第一章32 SEVEN DAYS『G』 ①
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燎祐が出て行ってから、とうとう七日目の朝を迎えた。
時刻はまもなく12時。世間様は挙ってお昼に突入という時分。
これまで平静を保っていた寵看が、そろそろかと重い腰を上げた。
向かったのは勿論、まゆりの部屋。
しかしノックをすれども応答がないので、やむを得ず突入する。
部屋はカーテンが半開きくらいで、中途半端に明るい。暫く換気されてないためか、空気がジメッとしている。
肝心の部屋の主はベッドで蹲っていると思いきや、ぺろんと捲った布団の中には誰も居なかった。
「はあ……やっぱりいなかったか」
でも居場所は分かっている。まゆりの姿が見えないときは、決まってそこでしか見つからない。寵看は溜め息をついて部屋を出る。
向かった先は寵看の真なる我が家、常陸家。
魔生構材で出来た洋風戸建ての久瀬家と違い、純粋建築物の常陸家はボロい日本家屋の体。風情があると言えば聞こえはいいが、言い方を間違えれば古くさくて小汚い、になる。
寵看としてもリフォームしたいのは山々だったが、既に魔生構材が民間のシェアの大部分を獲得しているこのご時世、旧来の物理リフォームは価格が大変なことになっていた。
その高騰っぷりは、リフォームの予算を聞いた業者の口から「更地にして魔生構材タイプに切り替えた方がいいですよ」と門前払いされてしまうほどだった。
結局リフォームはお流れになり、子供二人が中学に上がるときに、寵看は色々と理由をつけて、まゆりと一緒に久瀬家に移った。それが今から3年ほど前のことである。
住居を写した時、新築同然の家にウキウキだった寵看と違い、まゆりはあまり元気がなく、どちらかというと気が塞いでいた。
別に寵看と不仲なのではなく、単に燎祐の側から離れたくなかったのだ。
そのため、越してから一年くらいの間は、燎祐が自室へ戻るのを必死になって引き留めたり、夜中に家を抜け出そうとしたりしていた。
寵看は、そんなまゆりを微笑ましく思っていた半面、燎祐への執着と依存の深さについて思うところもあった。
その時に覚えた薄らとした不安が、こうも強烈に顕在化するとは考えもしなかったが……。
「とにかく、まゆりが居ないときは燎祐の部屋を探せってね。もう我が家の鉄則みたいな感じよね、これ」
到着も早々に、寵看は軽く袖をまくって玄関の引き戸に手を掛ける。
だが指先が戸口に触れた瞬間、バチッと電流が走った。
思わず手を引っ込めて、引き戸から離れた。
「いきなり痛いの来たわ……。はぁ、まさか魔力ダダ漏れなわけ……?」
電流の正体はまゆりの魔力特性。
それは保持限界量を超えた魔力が体外へ溢れ出す、余剰魔力放出という現象だった。
普通その影響範囲は、魔力制圧圏から数十センチ、あっても一メートル以内だと言われている。
しかし常陸家は、まゆりの余剰魔力で覆い尽くされてしまっているらしい。
寵看は顔をしかめ、腰に両手を添えて盛大にため息をついた。
「てーか、どんだけ魔力生産過剰なのよ。ほんと、困るんですけど」
まゆりの魔力特性である雷は、本人が適当に調律すれば電気として利用できるが、そうで無い場合はあくまで魔力的な雷であって、これを退けるには魔力で対抗するしか無い。
そして、今からここへ足を踏み入れるということは、即ち雷の渦に突っ込んでいくのと同じだ。それと考えただけでも酷い頭痛がしてきて、ガックっと首が折れそうになった。
「私そんなに魔力ないっての……。にしてもまさか我が家こんな地雷原染みた状態になってるなんてねえ」
寵看は嘆息をつきながら、シャツの胸ポケットから、赤いアンダーリムのグラス型補助魔導機を取り出して、渋々と掛けた。
「補助魔導機スタートアップ――――防郭を最大強度で展開」
『Willco』
短い電子音が宙に走り、シャボン玉の皮膜のようなものが寵看を包んだ。
指で突けば直ぐにでも弾けてしまいそうな防郭は、術者本人だけを守る防御魔法。障壁と違い範囲を保護する機能はない代わりに、高い魔法強度を備えている。
「余剰魔力に耐えるだけなら、一往復は行けそうね。けど問題は……」
魔力が体外へ漏れ出す『魔力漏出』、寵看の危惧はこれだ。
ヒトという種は、精神活動が低下しいわゆる生気がない状態に陥ると、魔力等の生体エネルギーの漏出が始まる。そのエネルギーは負の極性を顕著に発現するため、感覚的に、暗くどんよりとしたイメージを与える。
普通の人間だったらば、その影響範囲は精々部屋一つ分で済むが、まゆりの場合はそうも行かない。家一軒くらいあっさり丸呑みにしてしまう。
だが、今のところ家自体が瘴気を発しているようには見て取れないので、漏出していたとしても深度は浅いことになる。
「まあどっちにしろ、ヤバイんですけど」
仮に漏出が室内全域で起きていた場合、寵看の防郭では五秒と保たない。
そうでなくとも、まゆりに近づけば同じこと。今はその影響範囲が狭いことを祈るしかない。
「あの子が気づいて、魔力を引っ込めてくれればいいんだけど…………」
外に気が向けられるなら、そもそもこうはならない。つまり寵看の期待が届かないほどに、今のまゆりは塞いでいるのだ。
かといって、諦める選択は寵看にはない。
ここで自分が何とかしなければ、魔法災害として国家魔法士連盟に出動要請をする義務があるからだ。
そうなればまゆりは拘束され、今後は連盟の管理下に置かれる。無論、いつ自由になれるとの保証もない。
寵看は肩を軽くストレッチさせながら、引き戸へと近づいていく。
「さーて、じゃじゃ馬を引っ捕らえに行きますかっ!!」
手を掛けた引き戸を無遠慮に開け放つ。その時、寵看の顔付きが変わった。
戸が勢いよくサイドレールを滑りガシャーンと跳ね返ったとき、既に寵看は玄関をくぐり抜け土間を飛び越えていた。
すると防郭から火花が弾け、視界全体が朱に染まった。いきなり大濃度の魔力に接触したのである。
「ああもう! 私ぁ火事で取り残された我が子を救出に向かう母かっ!」
あまりの漏出具合に「酷いお漏らし」と皮肉ってやりたかったが、そんな場合でもなく、寵看はなりふり構わず廊下を突っ切って、二階への階段を駆け上がった。
雷火は一段上がる毎に激しさを増し、爆裂する火花が視界を塞ぐ。
それでも寵看にとっては、かつての我が家。今さら見回さずとも距離感だってバッチリだ。
しかし問題は防郭の耐久度。最大強度にも拘らず、予想以上の早さで削られている。
「防郭あと三十秒、保ってよ!」
寵看は、全速力で階段を登り切って二階へ飛び出す。
そのまま進路を燎祐の部屋へ取るも、一歩踏み出した途端、視界が白むほどの凄まじい火花が散り、防郭がシャボン玉の末路のようにパッと弾けた。
常陸家の二階は、まゆりの漏出した魔力で、既に危険地帯となっていたのだ。
「う、そ!?」
守りの術を剥がされ、無防備になった寵看を、強烈な電気ショックが襲う。
「……ァ……ァァ……ッ!!」
あまりの衝撃に意識が飛びかけるも、歯を食いしばって耐えた。
いっそ意識が飛んだ方が楽だったかもしれないのに。
「ほんと子育てって楽じゃないわ……! いつか旦那にもやらせてやりたいものねっ!」
寵看の頬から赤い滴がツゥと流れた。今ので皮膚が裂けたらしかった。
それでも寵看は諦めない。
喩え補助魔導機が壊れ、息するだけでも電撃に襲われる地獄のような環境だとしても、その痛みを推進剤に変えて、一歩また一歩と進む。
絶え間ない感電によって、肌の下に虫が這っているように筋肉が滅茶苦茶に弛緩する。
「…………はぁ……はぁ……親になんて仕打ちすんのよ、反抗期かしら……」
激しい痛みに視界が揺れる。意識が朦朧とする。
愚痴って自分の気を反らさなければ、直ぐにでも痛みに思考を持って行かれそうになる。
それによって改めて、娘が規格外の存在だと思い知らされた。
寵看とて、人よりも得意な魔法の分野があって、その道では名前も通っているのに――。
まゆりは、単なる魔力の漏出でこれなのだ。立っている次元そのものが違っていた。
「ほんと、笑えるくらい桁が違うわ……こんなの反則じゃない。…………けどね、私だって一個くらい……アンタに勝ってるんだから」
魔法で劣り魔力で劣る。それでも寵看には負けないものがある。
喩え他の何の才能で負かされようが、これだけは絶対に譲れない、たった一つの意地。
久瀬まゆりの「母」であるという信念。
――何があっても私はあの子の母だ!!
――だから何が何でも引くことはあり得ない!!
その時、一段と激しい雷が寵看を打ち付けた。
直後、激しいスパークを起こし、|額から滝のように血が流れる。
足下がぐらりと揺れ、体が前にのめる。
しかし、寵看の意地が倒れることを許さない。
床を踏み抜かんばかりに打ち鳴らし、気合だけで踏みとどまる。
「~~~~っ!!! 母なめんなああああぁぁぁぁあああーーーっ!!!」
克己の吠え声を上げ、自信の裡に活力を取り戻す。
そして意識を保つようにドシンドシンと足を強く踏みしめ、確かな歩みを継いでいく。
廊下を渡りきった時、寵看は顔中が血塗れで、シャツも己の血で染まっていた。
だが、そんなことはどうでも良かった。
寵看は、燎祐の部屋の扉へ手を掛け、一息の内に開け放つ。
すると室内に漂う高濃度の魔力が反応し、全てが白むほどの閃光が瞬いた。
今までにない強烈な電撃だった。
「――――ッッ!!!」
えも言われぬ激熱に全身を焼かれ、肉が露出したかと錯覚するほど皮膚がヒリついている。
腕にはシダ植物にも見える雷撃傷がアザのように浮かんでおり、その先へ向かってドクドクと血が流れていく。
もはや立っていられるのが不思議な状態だった。
にも拘らず寵看は歩みを止めなかった。
そして部屋へ入るなり真っ先にベッドへ目を向けた。視線の先、布団の中央がこんもりと丸くなっているのを見つけた。
「ほぉら……やっぱり、ここじゃない…………」
あらゆる痛みを捻じ伏せ、やっとの思いでそこまで漕ぎける。
その途中、更に上昇し続ける魔力濃度によって、寵看は本当に死にかけていたが、時として、人の意固地はおかしな生命力を生むらしかった。
「…………覚悟なさいよ……馬鹿娘……っ!」
布団に手を掛け、一思いに引っぺがそうとする。
だが布団に触れた瞬間、爪が弾け、手の皮膚が肘先まで裂けるほどのスパークが起こった。
しかし寵看は手を離さず、被さっている布団を強引に剥がした。
瞬後、枕を抱いて泣きながら眠る愛娘の姿がそこにあった。
「…………アンタどんだけハリネズミなのよ。まったく」
さて、と伸ばした寵看の腕は、手首から先の皮膚を全て失っていた。
もはや傷など気にしている余裕がなく、寵看はまゆりを抱え上げた。指先から上ってくる激痛は、口の中を噛んで黙らせた。
「ほら、アンタのお家に帰るわよ」
「…………んぅ………ぇ……………ぉ、かあ……さん…………?」
寵看の腕の中で、まゆりがゆっくりと目を開ける。
最初は幻影でも見たかのような虚ろな眼をしていたが、次第にその顔は蒼白くなっていった。反対に、寵看は不思議そうに覗き込んでいたら、
「お母さん血だらけじゃない!? なんでそんな怪我して……!?」
「あぁ~、驚く前に治してくれると助かるんですけど。あとその辺に漂ってるバカみたいな量の魔力を早くどうにかして?」
するとまゆりは、待ってて!、と慌てたように翡緑の光を掌に点した。
――娘の手前、強く出てみたものの、実は結構限界だったりして……
寵看の手足は電動マッサージ器並にぷるぷるしていて、今にもまゆりを落っことしそうだった。けれど、そこは母の意地で耐えた。
それもまゆりの回復魔法のお陰で、直ぐに収まった。
「いやぁ流石は世界一が使う魔法ね。治りが早いったらないわ」
怪我したところだけでなく、最近弱っている腰にもジンワリと効いきて、ついでだから悪いところ全部治してもらいたい、などと寵看が思っていると、不安げな目が向けられていた事に気づいた。
「あれれー、もしかしてーお腹空いてるのかなー?」
「…………ごめんなさい…………。ごめんなさい私…………っ」
「向こうに戻ったら、先ずはお風呂入って着替えなさいね? そのあとにカモミールティーを淹れてあげる。それから一緒にお昼にしましょ」
そう言って寵看がウインクした。まゆりは息を詰まらせたような顔になって、ポロポロと涙を流した。そして母に許しを請うように泣き付いた。
くしゃくしゃに乱れたまゆりの髪からは、微かに燎祐の残り香がした。
――ほんと、母親って大変なんだから。でもまぁ、いっか~




