第一章43 『赫奕の果て』
『――――おやおや。今日もこんな時間にこんなところに寝転がってどうしたんです?』
頭の中に、いつかの誰かの言葉が流れてきた。
くすくすと笑うその人は、声の輪郭に丸みがあって、男とも女とも分からない中性的な声差しをしていた。
その声を聞いたのは一度きり。ただの一度きりだった。
なのに今でも鮮明に覚えている。
あの日から俺は無我夢中で自分の道を走った。我武者羅に走り続けてきた。それもこれも魔法を使えるようになるため。まゆりとの約束を果たすため。
だけどその道が明るくなることは決してなかった。
どれだけ俺が前へ進もうと、闇の中だった。だから本当は、進んでいるのか、止まっているのかさえ、分かっていなかった。
その闇を打ち払う可能性が一つだけあった。
あの人に教えられた、可能性の場所。
『――――君は、大きくなったら東烽高校へお行きなさい』
どれだけ暗い道だろうと、前に進んでいなかろうと、俺には縋れる希望があった。目標に出来るものがあった。だから迷うことはなかった。
なのにいざ入学してみたら、なぜか婚姻を前提とした決闘をする羽目になった。
魔法と縁遠いどころか、全く無関係。正直これには乾いた笑いしか出てこなかった。
俺、どうして東烽高校来ちゃったんだろう……。
していると、丸みのある声が真横から聞こえた。
「――――君、本当に来てくれましたねえ」
気づくと俺は、あの日の土手にいた。
辺りは真っ暗で、遠く方にぽつぽつとした光が見える。
隣には、あの『大人の人』が座っていて、こちらへ柔らかな視線を向けている。寝転がった姿勢だった俺は、その場に座り直す。
大人の人の顔をちらっと窺ったが、あの日と同じに、どういうわけか上手く見て取れなかった。
「夢の中でも顔が見えないなんてな」
明晰夢にしては不出来だなと思った。念じたら別のものに変わるんじゃないかと思って見つめていたが、大人の人が目を丸くするだけで、何ともならなかった。変な夢だと思った。
ヒュウと暖かな風が吹いた。不思議とそれは、凍えた身に染み入る暖炉の熱のように暖かだった。
「どうですか東烽は」
大人の人が、いつかみたいに俺に声をかけた。
あの時のように、気兼ねなく答える。
「ひでー所だよ? 第二の魔法を覚えに来たってのに、とんでもないヤツに決闘吹っ掛けられるしさぁ……、負けたら娶れとか……、なんなのここ。俺に魔法使わせる気ないでしょ?」
「あはは、それは難儀でしたね」
大人の人が小さく肩を揺らして苦笑を漏らした。
「でも、来て良かったでしょう?」
その言葉は問いかけというよりは、断定に近かった。
「退屈はしてないよ」
俺の返事に、大人の人は笑った。
「あの日も、ここで会いましたね」
強い風が吹いた。土手の草原がザァーっと波のように音を立てた。それは去り際の時と似ていた。俺は、ずっと抱いていた疑問を口にした。
「アンタは誰なんだ」
これは夢だ。答えなんてあるはずない。頭の中に浮かぶ幻想だ。
だけど聞かずにはおけなかった。
「君は運命を信じますか」
答えではない答えが返ってきた。
すると、小夜に風が立ち上がり、流れた草が舞い上がった。思わず腕で目を覆った。
その向こうから、真っ白い光があらわれる。光はだんだんと広がり、すべてが光の中に溶け落ちていく。
「信じているのなら、もう解るはずです――――」
「――――お、おい待てっ! それじゃあ、アンタはまさかっ!!」
俺の驚きは、その全てを発することなく、光の中へ消えてしまった。
………………。
…………。
……。
白んでいたものがフェードアウトしていく。瞼の裏に微かな光を感じる。翡緑の色をした暖かな光だ。
て……………………
……き………………て…………
お…………き……て……
ぐらっぐらっ、と胸の辺りが揺り動く。背に感じているのは、綿みたいにふわりとした感触。その中に体が沈み込んでいるようだった。
「燎っ、起きて……起きてよっ!!」
ふわりとした声が、いつになく尖って聞こえた。どんな顔をしているんだろうと思って、目を開けようとしたら力が入らなかった。それどころか、全身のどこにも。
これはどうしたことかと思ったものの、それ以上のことは何も出来ない。喩えるなら意識だけが体に残っている感じだった。
しかし不思議と安らかで、動揺も焦燥も滲んでこなかった。心も胸も波打たず平静としていた。
「ねえ起きて……! 起きてったら!!!」
必死な声が聞こえる。それに応える術がない。どうやら俺は、止まってしまったらしい。自ら盛んに律動していた鼓動が、自分にも聞こえない。燃え尽きてしまったように、空っぽだ。
それでも俺を揺さぶる手も、声も止まなかった。俺が無くしたものを「返して」とでも言うように。
その時だった――――
「退いて、いろ……」
凜とした響きがした。
「勝負は、もうついたわっ……!」
遮るように、ふわりとした声様が毅然と振る舞った。二人の間で、僅かに無言の時間があった。
勝負。そういえば、どうなったんだろう。拳を打ち合った一瞬から先をまるで覚えていない。ともすると、それ以前の所から曖昧だ。どうして最後の運びになったのかが、よくよく振り返ってみると、サッパリ思い出されなかった。戦闘でハイになりすぎていたのだろうか。
それじゃあ自分も戦闘狂と変わらないな、と思ったら、
「や、やめてぇぇぇぇーーー!!!」
「はぁッッ!!!」
重なる叫声と撃声。
次の瞬間、
――――ドンッ!!
胸を震源に、全身が激しく振動した。途端、静まりかえった体に、熱い波が押し寄せてきて、俺の中で失われたものが、止まっていたものが動き始めた。
それによって引き起こされた胸苦しさに、思わず跳ね起きた。
「がはっ――――!! ごっほ……ごほお!! なんつー起こし方!!」
精の炎が灯った拳で、思い切り心臓の上を叩かれたらしく、熱と痛みがまだ肌の上に浮いている。
目の前にはレナンが、その少し後ろにはまゆりがいる。
一方の俺は、例の如く、魔法のベットの上。体中に巻いていた包帯が何処へ消えたかは知らないが、見えている肌の上に紋様がないようで、ホッと一息。
それで一瞬、さっき叩かれたところがズキッとした。
俺は胸をさすりながら、周りに目を向けた。
丁度外灯の下にいたため、直ぐには気づけなかったが、空はすっかりと夕暮れを忘れ、夜のとばりがおりていた。他の生徒はとっくに解散したらしく、ほかに誰の気配もない。
あれだけの観衆が嘘だったみたいに、完全に俺たちだけ、校庭の端っこでぽつんとしている。何だろう、この置き去り感。
「あっ、もしかして、下校時間っての過ぎてんのか。じゃあ、俺らもボチボチ帰らないとな」
「まだじっとしていろ。また心臓が止まってしまうかもしれんぞ」
「んなっ、不良品じゃあるまいし……」
おざなりに手を振って減らず口を叩いていたら、急にレナンの顔が鼻先まで迫ってきた。一体何事かと目を開いている内に、押し返す暇もなく、そのままベッドの上に押し倒されてしまった。
「――――んなあっ!?」
お互いの身体が、これでもかと密着している。
汗ばんだ頬や首筋に、緑の黒髪がぺたりと張り付いていて、その奥から、少女特有の甘い色香がふわっと漂っている。
そして、肌の上に転がる、ほどよく柔らかな女の子の感触が、頭の中を、痺れさすほどの衝撃を与えた。
息が詰まって、思考が真っ白になった。
「燎なにしてるし!!」
「違う!! お、俺じゃない!! レナンだ!! 誤解するな!?」
「してないもん!!」
不倫の現場を押さえられたダメ男のような言い草に、ぷんすかと不機嫌になるまゆり。酷い誤解の上にお冠だった。
俺は覆い被さってきたレナンの肩を、そろーっと押し上げる。
すると、くたくたな顔が目を閉じたままだらんと下がってきた。
どうやら、疲れ切って倒れ込んできただけのようだ。
一気に毒気を抜かれてしまった。こうしてみると、ただのキレーな女子高生だ。
一人そんな風に思いながら、鼻で息をついた後、レナンと体を入れ替えて、ベッドを譲った。
「ふぅー。これで一件落着か」
ベッドを降りた足で、まゆりの隣に立った。
すると、怒っているのか、困っているのか、泣いているのか分からない顔で、まゆりが声を荒げた。
「落着じゃないんですけど!! 勝負、引き分けだったんですけど!!」
「ひ、引き分け……!? え、それって……どうなんの?」
「しらないもん!!」
目尻に涙を一杯に溜めたまゆりが、頬をぱんぱんに膨らませて、ぷいっとそっぽを向いた。その突っ慳貪な態度に面食らってしまって、どんな言葉をかけたものかと思案している内に、俺は自然とまゆりの手を引いていた。
ジトッとした目が恨めしそうに見上げてくる。この不貞腐れ方は相当だ。でもやっぱりジト目が可愛い。
俺はまゆりの体を引き寄せて、頬に手を添える。見開かれたエメラルドの瞳が、ハッと驚きに染まる。まゆりは固まったように動かない。
その間にも、瞳と瞳が近づいていく。
息の熱が感じられるほど肌が近づいて、お互いの間に、呼吸が吸い込まれるように落ちていく。
そして、
「ハハハハハっ!!! いやあ引き分けでしたか~!!! 惜しかったですねえ~!!」
舟山の登場である。
俺たちは変な叫び声を上げながら、バッと身体を離した。
間の悪すぎる登場に、俺もまゆりも、顔をあちらこちらに向けて、下手くそな口笛を吹いて誤魔化した。
「あれえ、もしかして今、イイトコロ、でしたあ?」
「「め、めめ、滅相もございません!!」」
「かなり必死ですね……。まあ、収入に関係ないことなので私は気にしませんから、いつでも何処でも続きやってくれて構いませんので。何でしたら校内で一番安全な場所お教えしますよ」
それは教師としてどうなんだ。という疑問を俺たちに抱かせながら、舟山はレナンの所まで歩いて行く。そして、くたくたになって眠っている少女の顔を見下ろしながら、
「まーったく、まだ今日の仕事が残っているというのに、これですよー。暴れるだけ暴れて勝手に寝るなんて、脳が原始人と同じレベルで未発達すぎじゃないですかー? あっ、あれですかね、脳の代わりに枝豆でも入ってるんですかねえ、この頭。しかも一粒だけ、ぷくくくく」
と、レナンを前に舟山が一人でヒーヒーと笑い転げていると、その足下に炎の鎖が疾って、瞬く間に地面に引き倒されてしまった。
舟山は、びたーん、と顔面から落っこちて、鼻っ柱を押さえながら悶絶し、その辺をゴロゴロと転がり出した。
「ほう……誰が鳥頭だと?」
「言ってませんよそんなこと!! 脳が枝豆だって言ったんですよ!! はっ、しまった!!」
開いた口に手で蓋をする舟山。それにしても何が「しまった」なのか、自ら墓穴を掘っていく自殺スタイルを確立しながら、舟山はレナンの炎にじゅーじゅーと焼かれ始めた。
「ぬわああああーーーーーーーーーーーっっ!!! あぢいいいーーー!!!」
「ふふん。いい薬だ」
首だけを起こしてその様子を見ていたレナンは、また魔法のベッドの中に沈んだ。どうやら相当に消耗しているらしく、相変わらずの覇気こそ感じるものの、吐息の中に疲れの色が濃く現れている。
「まゆり、レナンの回復を頼めるか?」
「嫌だって言ったら?」
「ちょっと困る」
「それだけ?」
またジトッとした目に戻って、ふわりと冷たいことを言った。
なるほど、まゆりはレナンの事で機嫌が悪かったのか。
とすると俺は結構難しい注文をしていたらしい。
こうなってしまうと、本当に強情なのは、今まで隣からずーっと見てきたからよく知っている。
まゆりが「聞きたくない」という態度で顔を背ける。俺は思案気に頬を掻く。
していると校庭の隅にぽつーんと残っている俺たちを、ピュウと冷たい風が撫でた。
それに乗って、なんだか焦げ臭い匂いと悲鳴も飛んできたが、気にしないことにした。
俺はまゆりの前に回って屈み込む。
「ん~~、ほら、誓約の話も聞きたいだろ。それにレナンは、舟山と何かやることがあるみたいだしさ、なっ?」
「ふーん、そーなんですか」
話に乗せようとしても納得した顔は見せてくれない。
レナンのことには、すっかりお臍を曲げてしまっているようで、あからさまに敵意が滲んでいる。
「レナンのこと許してやれないか?」
「…………無理だもん。今は……」
膨れっ面になって視線を外すまゆり。でも、それを聞けて俺は安心した。
「そっかそっか。じゃあ、いつかは許してやれるんだな」
「たぶん……」
「なら、回復はその時の前借りみたいなモンだと思ってさ」
小さな両肩に手を添えると、数拍おいて、ムスッとした顔がゆっくりとこちらを向いた。
「………………んもうっ! 燎は本っ当に強引なんだからっ!」
それで吹っ切れたのか、まゆりは困ったように笑いながら、レナンの方へ歩いて行った。
それから、いつも俺にするみたいに回復の光を手のひらに灯した。
足下では舟山がまだ焼かれていた。レナンの執念深さは半端ではないようだ……。
程なくして、まゆりの手から翡緑の光が消える。
「はい。これでもう回復したわ。お礼は燎と、未来の私にどうぞっ」
「いいや。今の君に感謝するよ。まゆりん、ありがとう」
「え」
言った言葉で却って意表を突かれて、まゆりは目を白黒とさせた。
きっと「無用なことを!」と紋切り型が飛んでくると思っていたのだろう。拍子抜けしてしまって、顔がぽかんとしている。
まゆりが口にした「未来の私」は、案外もう到達してしまっているのかもしれない。
「決闘は引き分けってことでいいんだよな?」
俺は二人の背に近づきながら声をかけた。
その途中、ぐにゅっとしたモノを踏んづけた上に蹴り飛ばしてしまって、それがどうも舟山らしき声差しで悲鳴を上げていたが、たぶん何かの間違いだろう。
蒼い瞳がこちらに向く。
「……ああ、決闘は引き分けさ。まさかこんな結果になるとは、私自身思ってもみなかったよ」
「あ、あのっ、それで誓約は!?」
話を待ちきれず、まゆりの声が割って入った。レナンは小鼻をならし、まゆりに視線を送る。
「ふふっ、案ずるな。誓約は勝敗によってのみ効力を発揮する。つまり此度の決闘では効力を発揮することはないよ」
「よかったぁぁぁぁぁぁ…………」
胸をなで下ろしたまゆりは、その場にへなへなと崩れた。レナンは身を起こしながら、まゆりに手を差し伸べて、ゆっくりを立ち上がらせた。
「じゃ、これにて決着、だな」
俺の言葉にレナンが勇ましい笑みで応える。
思えば色んな感情を孕んだ戦いだった。
その時感じた怒りも憎しみも、いまでは夢から覚めたようにサッパリと忘れてしまっている。
けれど、本当に激しい戦いだった。
レナンという絶対強者を相手に、自分がここまで死力を尽くせた事が不思議なくらいだった。戦いに向かう理由はちょっとアレだったけれど、今では感謝すら覚える。
俺は、変わることが出来たのだろうか。
変わろうとした、あの日から。
自分では未だ答えが見つけられない。
しかし、その問いに答えるように、レナンが開いた右手を胸の所まで持ち上げた。
俺はその手を取るように、堅い握手を交わした。
戦いの熱りがまだ冷めていないのか、手を通して熱いものが伝って来きた。
こういう終わり方も、悪くない。
「あぁ、そうそう、言い忘れていたのだが、誓約は勝敗が付くまで消えない」
「は」
手の中の熱が一瞬で冷めて、空気がコッチンコッチンに凍り付いた。
レナンの顔に不敵な笑みが溢れ出し、口端がニイっと吊り上がった。
「誓約だよ、まだ残っている。敢えて言わなかったが、この握手は再契約の証だ」
「何が再契約だ!? おいふざけんなああああああ!? その手を離せええええええええええええ!!!」
レナンは満開の笑みを振りまいて、繋いだ手をブンブンと振り拉いた。
「ふふん。離したってもう無駄さ! 合意は成立、次こそは絶対に娶ってもらうからなっ!!」
「あのっ、私やっぱり一生許せそうにないんですけどおおおおおおおおおおおおおお!?」
目をまん丸にして、半狂乱になるまゆり。
懸命に手を引き剥がそうとする俺。
「くっそおおおおおおおおおお離せええええええええええええ!!!」
「誰が離すものか!! 絶対に逃がしたりはしないぞ!! はーっはっはっ!!」
校庭の片隅でレナンの高笑いが響く中、俺とまゆりの絶叫が、果てしない夜の闇へと吸い込まれていくのだった。
すいぎょく【翠玉】
エメラルドのこと。愛と献身、知恵と忍耐、人間的成長を意味する宝石。
第一章 A Study in Emerald (翠玉の研究)
おしまい




