第二章16 別離①
ピンポーン――――
ピィィンポーン――――
土曜の朝っぱらから、インターホンの甲高い音が快調に響いた。
虚ろな耳にも届いたそれは、意識が覚醒していくにつれて、鮮明になっていく。
俺は、ガバッと身を起こして、時計をみた。
時間は朝の六時。
「誰だよ、目覚まし代わりにお見舞いしやがって……。まゆりだって寝てるんだぞ、まったく……」
眠い目をこすりながら隣へ目を移すと、俺の言葉に反して、まゆりの姿はベッドの上になかった。
一瞬、自分の寝相の悪さを疑って、ベッドの隅に追いやったかと思い、布団を引っぺがしてみたが、やっぱり見当たらない。
「…………あれ、まじでいないし」
けど、枕も一緒に消えている辺り、俺より早くに起きて自分の部屋に戻ったのかも知れない。
「そういや最近はずっと早起きしてお弁当作ってたもんなあ。こりゃあ、まゆりのことだから、今日が休日なの忘れて作ってそうだ」
俺は、背をぐーっと伸ばしつつ、人を急かすように鳴るインターホンに応えるべく、足を玄関へと向けた。
階段を下っていくと、引き戸の前に人影が薄らと見えた。
こんな朝早くに誰だと思ったが、心当たりが、一人だけあった。
玄関の引き戸を開けると、朝のひやっとした空気が室内へと滑り込んできてた。
それと一緒に、予想通りの人物が、目に飛び込んできた。
「よぉ、レナンおはよ。約束はしてたけど、来るの早すぎじゃね。まだ六時になったばっかりだぞ」
「早くに済まない。しかし、今の私は、どうしても君に伝えるべきことがあって参上した。どうか時間を割いては貰えないか」
「ぜんぜん構わないけど、妙に畏まってどうした? つーか、ここで話ってのもなんだからさ、上がってくれよ。茶は用意できないが、水くらいは出せるぞ」
「気遣いは無用だ」
そう言って、小さく首を振った。長い緑の黒髪が静かに揺れた。
レナンは、普段の開けた衣装とは違って、何かの正装のような丈長の白い外套を纏っており、それが持ち前の雅な印象に殊更拍車をかけているように映った。
これは意外なものを見たと感心しているうちに、レナンは外套のポケットから、小さな木箱を取り出した。
ぱっと見、小物入れか、オルゴールっぽい。
これは何処の土産だ?、と思っていたら、レナンは、それを丁寧に、俺の前に差し出した。
「私はこれを君に渡すように、まゆりんから託かっている」
「まゆりから?」
レナンは静かに頷いた。
俺は、真剣な雰囲気に促されるまま、意味も分からず木箱を手に取った。
軽く振ると、カタカタと小さな音がしたので、中身を確認しようと上蓋に指を掛けた。
すると、どういうわけかレナンの手に制止されてしまった。
「開けるのは部屋に戻ってからにして欲しい」
レナンの目は真剣だった。
「分かった分かった。ま、とりあず上がれって、そこ寒いだろ」
「いいや。私はここにいる」
レナンは、俺に背を向けた。
その真剣味がスゴかったので、俺はすぐにポッキリと折れて、箱を片手に、すごすごと部屋に退散した。
「俺、もしかして気を使われたのかな……。まあ何するにしたって、寝間着のままってワケにはいかんよな……」
俺は、さくっと私服に着替えて、レナンをいつ部屋に上げてもいいように、軽く片付けをしてから、木箱を手に取った。
それにしても昨晩中一緒だったのに、こんなモノの受け渡しをレナンに任せるって、まゆりにしては随分回りくどいことをする。
性格的に変化球は得意じゃないのに、どうしてそんなことをしたんだろうと思ったとき、俺の指は、頭の疑問とは関係なしに、木箱の上蓋を開いていた。
その途端、木箱の中から、翡緑の光が噴水のように飛び出した。
「な、なんだこれっ!?」
驚きのあまり、俺は木箱を取り落とした。
すると木箱は、手を離したホースみたく、勢いよく体を振って、翡緑の光を部屋中に振りまいた。
「箱に、まゆりの魔力が篭められていたのか……?」
呆気にとられている間に、部屋の中は、淡い翡緑色の燐光に包まれていた。
俺は頃合いを見て、足下で暴れている木箱を拾い上げたら、光の噴出がピタッと収まって急に大人しくなった。
「何なんだこの箱……? って、あれ、なんか底の方が、やけに光ってないか……」
その瞬間、箱を持つ手に熱を感じた。俺は取り急ぎ、箱を机の上に置いて、少し距離を取った。
爆発するってことはないと思いたいが……、
「レナンのヤツ、こうなると知ってて家に上がらなかったってことはないよな!」
固唾を呑んで動静を見守っていると、突然稲光のような強い閃光が瞬いた。
思わず、腕で顔を覆った。直後、一際強い閃光が走って、光が収まった。
俺がゆっくりと腕を下ろしていくと、机の上の木箱から、逆三角形状に光が伸びていた。まるでSF映画にあるようなホログラムのようだ。
俺が目をしばたかせていると、その中に映り込む人影があった。
銀色の髪に、エメラルドの瞳、それは紛れもなく「まゆり」だったが、普段と一つ違う点が一つあった。
「え……国魔連の制服……どうして」
『おはよう燎。この恰好でもう分かってるとおもうんですけど……、私、行くことになったの』
「…………おい、嘘だろ……、行くってどこにだよ! 聞いてないぞっ!」
『場所は分からないですけど、すごく遠いみたい。海の上なんだって。それでね、生まれて初めて船に乗るの。っていっても、豪華な客船じゃなくって、灰色の軍艦なんですけど。それに乗って、この国の敵を倒しに行くの。私、頑張るから。いつ戻ってこれるか分からないですけど、ちゃんと頑張るから……。燎は心配しないで』
映像のまゆりは、いつかと同じ、儚げな顔で微笑んだ。
……敵って、敵ってなんだよ。
心配しないでって、なんだよ。
「何で……、なんでお前が行かなくちゃいけないんだよ!! まゆりッ!!」
『きっと私、出発前に、燎におねだりしてると思うんですけど……、なるべく受け入れて貰えていると嬉しいです。あと、それからね、私ね、いつ戻れるか分からないの。だから、もしものお話、するね。もしも――――……もしも、私が帰ってこられなかったら、その時は、ちゃんとおいい嫁さんを貰ってね』
ホログラムの中のまゆりは、居間にも消え入りそうな笑顔を虚空に向けた。
その頬には、薄らと、涙の筋が流れていた。
『も、勿論、私だって一杯頑張るんですけど、でも、駄目なときもあるかも知れないので……。だから……、その為の魔法を、もう燎にかけてあるから。もし私がいなくなったときは、燎は、私を忘れられるから。大丈夫、ですっ!』
俺が、まゆりを忘れる……?
その魔法を仕込んである、だって?
どういうことだよ。
一体どういうつもりだよ。
何でそんなことをしたんだよ。
『伝えるのがこんな形で……、直接言葉に出来なくて、ごめんなさい。勇気がなくて、ごめんなさい。ごめんなさい……っ』
映像の中のまゆりは、何度も何度も謝った。
その謝罪の理由が、俺には、分からなかった。
『償いにはならないけど、私に作れる一番の御守りを燎に残していきます。『誰か』探しに役立ててください』
ずっと目を離さず見ていたはずなのに、断片的な記憶のようにしか覚えていない。
『でも、きっと燎は納得してないと思います。すごく怒ってると思います。でも、これだけは分かって欲しいの。ほかの誰かがじゃなくて、私がやらないといけないの。私にしか出来ないことなの。だからね――――久瀬まゆりは、行ってきます』
ホログラムの映像が尽きると、部屋中に漂っていた光も晴れて、箱の中に茨の指輪だけが残った。
俺は暫く、無言で立ち尽くしていた。
頭の中身を全部取り除かれてしまったような空虚さに、目の前がクラクラとした。
思考が透明だった。自分自身を真後ろから俯瞰しているように、心が空白だった。
「――――――」
しかし、だんだんと、足下から震えが走った。抑えきれない怒りの感情だ。
それが血管を逆走し、皮膚を突き破って、今にも破裂しそうだった。
瞬間、俺は、爆発寸前の衝動を抱え、部屋を、玄関を飛び出した。
そして、目をつぶって佇んでいたレナンの襟首を掴んで、思い切り前後に揺さぶった。
「お前、全部知ってたなっ!! 何でだ!! どうして黙ってた!!」
「約束したからだ。決して口外しないと」
レナンは目をつぶったまま、俺に為されるがままだった。
その開き直ったような、すました態度が、俺の逆鱗をすくうように撫でた。
頭の中で、太い綱が千切れる音を聞いた。
「そんなことでかよ……ッ!!! そんな、詰まらない意地張って、お前は今まで黙ってたっていうのかよ!!」
「その通りだ」
「あいつは、国が決めた『敵』を処分する兵器じゃない!! どれだけ人と違う規格だろうと、まゆりは人間だ! 知っていたなら、どうして相談してくれなかった!! なんで言ってくれなかった!! どうなるかくらい、お前にも分かってただろう!! くそっ、なに考えてんだ!!!」
「それでも、私は久瀬まゆりと約束したんだ」
蒼い瞳が俺を静かに見据えた。
それでも俺の感情は収まるところを知らず、掴んだ襟首を千切れんばかりの力で引き寄せ、目の前のレナンを睨め付けた。
「まゆりもまゆりなら、お前もお前だ!! どれだけ身勝手なんだよ!!」
「身勝手と言われようが大いに結構。私への責め苦は甘んじて受ける。だが、彼女への言葉だけは撤回して貰う」
「何だと?」
「君は、久瀬まゆりが、『国のために死ね』と言われて、二つ返事で喜んで行ったとでも思っているのかい」
「それはっ…………」
「彼女は、久瀬まゆりは、自分の一番大事なものを守るために、自分のすべてを諦めたんだぞ。その辛さが君に分かるかい。本当は君に、真っ先に相談したかったはずだ、一番に知って欲しかったはずだ、行くなと言って止めて欲しかったはずだ。でも、知られてしまったら、もう絶対に離れられないと分かっていたから、だから彼女は君にだけは言えなかったんだ。その懊悩が、苦しみが分かるかい。誰よりも心を寄せている君に、誤解されたまま離れていく彼女の悲痛が、君に理解できるかい――――」
レナンの蒼い瞳が、言葉をつむぐ度に、熱く燃え上がっていった。
嵐の勢いで突っかかっていた俺は、抉るように迫ってくる言葉に何も言えず、ただわなわなと震えていた。
「――――なにが彼女の気持ちだ……知った風にごちゃごちゃ言いやがって……ッ!!」
その時、レナンが、俺の手を勢いよく払いのけ、次に掌の一押しを俺の胸に見舞った。
「――!?」
攻撃ではなかった。しかし虚を突かれた一押しに、後方に空足を踏んだ。
俺は直ぐに顔をレナンに戻した。
「――――それが君の態度か。ならば私は、今この場で、君を降伏しなければなるまい」
強い闘志を宿らせた蒼い瞳が、俺を睨んだ。
レナンの全身からは、精の炎が、闘気のように湧き上がり、かつての決闘の時以上に、気迫が充溢している。
だが、俺も引けなかった。
「だったらここで決着付けてやるよッ!」
心の底から噴き上がる怒りが一気に爆発した。
俺は、全力を一発の拳に装填し、衝動に駆られるまま地を蹴って飛びかった。
「うらああああああッッ!!」
渾身の拳が、石火の勢いで炸裂する。
瞬間、痺れるほどの衝撃が腕を伝って体中に伝播した。
間違いなく、入った。
だが、拳はそれ以上進まなかった。振り抜けなかった。
拳を打ち合わせたかと思った刹那、俺は、眼前の光景に目を疑った。
今の一撃を、レナンは、片腕で受け止めていたのだ。
「こんなものか」
「!?」
レナンの刺すような言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
そして、受け止めたレナンの腕を見て、今度は息を詰まらせた。
「お、お前っ――」
俺の拳を受けきったレナンの手は、指はどれもあらぬ方向を向き、腕に至っては明らかに関節がひとつ、ふたつ増えていた。
腕が折れている。手が壊れている。その様が、はっきりと見える。
俺は、自分のしたことが急に恐ろしくなって、拳を引っ込めた。
「こんなものかと聞いているんだッ!!!」
鬼気迫る顔でレナンが吼えた。
直後、レナンは壊れた手に力を篭め、折れ曲がった腕で、俺の顔面をぶん殴った。
視界が右にカッ飛んだ。
痛くはなかった。
だが身の凍り付くような恐怖があった。
俺は震えながら、横目でレナンを見た。
普通の形を忘れてしまった腕が、再び振りかぶられていた。
怖い――――
俺は恐れのあまり身を縮めて、目を瞑りながら両腕で顔を覆った。
ぺちっ、ぺちっ。
攻撃とは思えない弱々しい打撃が、俺の腕を繰り返し打った。
俺は震えながら目を開けて、腕の隙間から、向こう側をのぞき見た。
そこには依然、闘志を燃え上がらせたレナンが、射殺すような視線を携え、壊れた腕を振るっている姿があった。
「や、やめろ! やめてくれ!」
しかし、レナンの攻撃は止まらなかった。
「ならば訂正しろ!! そして二度と、久瀬まゆりを軽んじるな!!」
「わ、分かった! まゆりは悪くない!! 誓う! だからもうやめてくれ!」
その時、ピタッと衝撃が止んだ。
恐る恐る腕の守りを解くと、レナンは、構えの姿勢をゆっくりと崩している最中だった。
それを見て、言いようのない安心感が胸の内に湧き上がった。
「宜しい。では、君は、彼女を信じて帰りを待てば良い。その間、私たちは、私たちのすべきことをする。これなら鬱屈とした気も紛れるだろう。と言っても、君が私に協力するならの話だが」
「…………レナン、お前まさか、それを言うためにわざと」
「買いかぶりだ」
レナンは俺と視線を繋げたまま、しかし纏っていた精と剣呑な気配を、体の底に沈めるように引っ込めた。
精の熱が収まったことで、それまではためいていたレナンの外套と髪が、吊り糸をきったように重力の方向に沿って流れ落ちた。
「君の選択を聞かせてくれ」
凜とした声が耳朶を打った。
風が吹き、庭木の低い梢が、足下の雑草が、さやさやと鳴る。
そんな静けさの中で、俺たちは向かい合ったまま、黙していた。
レナンの蒼い瞳が、答えを迫るように光った。
俺は観念して沈黙を破った。
「お前に協力する。俺に手伝わせてくれ」
「そうこなくてはなっ」
気をよくしたレナンは、口角を不敵に吊り上げた。
「契約の印だ、手を出せ」
そう言ってと俺にを出させると、レナンはハイタッチをしてきた。
それが、あろうことか壊れた方の腕だった。
「ひっ!」
俺はドン引きして、手を引っ込めた。
直後、契約のハイタッチが思い切り空振った。
レナンの顔に、ギョッとした表情が浮かび上がった。
「ちょ酷いぞっ、何で避けたんだい!! そこは受けてくれるだろう普通!?」
「いや、だって、ほら、腕が普通じゃないだろ……腕が」
俺がそう返すと、レナンは、じわっと、目尻に涙を溜めて、キッと俺を睨んだ。
「なあレナン、その腕、大丈夫なのか?」
「ちっとも大丈夫ではないっ」
「え、でもお前、さっきその腕で、平気そうに俺に殴りかかって――――」
「――――痛かったに決まってるだろう馬鹿ダーリン……っ!!」
感情が堰を切ったように、レナンが叫んだ。
それが腕に響いてしまったようで、痛そうに腕を押さえて蹲った。
俺は傍に寄って、背をさすった。
「ご、ゴメン、怪我させて悪かった……。まさかお前が、やせ我慢してるとは思ってなかったんだ……。けど、なんでだ……決闘の時は、そんな怪我にならなかったのに……」
「私の精は特別なんだ。魔法耐性がなく、貔貅もないダーリンが触れては大事になる」
じゃあ、さっきは受け手の守りを完全に解いていたってことなのか。
「やっぱりお前――――」
「おっと、みなまで言ってくれるなダーリン。私は、ダーリンが頭で分かってくれれば、それでいいんだ」
レナンは完全に涙目だった。
その上に涙声が効き過ぎて、喋る言葉が全部濁音になっていた。
不謹慎ながら、これは可愛い。
それが俺の見知っているレナンの姿とあまりに違いすぎて、正直面食らってしまった。
けど、これは俺のせいだ。
こんな時に呆けてるんじゃない。
今すぐ手当てをしなくては。
「レナン、ちょっとだけ我慢しろな」
俺は、レナンに痛みを与えないよう、軽やかにお姫様抱っこをキメると、急ぎ家に担ぎ込んだ。
とにかく今は怪我の処置だ。
幸い俺は、日頃から怪我が絶えないので、こういうのは慣れっこだし、備えも充実している。
「あの、ダーリン? なにをするんだい?」
「心配するな、俺が直ぐによくしてやる」
「ゑ!? そ、それって、そういうことなのかい!?」
上ずった声で、微かに頬を上気させるレナン。
俺は、その期待に応えるように、パチッとウインクしてみせた。
レナンは俺から視線を外して、高速でまばたきをして、無言で頷いていた。
「よし、じゃあ始めるぞっ」
「わ、私はこういうのは、初めてなんだ! だから、その、どうぞお手柔らかに……っ!」
「分かった、全部俺に任せろ! 痛くしないように努力する!」
その声に、顔を真っ赤にして、ぎこちなく頷くレナン。
このあと、消毒したり、骨を接いだり、包帯巻いたり、滅茶苦茶処置してあげた。
レナンが不機嫌になった。




