第二章20 怪我から始まる同棲生活④
一夜過ぎた日曜の朝。
「ダーリン、朝だ。そろそろ起きて欲しい」
目覚ましになったのは、枕元で囁かれたレナンの声だった。
誘われるように目を開けて首を捻ると、やたらと肌色が見えた。次に見えたのは、包帯と黒いレースだった。
俺は、まだ眠い眼を糸みたいに細めて、上下に目を往復させた。そして判明した。
「ち、ちょおおおお!? おまっ、なんで下着姿なんだよ!? 服着ろ!? 服を!!」
「私は暑がりだと言ったろう?」
「だから何なんだよ!? 下着で家ん中うろつく居候いねーから! 服着てるから普通!!」
「ふふん、私は変わり者だからね」
「得意げな顔してなに言ってんだ!? いいから服着てこいよ!? でないと、この部屋出入り禁止だぞ!?」
顔を背けながら捲し立てると、レナンは「仕方ない」の一言を、溜め息のように吐き出して、軽い足音と共に部屋の外に出て行ったので、ホッと一息ついた。
朝イチから、刺激が強すぎる乱入だった。
これでは生理現象でなくとも、我が永遠の息子が、布団の中でウェイク・アップ――――
「――そうだダーリン、朝餉の仕度が済んでいる。早く降りてきてくれると嬉しい。ん、どうしたんだい、急に布団にくるまったりして。熱でもあるのかい?」
「何デモナイゼ。スグ着替エテ下ニ行クゼ。朝ゴハン楽シミダゼ」
「なぜいきなりカタコトなんだい。まさか二度寝する気じゃないだろうね?」
「信じろ、俺を!!」
「口でどう言おうと、二度寝してしまうだろう、その態勢はどう見ても……。はあ、起きてくれる気がないなら、無理矢理にでも布団を剥がしてしまうよ?」
唐突に、背に負のオーラを感じて、くるっとレナンの方に顔を向けると、わきわきと指をうごめかす、レナンの左手が見えた。
そして、俺を眺め下ろす蒼い双眸は、どこを引っ掴めば一番布団を引っぺがしやすいかを算段しているように、不気味な光を薄らと放っていた。
その表情を見れば、口に出されなくても分かる、こいつはマジで引っぺがす気だと。
だが、不味い!
今は不味い!!
だって今、ウェイク・アップした我が息子が、股にいるんだ!!
それを必死に寝かしつけようとしても、俺の目の前には、にじり寄ってくる下着姿のレナンが!!
多感でお盛んな我が息子が、こんな状況で鎮まるはずがない!!
むしろビンビンだ!!
そんな我が身(※我が息子)の危機など知りもせず、
ひた……ひた……
レナンの足裏が床をこする音がこちらに近づいてくる。
このままじゃ死を待つばかりか、俺の尊厳が死んでしまう!!
そうか、これが尊厳死か?!
いや、絶対違う!!
無様に死んでいくのは、俺の尊厳だけだ!!
そして死んでしまいたい俺の方は死ねない!!
なんてイベントだ!!
そうこうしてる間に、レナンの左手が布団に伸びてくる。
俺の背に緊張が走る。
今レナンの手を退かそうとすれば、布団の防御が、文字通り手薄になる。
しかし、レナンを止めなければ、俺は複雑な意味で死ぬ!!
どうすれば、どうすればいい?!
汗がたらりと滑っていく。敷き布団の上に、小さな汗シミが浮いた。
瞬間、俺はすべての思考を完了させた。
「待てレナン。この下は裸なんだ」
女子ならば、誰だろうと手を引っ込める、名句だ。これならレナンと言えど、諦めざるを得まい。
今こそ我が苦難に勝ち鬨を上げるとき!!
「ふむ、ならば布団を剥がせば嫌でも起きてくれそうだな。では早速」
「なんで逆効果!?」
「ダーリンが起きてくれないと、朝餉が遠のく。私はもう空腹なんだ」
悲報――――レナンは人の裸より空腹を優先する。
レナンは、むんずと布団の端を掴み、俺を包んでいた儚いヴェールを取り払わんとした。
セルフ簀巻きながらモゾモゾと抵抗するも、レナンの信じられないパワーの前には、焼け石に水どころか、山火事に水鉄砲だった。
瞬間、ふわっと布団が宙を舞う景色の向こうに、自信たっぷりのレナンの顔が見えた。
直後、頼んでもないのに世界がスローモーションになった。
その残酷なスローモーション映像の中で、レナンのキリッとした双眸は、だんだんと目を点にしていった。
なんせそこには、パーソナルキックを受けるサッカー選手の如く、鼠径部を守護する俺が――
「「…………」」
無言の空間に、ふぁさっ……と、布団が舞い降りる。
レナンは布団を掴んだまま硬直。その頬と耳に、競うように朱色がさした。
あ。さようなら俺の尊厳。
常陸燎祐は、ここに死んだ。
「――――――ダ、ダダ、ダ、ダーリン!! 全裸なんて、真っ赤な嘘じゃないか!! ま、まったく、私を謀るのも、いいいい、いい加減にして欲しい!! 私は、く、空腹なんだ!! 早く着替えて降りてきてくれ!! い、いい、いいね!!」
レナンは、重大な「気づき」を誤魔化すように、裏返った声で捲し立てると、掴んでいた布団の端から手を離して、全力で急速反転し、脱兎の如く俺の部屋から退散していった。
静けさの中に取り残された俺は、「ある喪失感」と共に、布団に顔を沈めて啜り泣いた。
「…………もうお嫁に行けない」
****
着替えて居間に降りると、ちゃぶ台には朝食の準備が整っていたが、レナンの姿がなかった。
居たらいたで、どんな顔すればいいか分からなかったから、正直助かったと思いながら、適当なところに座った。
すると着替え終わったレナンが俺の後から入ってきて、向かいに着座した。
「あの、レナン――――」
「ダーリン、私は何も見てない」
凜とした声を響かせつつも、気恥ずかしそうに視線を逸らしているのは、もう「見た」って言っているようなものだった。
俺は、かっ開いた目ん玉をプルプルさせながら、脂ぎった汗をたらした。
変えなくては、話題を!!
「あ、あのさレナン、右腕はもう大丈夫なのか?」
「重ねて言うが、私は見てない!! ほ、本当だ!!」
レナンはバッと顔を伏せ、突き出した左手をブンブンと振りまくる。
気を使ってのことだろうが、もはや残酷な死体蹴りにしかなっていない。
優しさが人を追い詰める、この不幸の名は、いったい何というのだろう……。
「だ、大丈夫だレナン……。お前が見てないのは分かった、十分すぎるほどよく分かった」
「そ、そうかよかった! 私も、まさか、ダーリンがあんなことになっているとは思わなかったんだ……。だから決して悪気があったわけで……はっ!」
レナンは伏せていた顔を垂直に起こすや、つるんと滑った口を押さえ、熟れたトマトよりも真っ赤になった。
「…………あのー、イルルミさん――――――見ましたよね?」
俺がジトーとした言い方をすると、レナンは、しどろもどろになりながら、いやいやをするように首を振りまくった。
「ち、違うよダーリン!! 私は布団の中で、大きくなっていた、お、おお、大きなものなんか見てない!! ほ、本当だ!!」
「…………」
その優しさで、あと何回俺を蹴り殺すつもりなんだお前。
もう死なせてくれよ、俺の尊厳を。
だがこのピンチ、考えようによっては、逆手に取れるかもしれないぞ……!
反撃の機会は、いま、ここしかない!
「なあレナン、見たか見てないかは重要じゃないんだ」
「え?」
「お前のやった行為、それが問題だ、分かるな?」
俺は、バシッと雰囲気を出しながら、低い声でもってレナンに諭すように告げる。
落ち着いて考えれば、なに言ってんだ?、と思うようなことでも、タイミングさえ間違わなければ人は引っかかるもんだ。
すると案の定、俺の醸す空気に押し流されてたレナンは、慌てふためかせていた表情を引っ込めて、少し顔を曇らせた。
「確かにそうだ……。ダーリンの言うとおりだ、すまない…………」
「まあ、そういうことだからさ――――」
「私の身勝手で、プライベートを侵して本当に済まなかった。私は……、ダーリンと一つ屋根の下が嬉しくなってしまって、気持ちが舞い上がっていたんだ……。仕置きなら甘んじて受ける。だから、どうか私がここに居ることを許して欲しい」
蒼い瞳を僅かに潤ませながら、細くなった目で、懇願するようにこちらを見るレナン。
俺は「うっ」と息を詰まらせた。
上手を取って、ちょっと言い聞かせるつもりが、俺は、他に行く当てがないレナンの立場を、上から小突くような真似をしたのかと、自分の浅慮を後悔した。
「ダーリン、どうか軽率な私を許して欲しい」
レナンは言葉を重ねて、頭を下げた。
その光景に、俺は一人、慚愧と羞恥の入り交じった冷や汗を流した。
「あ、ええっと……朝起こしに来るのは全然構わないし、家の中でも自由にやってくれていいんだ! けど、下着姿ってのと、布団引っぺがすのだけはナシってことで、俺からはそれだけです……はい。じゃ、じゃあ、そろそろ朝飯にしようぜ!!」
「しかし、それでは私のけじめが……」
「ま、まあ、俺もレナンの私生活がどんなかは知らなかったわけだし、今回はお互い勉強したと思って、おあいこ様で手を打たないか。レナンは善かれと思ってしてくれたんだし、それにさっきのは俺の言い方も良くなかった。ごめん……」
俺は、レナンの左手を握り、罪悪感がたっぷり詰まった頭を、謝罪と共に下げた。
レナンは俺の手を握り返し、柔らかな笑みを浮かべて言った。
「ダーリン、面を上げてくれ……。そう言って貰えるのは心から嬉しい。ただ、私のしでかしたことでダーリンから謝られるのは、やはり心苦しく思う。でも、赦してくれてありがとう」
その一言ですくわれた気がして、俺はゆっくりと手を離した。
それにしても、急に頬が熱っぽく感じた。
レナンの熱が、知らぬ間に手を伝って顔まで駆け上がってきていたのだろうか。
だがしかし、俺には、それよりも気になることがあった。
この際に、どうしてもハッキリとさせておきたかったことが。
「レナンは右腕のこと、本当に怒ってないのか?」
「まゆりんの話に乗った時から覚悟していた。けれど、ダーリンの心が落ち着かないなら、私はそれを受け止めようと思う。私は怒っていない、本当だ」
「その胆力には頭が下がるよ……。レナン、ありがとう」
「いいんだ」
そう言ってレナンは小さく首を振った。その表情はとても穏やかで、故障に対する不満の情などなく、また俺への罪滅ぼしの意識からでもなく、ただ本当に納得しているのだと感じた。
「なあ、腕に固定用装具してないけど、一人で付けられなかったんなら、手伝うぞ?」
「実は昨晩の内に、保護術式と一緒に、体組織を元通りに再生させる術なんかを仕込んだんから、今朝は付けていないんだ。これで雑に扱っても問題ないし、悪化することもないよ。あとは経過を待つだけさ」
レナンは右腕を差し出すように前に出して、包帯の上からさすった。
肩口から指先までピッチリと巻き尽くされた包帯は、昨晩、巻き直した状態を完璧なまで保っていた。
「そっか。じゃあ装具は窮屈にさせただけか。すまん、余計なもん付けちまって……」
「でもないさ。私は一応特異体質なんだが、第一種の魔法が精ほど得意ではなくてね、どの術もそれほど魔法強度がないんだ。この骨接ぎ紛いの魔法でさえ、上手く効かせるには、ある程度は支持が必要だったんだ」
「特異体質でも魔法が不得手ってこともあるのか……。それよりも、俺はてっきり、レナンの魔法は全部精だと思ってたけど、違ったんだな」
俺がそう言うと、レナンは胸の高さに左手を持ち上げ、開いた掌の上に、ボウッと炎を踊らせた。
「ダーリンは、この炎を見て、どんなことなら出来そうだと思うかい?」
「どんなことって……、燃やしたり、熱したり……。あれ、炎ってそんくらいしかないのか……?」
「だから私も、手に余るところは陰陽術や、拙い第一種魔法で補っている。まあ、実際はもっと色々とできるけれど、それでも炎に出来ることは無限じゃない。ちなみに今は神通力を勉強しているんだ」
そう言ってレナンは左手を軽く薙ぐと、踊っていた炎は、流水のように掌を離れ、僅かに数瞬中空で滞空した後、シュボッと音を立てて消えた。
その時、俺は閃いた。
第二種魔法の勉強――――これだ!
「なあレナン、精は誰でも使えるようになるのか?」
「流石に、誰でも、というわけではないだろうな」
「と言うと?」
「精の性質は、先天的に誰しもが持っているが、それが精として発現できるほどのモノになるかは、半分は運に寄る。大抵の場合、自分の精に別の性質を加えてしまうからね」
「……精に性質を加えるって、どういう意味だそれ」
「人は置かれている環境に合わせて、自身を適応させ、変化させる。喩えるなら、昔は明るい子だったのに、社会に出たら根暗になった、みたいなものだね。この場合、先天的に備えている「明るい性質」に環境負荷が加わって、最終的に暗い性質を発現したことになる」
「てことは、精は後天的に何度も性質が変化するのか」
「変質と言えばそうだが、起こる変化はそれほど単純でもないんだ。例えば、複数の性質を並立する場合や、性質が融合してしまう場合、或いは性質が相殺しあって潰れてしまう場合もある。こうした変性をきたした精を、『沌精』と言う。沌精は性質が不安定ゆえ、余程の訓練を積まなければ、精として安定した発現はできないらしい」
「らしい……、ってことは、レナンの精は、その沌精つーのとは違うのか?」
「私のは、性質が変化し難い、或いは性質が変化できない『純精』と呼ばれるものだ。普通はそれを得るために、性質の変化を排除し、適切な環境に身を置いて訓練をするのだが、希有なことに、私は炎の純精を先天的に備えていたんだ。反面、私は炎の精から受ける影響が大きいんだよ」
あ。だから暑がりなのか。
レナンの謎が一つ解けた。
「あとはダーリンのお察しの通り、自宅では基本は下着姿だ。上からTシャツや、Yシャツを着ていることもあるが、時々だ」
「ま、まだ何も言ってないぞっ!?」
「全部顔に書いてあるよ。ついでだから言っておくと、私は熱い湯船が大の苦手で、完全な水風呂派なんだ。なにせ浸かっている内に勝手に沸いてしまうからね」
「ああ、それで「一番風呂を譲って欲しい」って言ってたのか。……ん。え、それじゃあ昨日の風呂のお湯って」
「私で沸いたお湯だ。言い換えれば、私の煮汁だな」
「アッハイ」
あの時、まゆりが「温暖化の元凶」って罵った理由がなんとなくわかった。考えようによってはエコロジーだが……。
にしても、レナンが恥ずかし気もなく「私の煮汁」とか言うから流せたものの、これがさっきの悩殺下着姿の上、さらに変な雰囲気でも作られていたら、間違いなく卒倒してた。というか、そんなことがあれば高校生の男子には、もはや兵器だ。色々と破壊力が高すぎる。色々と!!
そんな俺の雑念を巧みに読み取ってか、レナンは咳払いを一つした。
「話を戻すが、精は、誰しも習得できる第一種魔法とは、性質が全く違う。たとえ訓練を開始しても、自身が望む性質を得られるかも不明なうえ、精を発現できるかも分からない。加えて、沌精では性質の維持も難しい。それ故に廃れていった魔法なんだよ、精は」
「それって近道が一つもないどころか、補助魔導機以前の第一種魔法よりも、難易度高いんじゃないか……?」
「当然さ。そもそも精霊が使う魔法で、もともと人間向けではないんだ。それを何とか使えるように体系化したのが精だ。その辺は、人外の妖術を、人間が会得しようとするのと一緒だよ」
そう説明すると、レナンは、ご理解いただけたかな?、とでも言いたげな視線を送ってきた。
俺は、キリッとした目で見返し、口端を持ち上げた。
もちろん、さっぱり分かってない。
だって俺、魔法使えないし。妖術もダメだし。
すると対面のレナンから見透かしたような溜め息が、はあ、と零れ落ちて、澄んだ蒼い目がジトっとなった。
「……それでもと言うなら、一度試してみるかい。ダーリンのことだ、そのつもりなんだろう?」
レナンは、右腕を抱えるようにして腕を組みながら、パチっと片目を閉じて、俺を見た。
この勘の鋭さ、流石と言ったところか。
「頼めるのか、俺の指導を」
「基礎程度だが。それと、私としては、ダーリンと組み手もしたいのだが……どうだろうか」
「分かった。そっちは腕が治ったら、いくらでもやろう。他にもレナンの方で、希望があれば言ってくれ。指導の礼も含めて、可能な範囲でなら何でも応えるぞ」
「何でも……。あのダーリン、それは共同生活や訓練に関係しなくても、いいのか?」
「二言はないぞ」
そう言ってのけると、レナンは面を下げて、躊躇うように視線を彷徨わせた。
緑の黒髪が、ふぁさっと揺れて、蒼い瞳が持ち上がった。
「例えば、私的なことを……わがままをいっても、いいだろうか……?」
レナンは、俺と目を合わせながら、何度かまばたきをした。
俺は黙った頷いた。
対面では、レナンは、言い出し辛そうに唇をモゴモゴとさせている。
これは前代未聞の爆弾発言が来るか、と覚悟した刹那――――
「私をもう一度、ハンバーガーのお店に連れて行って欲しい。駄目、だろうか」
レナンは、まったく予想外のお願いを口にした。
俺は、狐につままれたような面持ちでそれを聞いていた。
レナンには、あれが特別なことだったのか。
だから、あんなに嬉しそうにしていたのか。
俺は呆気に縛られたまま固まっていると、目の前のレナンは、僅かに不安そうな色を覗かせ、返事を聞くのを恐れるように視線を下げた。
返事は、もう決まっていた。
「あの店、夕方以降はボリュームが倍になるんだぜ。お勧めは平日の一七時以降だけど、何時がいい?」
蒼い瞳が、ふっと持ち上がって俺を見た。
その時のレナンの顔は、とんでもなく分かりやすかった。




