第二章15 阿形②
あの後、なんやかんやあって四人で夕飯になった。
母さんはすっかりレナンを気に入ったようで、皆の箸がのんびりになるくらい質問攻めにしていた。
それで知ったことだが、レナンは、人外の里親と、プラスアルファの一人を加えた、三人で生活しているそうだ。
しかし昨晩から、その二人ともが揃って暫く家を空けてしまうのだとかで、だいぶ困ったことになっているらしい。
曰わく、日本人として受けられる戸籍を蹴って人外に籍を置いているため、レナン個人は、人間向け商店の利用許可を発行してもらえず、単独では買い物ひとつ満足にできないそうだ。
その話の折、「昨日の朝、出る前に『一週間分の食材を冷蔵庫に入れておく』といっていたのに、帰ってきたら結局空っぽだった……」と哀しそうに語り、食卓の中、一人黄昏れていたのを覚えている。
つまり、親が帰ってくるまでメシ抜きか。確かにそれは困った話だ。
夕食後、常陸家に戻って湯浴みを終えた俺は、そんな食卓での一幕を回顧しながら、首に巻いたタオルで髪の水気をバサバサとやりながら、足を自室へ向けていた。
まだ少し水気の残った足の裏が、床板や階段を行く度に吸い付いて、テッテッテッ、と足音を付けた。
「にしても、人外に籍を置くって結構大変だったんだなあ。考えたこともなかったわ」
思えば、まゆりも自由に乗り物に乗れなかったり、首都圏を出るときは申請が必要だったりするし、魔力に電気的な性質があるから利用お断りの店や施設があったりと、こちらも色々と生活に制限があった。国外に至っては渡航自体が禁止されている。
一昔前みたいに、人間が人間を目で監視しているなら、見落としやお目こぼしが期待出来たが、結界を利用した情報管理サービスが当たり前となった現代は、データベースと連結された結界が対象を自動的に弾くため、こういうのは逃げ道がなくなった。
まるで古いSF小説に見るディストピアの象徴みたいだ。
しかし、世間様にとっては悪いことばかりじゃない。
特に感情労働と揶揄される業種では、この結界機構が、後光がさして見えるほど喜ばれている。
例えば、サービス業では、往年店舗を悩ませ続けた悪質クレーマーを全自動門前払いできるし、そのブラックリストを業界全体で共有すれば、相対的に利用者の質が向上する。
あと、この種の企業結界は、警察のネットワークともリンクしているので、お尋ね者なんかも自動的に通報・遮断するので、セキュリティとして文句の付けようがなく、導入していない方が却って怪しまれる嫌いがある。
まあ、そんなのが流行ったお陰で、警備員の守衛職が廃業に追い込まれたようだが、そこは時代的なものと思って諦めてもらうしかないな……。
と、そんなことを考えながら部屋の近くまで来ると、銀髪のふんわりしたのが、俺の部屋の前でコソコソしていた。
にしても、自分でも耳につくくらい足音が立っていたのに、この距離で、俺の気配にまったく気づいていないらしい。
そのまま真後ろまで寄っていっても、ちっとも気づいていない。もう鈍すぎて可愛い。
「そんなとこで何してるんだ、まゆり」
「!」
部屋の戸を開けながら尋ねると、まゆりは、いつからそこに!?、みたいな顔をして硬直した。
見ると、まゆりは胸の前に枕を抱いていて、さてはこっそりと寝に来たのかと思った。
「その恰好でこっちに来たってことは、もうレナンは帰ったのか?」
声を掛けてみたが、固まったまま返事がない。顔の前で手を振ってみても、ピクリとも動かない。
仕方ないので、後ろから抱えこんで部屋の中まで移動したが、腕を放して暫く経っても、置物みたいにカチコチだった。
「おーい、まゆりー? おーい?」
「え、えっと、レナンなら、もう家に帰ったけど!?」
「う、うん? そうなのか」
その声に、まゆりはコクコクとしきりに頷いた。
まだ少し混乱しているみたいだ。
それよりも、気になることが一つあった。
「なあ、枕なんか持ってきてどうした?」
「!――こ、これは、その、なんでもないですっ」
瞬間、まゆりは枕を盾に顔を隠した。
そのくだりだと、隠すのは枕の方じゃないのか、まゆりさん……。
どうやら、こちらの想像以上に混乱しているのかもしれない。
にしても、部屋の外で枕を抱えたまゆりを目に入れたとき、とうとう侵入の瞬間を目撃したとばかり思っていたけど、それだったらベッドに潜り込んでいこうとしないのは、実に妙なことだ。
とすると、今回は目的が違うのか。
まさか、母さんが言ってた『男女の共同作業』を真に受けたわけじゃ、ないよな……?
それと思った瞬間、ゾクゾクとしたものが、足先から頭の天辺まで一気に突っ走った。
「りょ、燎っ! あ、あのっ!」
「は、ハイ! なんでしょうか!」
頭が真っ白になって、思わず声が裏返った。
体中の筋肉がカチコチに硬直して、まぶた以外の自由が全然効かない。
まゆりの次の言葉を無意識に期待しているのか、胸が、体中の血管が、思い切りエンジンを噴かしたみたいに、バクバクと凄い音を立てている。
にも拘らず、部屋の中には、かつてない雰囲気の静けさが宿っていて、その温度差にやられて、のぼせてしまいそうだった。
その時、まゆりの手がぷるぷると震え出した。俺の心も恐ろしい速さで震えていた。
そして、まるでドラマのバレンタインの告白みたく、まゆりは自分の枕を、一杯一杯な感じで俺に手向けた。
「ま、ま、まく、枕っ! 枕を交換して欲しいのっ!」
「ハイ――――えっ枕!? なんで枕?! さっき、枕はなんでもないって言ってなかったか!?」
「そ、その返しは予想してませんでした!」
まゆりは、ハッ!、とした風に面を上げて、顔を真っ赤にした。
変なことを期待してた俺も、まゆりに負けじと真っ赤だった。
しかしそうか、俺が無条件で、枕の交換に応じてくれると思っていたんだな。
いや、まあ、応じるには応じるけど、これは流石に理由が気になる。
もしかして女子高生の間で流行ってるのか?
枕を交換すると、夢に出てくるとか、そんな感じなんだろうか?
俺は胸を落ち着かせながら、改めて視線を向けると、まゆりは言いにくそうに、口を開いた。
「えっと、その……えっと……あの……っ」
が、言い難そうを通り越して、完全に一杯一杯な感じがしたので、俺はまゆりの答えをすっかり諦めた。
というわけで、作法は知らないが、まゆりの手から枕を受け取って、今度は、代わりに俺の枕を持たせた。
すると、まゆりはキョトンとした顔をこっちに向けたまま、目をぱちくりとさせた。
「…………燎いいの?」
「交換したかったんだろ。別にいいぞ。気に入らなかったら、いつでも返品してくれていいからな」
「ううん、ちゃんと大事にします。ありがと」
「そ、そうか?」
愛しの我が子のように、枕をぎゅーっと抱きしめるまゆりを見て、思わず頬を掻いた。
なんだか、とってもこそばゆい。
していると、まゆりが、顔をずいーっと近づけてきた。
「燎、もしかして蚊に刺されたの?」
そう言うと、まゆりは人の話も聞かず、枕を足下に置いて、ぺたぺたと俺の顔を触り始めた。
あれ、この流れ、昔にもあったような……。
「見た感じですけど、赤い腫れもないし大丈夫そう」
「そっか。診てくれてサンキューな」
「うん……。じゃあ、その、時間も、時間なので……、燎おやすみ」
まゆりは枕を拾い上げると、大事そうに胸に抱えて、扉の方へ歩いて行こうとした。
俺は、何気なく、その肩に手を乗せて、こっちに振り向かせた。
「おいおい、寝床はこっちだぞ。つーか、俺はそのつもりだったんだけど」
「へっ……、燎もしかして、お母さんの言ってたこと真に受けてたりするの」
「いや、そういう意味じゃないんだが……。普通にまゆりと一緒に寝ようと思っただけなんだけど……」
「あっ、そういう」
ぽんと手を叩いたので、了解したらしかった。
思い返すと、こういう誘をするのって初めてかも知れない。
「ほら、ここのところ三人で同じ話しかしてなかったし、たまには二人で違う話もしたいかなって」
我ながらぎこちない口上だ。いつもなら、まゆりが自分から布団の中に転がり込んでくるもんだから、どう言って良いものか正直分からない。
「って言っても、まゆりが良ければ、だけどさ」
「…………うん」
まゆりは、どこか気のない返事を聞かせると、そのまま思案気に、こちらの顔を見つめていた。
俺ってそんなに信用ないんだろうか。違う意味で自信なくしそうだ。
しかし、まゆりは、その意とは反対の結論を出した。
「じゃ、じゃあ……、お邪魔しますっ」
そう言って、まゆりは枕を抱きながら、ベッドの上に、ころんと寝転んだ。
あ。もう寝るんだ。
相変わらず決めたことに躊躇いがない。
仕方ないので、タオルを吊しがてら、電気を落として俺もベッドの上に身を転がした。
よいしょ、と掛け布団を引っ張って上から掛ける。
薄暗いベッドの上に、ばふっ、と音がたった。
布団の中に、まゆりの全身がすっぽりと呑み込まれていた。
「あ、ごめん、つい」
「だ、大丈夫です。お気になさらず」
くぐもった声が布団の中から聞こえた。
布団を少し捲ってみると、小さな手が枕を布団の外まで、ずいっずいっ、と押しあげて、それに続いてまゆりの頭がひょこっと這い出してきた。可愛い。
ふわっとした銀色の髪が、呼吸のたびに、自分の鼻先で微かに揺れていて、すっごい撫でまわしたくなってきたっ!
ちなみに、ベッドは以前、まゆりが、魔法でセミダブルくらいまで広げてくれたお陰で、二人で寝ても大して狭さは感じない。
まあ、その分部屋は狭くなったけどな……。
「そいうや、まゆりさ、俺が先生と修行に出てる間、部屋に寝に来てたろ」
「!?――よ、よくご存じで……」
まゆりは、布団の中でビクッと肩を跳ねさせた。
そりゃまあ、あれだけふんわりした甘い香りが布団に残ってたら、気づく以前に、犯人の特定まで楽だよ。
というか、そんなことするの、一人しかいないし。
「まゆりが気に入ってるなら、このベッド、いつでも使ってくれていいんだぞ。今は広くなったし、もう二人でも寝苦しくもないだろ」
「えっ、前のサイズは寝苦しかったの!?」
「もしかして、お気づきでなかったんですか、まゆりさん」
「はい……丁度いいかなと思ってました……」
まゆりは、ちょっと恥ずかしそうに答えた。
そういえば毎回熟睡してたっぽいしな。
俺はてっきり、眠りに落ちるのが早すぎなせいかと思ってたんだけど、なんだ普通に丁度良かったのか。いやはや小柄って得なんだな。
「ねえ燎」
まゆりが、ころんと身体をこっちに向けた。
俺は首を捻って、隣に目をやった。
「うん? なんだ?」
明かりの消えた部屋の中で、俺とまゆりの視線が交差した。はっきりと見えなくても、そうだと分かった。
俺は自然と、身体をまゆりの方に向けていた。
「あの七日間、燎はどこで何をしてたの?」
「それな。例のよく分からない空間で、四六時中、鬼になった先生と戦ってたんだ。でも三日目やっても状況が芳しくなくてさ、人外に転化することになったんだ。で、死んだ」
「人外――えっ、死んだ!?」
「なんでも、人外になるには肉体の再構築が必要とかって話で、それで一回ミンチにされてさ。生き返ったら人外になってた。で、修行が終わった時に、また人間に戻して貰ったんだ」
「あの、色々と初耳なんですけどっ!?」
まゆりは、小さな声で、囁くように驚いた。
そして何を思ったか、布団の中から俺の片手を引っ張り出すと、指の腹で確かめるように、ふにふにと揉み始めた。
なんかもう反応が可愛すぎて、この幸せと共に飛び散りたい!
「そう言うまゆりは何してたんだ? 学校行ってなかったんだろ? ずっと家にいたのか?」
「うっ、…………んぅーすぅーすぅー」
「まゆり、目開いてるぞ。って、今さら閉じたってダメだからな? ほら、大人しく白状せい」
「えっと、それについては、ここではなくて、お墓の中でお話しますので、どうぞご容赦を……」
「なっ、そこまで持って行くのかよ?!」
いったい、どんだけ重たい記憶なんだよそれ。
知りたくはあるが、雰囲気から察して、まゆりは口を割る気はなさそうな感じだ。
なるほど、今日まであの七日のことを話す機会がなかったのは、そういうことだったのかもしれない。
「まあ墓まで待ってもいいんだけどさ、いつか話してくれたら嬉しいかな」
「…………うん。私に、その時間が残っていたら、話せるように頑張るね」
まゆりが何かを口にしているのは見て取れたが、不思議と一言も聞こえてこなかった。
照らす光がないベッドの上に、シンとした空気が降りてきた。
突き合わせた顔は、互いに口を開きはせず、視線を絡ませたまま、ただ沈黙していた。
どうしてだろう。
まゆりが哀しそうな顔をしているのは、どうしてだろう。
「あ、あのさ、まゆり――――」
それが気のせいかどうか、俺は確かめずにはいられなかった。
しかし、まゆりの声が、その先を遮った。
「燎、おやすみなさい」
「――――」
ふと発せられた声には、喩えようのない悲しみが潜んでいた。
俺は、無心で、まゆりに両手を伸ばした。放っては置けなかった。
だけど、その手が届くより前に、俺の意識はぷつりと途切れてしまった。
俺の指先は、なにも掴めず、空を握った。
そして世界のすべてが、なにも見えない、暗闇の深くへと沈み込んでいった。




