第二章6 LOST④
俺たちの記憶が誰も一致していない。
そんな突拍子もない事実が発覚したのも束の間、存在をガン無視されていた相羽が教卓の方から怒号を飛ばしてきた。
「貴様らぁぁああああああッ……!!」
己の企みからレナンが逃れたことにも腹を立てているのだろう、蟀谷には野太い血管が走って、それが皮膚内を這い回る寄生虫のようにピクピクと波打っている。ギロリと睨む目玉が、顔面の筋肉に押し出されたように浮いて見える。
まるで人を怖がらせるために描かれた妖怪変化の類いだ。見ているだけで轢死させられそうな恐怖が己に迫ってくるのを感じる。
相羽の顔面には無防備な人間を金縛るくらいの威力がある。
尤もこういうのは鬼の舟山や師匠で耐性がある俺は、直ぐに怒りシワの多さの方に目が行ってしまって、内心「等高線かな?」と思ってフフとなったが……、なるほど皆が目を逸らしたくなるのも無理はない。
その時、相羽が吠えた。
「黙ァァァまれえええええええッッ!!!」
相羽の声は耳の真横で巨大な銅鑼ががなったかのようだった。
想像以上の喧しさに耳を押さえた。
こんなヤツが担任の代わりでクラスメイトからは不満の一つもないのかと思ったが、彼らの今の姿を見て、そのラインはとっくに通り過ぎてしまっていたのだと改めて知った。
皆、顔を青くして震えている。
耳から手を放すと、カタカタと歯の根の合わぬ音も聞こえた。
折れている。
挫けている。
抗うことを心が放棄してしまっている。
相羽に対して、誰も自分の意志を持っていない。
これじゃ人間のカタチをした殻だ。
恐怖に縮こまって惨めな精神を晒しているだけじゃないか。
クラスメイトたちは、勝ち目の無さを理由に穴蔵に逃げ込んだまま相羽の圧力に怯えているばかりか、心にわだかまったものすら失くして、一個の人間でいようとすることも諦めてしまっているのか。
俺が持てなかった【魔法】という戦う力がありながら、戦う術がありながら!!
それを思った瞬間に何故だか無性に、頭に来た。
「おい貴様ァ!! さっさと座れッッ!!」
「取り込み中だ!! てめえは黙ってろ!!」
教室の中がシンとなった。
吠えたのは殆ど反射的だった。
多分俺は、相羽を通して、情けない姿をさらしているクラスメイト全員に怒鳴っていたんだと思う。
当たり前のように魔法の素質を持ち、当たり前のように魔法を使え、けれど己自身でいることを諦めたこいつらを、俺の願望を既に叶えているこいつらを、魔法の力を持つ者の姿として許せなかったんだと思う。
持たざる者の嫉妬と言えばそうか。
表層には出て来ない、自分では知らない無意識に溜め込んでいた憤り。
その感情が、爆発した。
相羽もまた爆発していた。
「この私に黙れだと!!! ふざけるなァ!! 何様だ貴様ァァァァァァ!!!」
相羽は、打ち付けた拳の一振りで教卓を叩き壊し、闇に浮かぶ肉食獣の如き眼光で俺を睨み見た。
殺意さえ眼球の表面に光って見える禍々しい目だった。
さっきの稲木出など足下にも及ばない。
「私に楯突いたこと、すぐに後悔させてやるぞ!!!」
全身から憤怒の気迫を立ち上らせ、残骸となった木片を靴底でメキメキと踏みしだいた。
その足は、動き出した鋼鉄の像みたく一歩一歩が重く響いてくるような圧を発していた。
「逃げるなよ童っ!! 惨めなまでにブチのめしてくれるぞ!!」
相羽の前進に合わせ、直線上に並ぶ机が右へ左へ離れていき、教室の真ん中に自然と道が出来上がる。
俺も前に出る。
「それなら同じ言葉を先生にプレゼントするぜ」
俺と相羽は視線を絡ませながら、距離にメートルほどのところで同時に立ち止まる。
「貴様如きが私を下せるわけがなかろう!! そのような世迷い言、どの口が言っている!!」
「分からないのか? この口に、決まってるだろうがッ!!」
募る苛つきを発散するように怒声を吐き、拳を構えると同時に、床を強く踏み鳴らした。
その震動で、視界が弦をピンと弾いたみたいに小刻みに揺れた。ピシピシッと乾いた亀裂の音が窓から聞こえた。
「ど、どうしよう!? 燎が凄く怒っちゃったていうか、戦うにしたって、籠手ないのにどうするつもりなの!?」
「嗚呼、ダーリンの吠え声……ゾクゾクするよ……、でもなんで相手が相羽なんだろうか」
「え。……え? あ、あの、レナン?」
「はあぁぁ……出来れば決闘の時みたくもっと思い切りぶつけてくれはしないだろうか……私に」
「唐突に変なカミングアウト出ちゃったんですけどぉぉぉ?!」
「まゆりん酷いな、その返しは流石に放言だぞ。ダーリンに激しくされるなんて寧ろご褒美の類いじゃないか、悦べない方がどうかしているよ」
「ちょっと凄いこと言ってるんですけどぉぉおおおお?! 燎へるーーぷ!! へるーーーぷ!!!」
今一瞬まゆりの絶叫が聞こえた気がしたが、隣の居るのが学内最強のレナンなら何があっても大丈夫だ。
あいつになら安心して任せられる。交えた拳がそう告げている。
だから俺は、いま目の前のことに集中するんだ。
一年二組に君臨する恐怖と理不尽のシンボルを打倒するために。
不思議と、教室の空気がこの一点に圧縮されたような、ここだけが世界であるような錯覚を覚える。
相羽は俺と視線を絡めたまま動かない。
「どうした先生、魔法の一つも使わないのか」
「…………こいつめ、私の精神破壊を無効化しているのか……? 一体何の加護だというのだ……?」
相羽は怒りの表情の隅に、分からんといった色を薄らと滲ませた。
相羽が真顔で何を言っているのか、ぶっちゃけ俺には分からんが、これはこれで巧く使えるかも知れない。
「加護? さてな。何のことだ、分からないな」
したり顔で口角をつり上げる。
まあ、そもそも魔力がない俺だ、魔法を感じる力自体がないんだから察知できるわけもないし、それでも無効化したっていうなら、まぐれか偶然だろう。
それとは知らず、輪を掛けて訝しむ相羽。
「とぼけるなよ? 貴様が魔法を退けたこと、私が分からないとでも思ったか?」
その返事に代えて、俺は意味ありげにフっと鼻で笑った。
すると相羽は次第に肩をぷるぷると震わせ始め、蒸気機関車の警笛のように荒い鼻息を噴出させた。
挑発の効果が想像以上だ。ここまで冷静さを欠いた相手なら詰めるのは然程難しくはない。
だが籠手がない今、俺の取れる有効な防御手段といえば全力回避以外にない。
せめて魔法の輪郭に触れられさえすればいいが……、果たしてそんな方法があるのかだ。
「ならばこれで引導を渡してくれるッッ!!」
相羽が声を荒げた瞬間、陽炎が立ったように目の前の空間がぐにゃりと歪んだ。
俺は頭で考えるよりも早く左に身を躱した。
直後、歪制服の右袖に複数の線が縦横に走り、賽の目に切られた布片がはらりと宙を舞った。
真空波……いや、不可視の斬撃魔法か!
「ぬぅ! 避けただと!? 貴様、見えているのか!! やはり加護を持っているな!!」
「はんっ! あんなヘボいのなんざ当たる気がしないぜ!」
勿論ハッタリだ。攻撃の気配を察知できていなかったら避けられなかった。
それもこれも挑発の甲斐あってのことだが、そうとは知らず、相羽はバカの一つ覚えのように【不可視の斬撃】を連続して繰り出した。
「これならどうだあああああああ!!」
「見え見えだっ!」
繰り返される斬撃魔法をひらりひらりと躱す。どれ一つとして見えているわけではないが、相羽の害意に満ちた目がどこを狙っているのか教えてくれている。それさえ見逃さなければ避けること自体は容易い。
その一方、俺の対面では一発外す度にボルテージを急上昇させ、酔っ払い以上に顔を真っ赤にさせた相羽が地団駄を踏んでいた。
「くそが! くそがああああああ!!!」
我慢の限界を超えたのか、それとも気が触れてしまったのか、相羽は突然、出鱈目に魔法を乱射した。
壁や天井は疎か教室中の四方八方に線が走り、相羽を中心に教室の中が賽の目に切断されていく。
目の当たりにした教室の面々は、まるで蜘蛛の子を散らしたみたいにその場から逃げ出した。
しかし、その背を、足を、相羽の斬撃が切りつける。倒れた生徒達は痛みと恐怖に嘔吐きながらも、それでも逃げようと必死に藻掻いていた。
「くそがああああああああああああ!!」
「この野郎っ、誰を巻き込もうとお構いなしかッ!」
制御を失った兵器の如く相羽の攻撃が全方位に放たれる。
俺は咄嗟に足下に転がっていたタワシを掴み上げた。
すると突然、タワシから機械音声が鳴り出した。
『ピピー。攻撃魔法ノ接近ヲ検知。防御魔法ヲ展開シマス』
「タワシが喋った!?」
ハッとしている内に、周囲がシャボン玉のような半透明の光膜に覆われた。
その直後、膜の内側に向かって刃を押しつけたような線が縦横に走ったが、膜が破られることはなかった。
よく分からんが便利なタワシだ!
ちょっと焦げ臭いけど、こいつは使える!
そうと確信した俺は、斬撃の嵐のまっただ中、掴み上げていたタワシを相羽に向かって全力でブン投げた。
「飛んでけえええええええ!!!」
投擲によって弾頭と化したタワシは、空気抵抗で激しくブレて、さながら分裂魔球の如く相羽に襲いかかった。
「ぬう!? なんだこれは?!」
突然のタワシに喫驚を隠しきれない相羽。目を白黒差させつつも、魔法で必死に打ち落とそうと試みるが、それら全てはタワシが展開した障壁が遮断した。
「な、なにぃっ――――」
「障壁も使いようってなっ!」
迫り来るタワシに為す術もない相羽。
最も基本的な守りも忘れ、半ば突っ立ったままの状態にタワシが直撃。そのまま大きくもつれ、ぐらりと体勢を崩した。
「――――ぐおおおおお!!!?」
俺はその隙を狙い全速力で吶喊。
相羽に障壁を出す暇を与えず、拳の乱打を叩き込んだ。
「おらああああああ――――――!!!」
「うごごごごぉああああ!!!」
相羽の顔が、右に左に高速でカッ飛び口から漏れる呻吟すらくぐもってて聞こえた。
拳を止め、大きく息を吸い込む。圧縮された一瞬の中を、相羽の頭が真下に向かって宙を滑り落ちてくる。その目は虚ろながらも意識を手放してはおらず、未だ闘争の色を失っていない。
俺の左足が地を離れ空に疾った。
直後、時間の緊張が解け、側頭部に回し蹴りをブチ込まれた相羽が、机の残骸を吹っ飛ばしながら壁に激突した。
そして、ごろんと転がった相羽は今度こそ気を失っていた。
「あらら。補助魔法要らずで終わっちゃった」
「ダーリンは生身で私とやり合うくらいだからな。これくらいは出来て当然だろう」
「でも、ちょっとだけ校舎爆破してみたかったんですけど残念」
「私は、相羽に代わってダーリンの攻撃を受けたかったよ」
何を喋っているかはよく聞こえなかったが、この惨事の中、二人が当然のように無事すぎて掛ける言葉が見当たらない。伊達に世界最高と学内最強ではないようだ。
「生涯ピンチとは無縁でいそうだよな、あの二人は特に……」
かくいう俺はピンチと言えばピンチだった。
相羽の人格は扠措くとして、魔法は洗練されていた。しかも無詠唱で速射性が高い。あれを中距離以上で使われたら近づく暇もない。
多面的にかなり問題のある人格をしているが、実力は間違いなく強者の部類。
「もしハッタリが通じずクレバーに徹されていたら――転がってたのは俺だったろうな」
そんなことを思いながら、足下でノビている相羽から視線を外した。
教室の中に目を向けると、床も天井も、それどころか四方八方傷だらけで、なかなか酷い有様だった。
壊された教室は、歩くたび、もの悲しい音を立てた。
俺は自席に戻るなり、スクール鞄を引っ掴んで肩に提げ、暇そうに傍観していた二人に促すように目線を送った。
まゆりとレナンは、その意味を問い返すように小首を傾げ俺を見返した。
俺は鼻で大きく息をついた。そして、二人の肩に手を付いて、真顔で言った。
「今すぐ教室からズラかるぞ!」
唐突のことに二人は目をぱちくりとさせた後、なんとなくと言った感じに頷いた。
それを了解と受け取った俺は、片腕でまゆりを胸に抱え、もう片方でレナンの手を取ると、その場から脱兎の如く駆け出し、遙か背の向こうに教室を追いやった。
※障壁……魔法用語として用いられる場合は障壁魔法のことを指している。接触した魔法エネルギー・物理エネルギーを減衰させる作用を持った魔法の壁で、耐久力以下の攻撃を無害化・無効化できる。守護範囲(展開形状)は任意で決められる。
尚、民生の補助魔導機搭載型の障壁魔法には防御割合というものがあり、魔法防御に耐久力の七割、物理防御に三割といった設定が組み込まれている。これは魔法の時代だから物理攻撃を受けることが希といった解釈が広く浸透しているが、設定の本来目的は『有事の際に銃を通用させるため』で、警察や軍関係への配慮からである。




