんだけど、人員が確保出来次第~とかいってそれっきりなのー」
「…………」
「だったら自分で網を張って、犯人を捕まえてやろうと思って。それで情報集めながら、ずっとグルグルと街中をドライブして、犯人の魔力を追っていたら、犯人と同じ魔力反応を君たちから感じるじゃない? それでピンときちゃったのよね。君たちは犯人を知っているって」
「メイさん、それは、どこまでが本当の話なんですか」
「燎祐くんは、どこまでだと思う?」
「正直、全部嘘だと思います。今の状況じゃ、メイさんのこと、これっぽっちも信用できません」
「酷いっ! お姉さん信用なさ過ぎて泣いちゃいそう! 手が滑ってレナンちゃんを剥いちゃいそう!」
作ったような声で戯けるメイ。
けれど、ますます不審がる二人に観念したのか、ピタっと止めた。
「でも、君たちから犯人の魔力を感じたのは本当だよ? これでも私、特異体質で、体内の魔力生産量も過剰だから、魔力線で町中に網を張るくらいはできるのよ。いやあ~、寵看さんに魔力調律習っていてよかった~」
それを聞いたレナンは、メイの神出鬼没だった理由が腑に落ちたらしかった。
一方、燎祐は別の不安を掻き立てられていた。
もしメイが、母の持つ魔力調律技能や、まゆりの特異な能力を目的として、近づいてきたのだとしたら。他人を自在に操る力を使って、既に母とまゆりを術にかけているのだとしたら――――
「あ、誤解される前に言っておくと、まゆりちゃんと寵看さんは、私の魔法のこと全部知ってるよ?」
「…………」
メイは、燎祐の心中を見透かしたことを口にして、一人笑った。
的の中心を射貫かれた燎祐は、薄ら寒いものを感じずにはいられなかったが、それでもメイの言葉が嘘には聞こえなかったので、ひとまずのところ安心した。
「ところでメイ殿、さっきの話の続きだが……。ここから、というのはどういう意味か教えて欲しい」
タイミングを見て、レナンがスパッと話題を入れ換えた。
メイは茶化さずに応じた。
「駐車場にいる間に魔力線を繋いでおいたの、向こうの車にね。だから地図がなくても追えるといえば追えるんだけど……。でも移動体を追うのにはかなりの集中力が要るし、運転中にずっと魔力線の巻き取りするのはしんどすぎるかなーって思って、いままで温存していたのです、はい」
真実かどうかは分からないが、メイの話は、とりあえず程度の筋は通っていた。
だが疑わしい部分は大いにある。それ以前に、メイ自身が胡散臭くて、とても信用出来ない。
しかしレナンは、今だけは、その感情に背くことにした。
「では、今から巻き取りを開始するわけだな?」
「あはっ、勿論っ! なので、ここからはお姉さんがバッチリ案内しちゃう! だから、安んじてお任せあれー!」
「分かった。メイ殿に任せよう」
カリスの野望を挫きタクラマを助ける、その一念が、レナンの、自身のメイに対する疑念を屈服させていた。
対して、燎祐の心中は未だ煮え切らないままで、限りなく納得出来ない様子だった。
しかし、レナンの中で燃える信念、その一点のみを我がこととして汲み、彼は自分自身の憂いの悉くを捩じ伏せた。
「あとは、なるようになるだけか……!」
うだうだ悩むより行動する方が建設的だ、そう決心して、燎祐は自分の頬をバシッと叩いて前を向いた。
その拍子に、メイは景気よくアクセルペダルを踏み込み、シフトレバーを操作。そしてヘッドライトも点けぬまま、まったく明かりの灯っていない道を突っ走った。




