第二章19 怪我から始まる同棲生活③
「前々から思っていたが、ダーリンは私の名前のことを、なにも言ったりしないのだな」
当面の食料を買い込んだスーパーからの帰り道、唐突にレナンが口にした。
言われてみて、少し考えた。
『イルルミ・レナン』
氏名は、表記が全てカタカナ。
日本人らしくないと言えばそうだが、かといって外国人的な名前でもないし、民族的な語感を含んでいる感じでもない。
表するなら「一風変わった名前」といったところか。
「いつもなら一番に訊かれるのだが……、私から人に振ったのは、これが初めてだよ」
言いながら、レナンはチラチラと俺の顔を見た。
つまり、自分の名前をどう思っているのか気にしているらしい。
「ん~、俺は印象に残る名前だと思うけどな」
「…………小さい頃は、よく変な名だと言われて、周りにからかわれてきたから、少し安心したよ。ありがとう」
レナンは目尻を下げて、小さな微笑みを浮かべた。
それから、僅かに、遠い目をした。
「私は日本国民と区別されるために、日本人的な、姓も名も持つことが許されていない。だから私の姓名は、すべてカタカナなんだ。それが人外に与し、国民の権利を無くすということなんだよ」
「じゃあさ、レナンは自分の名前が、嫌なのか?」
「そんなことはない。私は親がくれた、この名が大好きだ。それでも、やはりどこかで自分が他人と違うことに、気が弱っていたのかも知れないな……」
なるほど、名前か――――
そんなところにコンプレックスがあったとは意外だった。
俺の場合、姓名が難読っぽいらしく、とりあえず初対面の連中から「常陸」呼ばわりされるか、「名前読めないヤツ」認定されていたくらいの思い出しかない。
ちなみに、ふんわりした子は、毎回「名前の漢字はどう書くの?」とか「え、名前全部ひらがな!?」とか言われてた。
あれ、まゆり俺も、案外拗らせそうな感じじゃないか……?
「他人と違ってたって別にいいじゃないか、レナンの場合、少なくとも親とは名字で繋がってるんだしさ」
「言ってなかったが、この姓は私一人だけなんだ。親の姓は垂、名は燈妍と言う。まったく別なんだ」
垂……、はて、どこかで聞いたことがあるような?
しかし、別の疑問が頭を出したので、先にそっちを引っ張り出すことにした。
「じゃあ、レナン家の、もう一人の同居人ってのも、全然違う名前なのか」
「くーちゃんだ」
「え」
「もう一人は、くーちゃんだ。耳がモフモフで、とっても可愛いんだぞ」
ふふん、と胸を張って、自信たっぷりにレナンが言った。
いや、知らねーよ!?
何者なんだよ、くーちゃん!?
「つーか「くーちゃん」って、それ名前じゃなくて、呼び名じゃないのか?!」
「くーちゃんはくーちゃんだ。ちなみに我が家でよく預かっている人外の子供で、半分私の妹みたいなものさ。といっても、私とは性格一つとっても、全く似ていないけれどね」
「はっ? え、……レナンがお姉さん……? 嘘だろ……、だってお前、見た目はともかく中身なん――ぬわあああっっちいぃぃい!!」
「ダーリン火傷したいかい?」
「なんだよ自覚あるんじゃねーか?! って、あッッちぃいいいいいい!! いきなり発火すんじゃねえええーーーッ!?」
「ダーリンもっと火傷したいかい?」
「お、俺はお姉さんっぽいなって前から思ってたよ!! 流石は子守上手な、年上のイルルミさんだぜ!! 頼れる女は違うぜ!!」
「まあいいさ。でも次はもっと心を込めて頼むよダーリン」
レナンが小さく息をつくと、腕伝いにメラメラと燃え上がっていた炎が、シュッと消えた。
俺は半分涙目になりながら、熱でヒリつく右肩をふーふーしながらさすった。
「焦げてねーのに決闘の時より痛てーし……」
「皮膚は四三度以上の熱で痛みを感じるんだよ。ちなみに燃える温度は一二一度だ。覚えておくといい」
「何に活かせばいいんだよ、その知識」
「そうだな、強いて言えば、覚えておいてくれると私が嬉しい」
「要は何の役にも立たないってわけだのわあああっちいぃいいいいい!!!」
またも右腕がメラっと炎上した。
「覚えておいてくれると私が嬉しい」
「覚えた!! もう覚えた!! すげー覚えた!! 人生に役立つ知識をありがとうイルルミさん!!」
「どういたしまして、ダーリン」
と、その時――――
後ろから走ってきた真っ赤なスポーツカーが、俺たちの隣で、ピタリと停車。同時にレナンの炎も収まった。
車の窓にはスモークが貼ってあって、中の様子はうかがい知れず、いったい何事だと訝しんでいると、目を留めている扉とは反対側の、運転席側のドアが、翼のように上向きに開いた。
あれ。この扉の開き方、どっかで見覚えが――。
と思うや否や、黒髪の女性が、颯爽と車のボンネットを飛び越え、ヒールの音を甲高く打ち鳴らして、俺たちの前に身を躍らせた。
あ――――この人は、ヤバイ!?
頭の中心が、大音量で警戒警報を打ち鳴らした直後、しかし俺は、そのことを一瞬で忘却した。
「スゥゥゥッゥ…………。
燎祐くん、これは歴とした浮気よおおぉぉぉおおーーーーーーーーーーーーーー!!!」
こちらをビシッと指さし、素っ頓狂な声を上げるメイさん。
俺はたじろぐよりも寧ろ、メイさんのテンションと声量に、一瞬意識が遠のく思いがした。
酷い風邪を引いた時みたいに、頭の中がぐわんぐわんする。
「ダーリン、この女性は……」
「あーっと、この人は、メイさんって言って近所の――――」
「だ、だぁだどぁー、ダーリンですってぇぇぇ!? 女の敵ぃぃぃ!!
燎祐くんの破廉恥ぃぃぃぃいいいーーーーーーーーーーーーーー!!!
今すぐその骨折少女を紹介してくださいお願いしますうううううう!!!」
こちらの紹介を遮ったメイさんは、ヤクザよりも暴力的に、俺の胸ぐらを、ぐわしっ、と掴んで激しく揺さぶった。
ただでさえ混乱気味の頭が、ここぞとばかりに思いっきりシェイクされて、もはや思考が纏まらない。
そんな彼女の勢いに驚かされてか、レナンは俺から腕をほどいて僅かに身を引いたが、それは大正解だ。
だってこの人は、普通じゃない!!
「ねえええええ!! 早くその娘を紹介してよおおおおおおおおおおおお!!! 早くううううううううぅっぅう!!!」
「うわっ!! だめだこの人!! 初めてまゆりを見たとき並に、正気がブっ飛んでる!?」
「まゆりちゃんは可愛いでしょお!! あんな子見つけたら、拉致監禁するでしょお普通!!」
可愛いに全力同意しても、その「普通」の尺度だけは絶対におかしい。
「気をつけろレナン、この人は、自分好みの女の子を発見すると、目の色どころか、頭がおかしくなっちゃうんだ!! 普段は理性的で優しいお姉さんなんだが、この状態になると、性格どころか人格まで七二〇度以上変わるんだ!!」
「うひ、うひひっ……うひひひひひひ」
メイさんは俺の胸ぐらから手を離すと、軟体動物みたいに身をくねくねとさせながら、レナンににじり寄った。
「は! その動きは「靴舐めさせてください!」って言ってくる動きだぞ!! 距離を取れ!!」
「なっ!? 靴をっ?! どういう御仁なんだ、この人はっ!?」
「骨折少女さん!! 何でもしますから、貴女の靴を思いっきり舐めさせてください!!」
「ご多分に漏れてないよダーリン!! 蹴っていいかい!!」
「あっ、蹴ってくれるの!! 肋でも顔面でも思いっきりどうぞ!!」
「――――ゑ?!」
メイさんの極まったマゾ迫りに、これでもかと顔を引き攣らせて、ドン引きするレナン。
ハァハァしながら自分を平手で打って「バッチ来い!」するメイさんを、ハイライトの消えた蒼い瞳が、冷たく見下ろしている。
さながら、キモいウジ虫でも見つけたかのようだった。
そう、まゆりも初対面の時はそうだった。
あの屈託のない、まるっとしたエメラルドの瞳が、ふわっとした可愛らしい表情が、まるで燃え尽きた太陽のように熱も色も失ったんだ。
とはいえ、今ではかなりの仲良しになっているが、初対面の時のメイさんは、大概の異常変質者が生やさしく感じるほどヤバイ。
「お願いしますううううう!! お願いしますうううううう!!」
みずみずしい肌色をした麗しい太ももに縋り付き、上目遣いで懇願するメイさん。
その一方で、レナンの顔から血の色が失せて、だんだんと青白くなっていく。
しかしメイさんは止まらない。
「ああああ、骨折少女の御御足ヤバイぃぃぃぃい!! ホットパンツからスラッと伸びるスレンダーな御御足ヤバイイィィイイイイ!!!」
「ヤバイのはメイさんの方ですよ!!」
しかし、こっちの話など聞く耳など持たず、メイさんはレナンにガンガン迫る。
「連絡先!! 連絡先交換しましょう!!」
「ダーリン、これ、とって……」
レナンは、油切れをおこした機械みたく、滑りの悪い動きで顔をこっちに向け、次に足に絡みつくメイさんを指さした。
だが、そんなことなどお構いなしに、メイさんは、レナンの脚に、頬を埋める。
「たまらない、この温もり……。骨折少女最高かよっ!!」
「だぁぁぁりぃぃぃぃいいいん!!!」
目を丸くして本気で助けを求めるレナン。
「あのメイさん?! レナンがマジで嫌がってますんで止めてくだ――――」
俺は、少女狂いのド畜生を、レナンから引き剥がそうとした、その瞬間。
ド畜生は、超倍速で開花した蕾みの如く、スゥーと優美に立ち上がり、大人の女性らしい余裕のある笑みをみせていた。
「あら、どうかしたの燎祐くん?」
「口端にヨダレの痕残ってますよメイさん……」
あらっ、と少し驚いたような顔をして、綺麗に折り畳まれたハンカチを口端に当てるメイさん。
にしても、この切り替えの速さよ。
神は二物を与えないと言うが、この人の場合、二物目が悲惨すぎる。
「それにしても、燎祐くんには、まゆりちゃんという最強の合法ロリ――ごほっごほっ、フィアンセがありながら、その裏でまさか、こんな骨折系の超絶美少女ともデキてたなんて……。ついこの前、燎祐くんを瞬殺する、まゆりちゃんの夏コーデを完成させたばっかりだっていうのに……、お披露目の前に、こんな素敵すぎる強敵を私の前に連れてくるなんて……」
「聞き捨てならないことが多すぎて、正直どこからつっこんだらいいんだろうか。しかし、どうしようこの人。そうだ、とりあえず何かで黙らせるのが良いだろう。それから俺たち二人で、この場から離れよう。俺はレナンに目で合図する」
「心の声がダダ漏れだよダーリン」
「俺はギョッとした」
「どうやら私のダーリンも、そこの女に触発されてか、残念な方向に頭がおかしくなってしまったらしい。って、なんで私まで口調がおかしくなっているんだ!? と絶句した」
思わず自分の口を押さえるレナン。
その時、またカツンとヒールが地面を叩く音がした。
頭の中が一瞬真っ白になった。そして世界の色味が、一瞬で塗り変わった。
その刹那、目の前に、腕を組んで微笑んでいるメイさんが見えて、俺はハッとなった。
「くそっ、やっぱりやられてたかッ!!」
「どういうことだい……。いったい何がどうなっている……!?」
「さっきのは幻覚だよ。俺たち二人、出会い頭にメイさんに、魔法を掛けられてたんだ。あのヒールの音で」
「錯乱人形――マリオネット・コンフューズっていうのよ? 驚いた? 私の魔法は、あらゆるものを擦り抜けて、心に生じたスキを狙い撃ちにしちゃうの。だから、まーイロイロできちゃうんだけどー、その分衝撃的なイベントが必要なのよねっ。ちなみに、さっき二人が体験したことの半分は、私が即席で作ったシナリオなのでしたーっ。どお? 凄いでしょーっ」
「そんな、あれだけ生々しい感覚が、幻覚だと……」
「あー……レナン、今のは「半分は現実」って意味だぞ」
直後、レナンは弾かれたように自分の太ももに目を走らせ、それからメイさんを見た。
見計らったようにメイさんが笑った。
「ごちそうさまでしたーっ」
レナンは「ひっ」と小さく漏らし、顔を青くしながら俺の後ろに隠れた。
「で、メイさんはこんなところで何を?」
「あはーっ、実はたまたま見かけて、私キミが浮気してるのかなーって思って。まゆりちゃんを応援してる手前、ね?」
「それで、メイさんの判定はどうなんです?」
「え、いや、そんなの誰がどう見ても真っ黒でしょー。だって、こんな美少女中の美少女を連れちゃって、道ばたでキャッキャ・ラブラブしてるワケだしー。それとも燎祐くんは、婚姻前に別の女と寝るのはセーフみたいなノリで、真っ白だっていいたいの?」
「何すか、その妙にリアリティのある喩えは……」
「あの……メイ殿……、私とダーリンの間柄は、義母さまも知っていることで、勿論まゆりんにも許可も頂いていて……。その、あまり誤解無きように願いたいのだ……」
レナンがおっかなびっくり答えた。
にしても、いつになく焦れったい言い回しを取った。揚げ足を取られるのが嫌だったのか、それとも単にメイさんが苦手なのかは分からないが、たぶん後者だろう。
それを聞いたメイさんは、腕を組んだまま、うんうん、と唸るように首を縦に振った。
「なるほどー、つまり、寵看さんお墨付きの公認二股なのね!」
「「ブーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」」
朝飯を噴出する勢いで、二人して噴き出した。
あはーっ図星かー、みたいに笑うメイさん対して、レナンは大いに取り乱した。
「わ、私は、ま、まだ切磋琢磨している最中で、ダーリンが二股というワケでは決して無く――――」
「レナン落ち着け?! って、メイさんも、この辺で勘弁してくださいっ!」
「あはっ、可愛かったからついやっちゃいました!」
てへっ、と舌を出すメイさん。
必殺の笑顔を向けられているはずなのに、なんでだろう全然嬉しくない。
「償いに、困ったことがあったら、私が相談に乗ったげるから許してね。あっ、そーだ、レナンちゃん可愛いから、私から特別に一つアドバイスしちゃう! お耳貸してー!」
するとメイさんは、俺の横からぐるっと回り込んで、レナンに接近し、断りもなしにズイッと顔を寄せると、一方的に耳打ちをした。
その絵に、不思議と一瞬、邪気を感じた。
何故だかは後になっても分からなかった。
用が済むと、メイさんはレナンの耳許から顔を離して、にこりと微笑んだ。
レナンは、どうにも承服しがたそうな目をしながら、メイさんを一瞥した。
「それじゃあ燎祐くん、レナンちゃん、またねーっ」
メイさんは、一方的な別れの挨拶を投げると、吸い寄せられるみたいに車へと引き返していった。
赤い車が去って行くと、レナンは気を落としたように、俺の隣に並んで、ぽつりと零した。
「ダーリン……、私は、あの人が苦手かもしれない」
「同感だな。俺もだよ」




