第一章28 SEVEN DAYS『E』 ①
**1**
それは、いつかの、ある晩のこと――――。
雲一つかかっていない宵の空に、黄金色をした満月がぷかりと浮いている。
どこか涼しげな色をした月光の周りには、目に映る大小様々な星々が、その身から瑩徹な光を瞬かせ、濃紺の空を絢爛に彩っていた。
そんな明るい夜の下、自室の窓辺に腰掛けて、暗い溜め息をこぼす燎祐の姿があった。
「はあ……またダメだったなぁ……」
がっくし、と首が折れる。
燎祐は今日もまた失敗した。
魔法のテストで何もできなかったのである。
どれだけ勉強しても、どれだけ練習してもまるで駄目。成果のせの字がポックリ逝ってしまったみたいに出てこない。
しかしそれが何故なのか、この時の燎祐は、まだ何も知らなかった。
「あぁ~、ちくしょぉ~。次こそは――――なんかなってくんないかなあ、はぁ……」
燎祐の願いは溜め息となって、空しく窓の下へと流れていった。
気の晴らしどころがなかった。
一人では少し持て余す自室の広さや、さして物のない部屋模様も、それを視覚的に助長していた。
「魔法って何なんだろうな……」
燎祐は、呼吸のたびに気が沈んでいくのを感じた。
していると、パジャマ姿のまゆりが子犬のように部屋に入って来て、彼の隣に腰掛けた。
二人は同じタイミングで顔を見合わせた。
燎祐は来訪の意味を尋ねるように瞬きをする。
しかし、意味が通じず、まゆりは不思議そうに目をぱちくりとした。
燎祐は気を緩めて「どうした?」と優しく言葉にしたら、まゆりの顔がふわっと綻んだ。
「あのね燎っ、明日お出かけがしたいの」
「いいけど、あんまり遠くはダメだぞ? それで、どこに行きたいんだ?」
「えっと、こんびに、っていうところなんだけど、ここから近い?」
その場所に一瞬はてなを浮かべた燎祐だったが、あまり深くは考えず「わかった」と二つ返事を聞かせた。
するとまゆり、ぱあっと笑みを浮かべてぎゅっと燎祐に抱きついた。嬉しさ余ってか、身体が前に後ろに揺れている。
「ところで燎、さっきすっごい落ちこんでたでしょ」
「えっ、ど、どこが!? 俺いつでもスゲー元気だけど!?」
「ん~ん。元気なかったの。おこづかい無しにされた時みたいに、がっくりしてたの」
まゆりの目は「どうして?」と言っているようだった。
しかし燎祐が口を割らないでいると、まゆりはくっつけていた身体を離して向き直る。
「燎がいつも魔法の練習してるの、わたし知ってるの。ねえ、悩んでたの、そのことなんでしょ?」
燎祐はギクリとして目を逸らした。
「ち、違うぞ!? そそ、それに、魔法なんか練習してないって!!」
まゆりは、その言葉を真に受けて「違うの?」と、小首を傾げた。それから、ねえねえと彼の肩を揺すった。
これには流石に座り心地の悪い思いがしてきた燎祐。大きく一息ついて、隣へ視線を戻すと、まゆりの可愛らしい顔が直ぐ目の前にあった。
「!!」
ともすると、唇同士が触れかねない距離に思わず声を失った。
その距離感の無さに翻弄され、燎祐は、自分の顔がカアッと赤くなるのを自覚した。
鼻と鼻の頭がツンと触れ合ったとき、彼はなんとか平常心を取り戻し、「もう寝よっか!」と言いながら、やんわりと引き剥がした。
それから、どこか急ぐように手を引いて、まゆりの自室まで連れ立った。
燎祐は「また明日な」と約束して、そっと扉を閉める。
「それじゃあ、おやすみ」
「……うん」
扉越しに、小さく弱々しい返事がした。
まるで捨てられた子犬のような声が、彼の心をチクリと刺した。
その罪悪感によってか、少しの間、扉の前から離れられずにいた。
でも意を決してまゆりの部屋に背を向けると、きぃ……、と蝶番の軋む音がした。
「…………」
「……」
燎祐は振り返らず廊下を歩いて自分の部屋に向かった。
彼が歩くと、小さな足音が、後ろからひたひたとついてきた。
部屋の前でピタリと立ち止まると、彼の背中に、ぽふん、と何かがぶつかった。
嘆息と共に振り返ると、そこには薄らと光るエメラルドの瞳があって、ぱちくりと瞬きをした。
「起きちゃったの」
「いや寝てないだろ」
「んん~~~~~! 起きちゃったのぉっ!」
燎祐のストレートな切り返しに、まゆりは、ぷくっと頬を膨らませて、声にならない声を上げた。
「あーはい、分かりました。起きたのな。で、なんで俺の部屋に戻るんだ?」
「燎と一緒に寝るの」
「起きたんじゃないのかよっ!?」
彼の的確なツッコミに、まゆりは「え?」みたいな顔をしていた。
これはもう言っても無駄だなと思って渋々と部屋に入った。
すっかり寝る気のまゆりは、一番にベッドに潜り込んで、嬉しそうに布団にくるまった。
実はこのベッド、元々は子供部屋にあったもので、二人で一緒に使っていた。その名残か、部屋を別けた今でも、まゆりは時々寝に来ることがあった。
燎祐が部屋の明かりを落として、体を布団に滑り込ませると、まゆりがピタリと体を寄せてきた。
ドキッとして隣をみると、男の子的な期待に反し、まゆりは完全に眠りに落ちていた。
相変わらず侮りがたい入眠力だった。
せめてもの救いは、入れるだけのスペースをちゃんと空けてくれていることだが、
「そろそろ二人は狭いんだぞこのベッド……はあ……」
夜の静寂に燎祐の嘆声が吸われていく。
近頃は彼単品でも狭さを感じているところに、もう一人入ってるのだから、満足にゴロンと寝返りを打ったりもできない。
「せめてベッドが大きかったらなあ」
無い物ねだりの呟きが天井に吸い込まれていった。
すぐ隣からしている可愛らしい寝息に誘われ、ふと目を向ける。
銀色の髪が一段下がったところにあった。
「そっか、今日は枕持ってこなかったのな」
燎祐はのそりと半身を起こして、枕をまゆりに譲った。
その時、やわらかな銀色の髪が指に触れた。
そのふわりとした感触が心地よくて、燎祐は、まゆりの寝顔を見つめながら、銀色の髪を梳くように撫でていた。
「すぅ…………すぅ…………」
「おやすみ。まゆり」
燎祐は名残惜しそうに指を離した。
そして手に残る銀色の感触を確かめるように眠りについた。
**2**
まゆりは夢を見た。とても懐かし夢だった。
どうやらリビングで泣き疲れたあと、布団の中で、意識を切らすように眠りに落ちていたらしい。
「…………」
頭からかぶった布団を退かして、のろのろと身を起こす。
時計を見ると、朝の4時を少し過ぎた頃だった。
カーテンの太い切れ間から見えた空は、やはりまだ暗闇に包まれていて、その色自体が冷気を持っているかのように、とても冷たく感じた。
「…………」
部屋の中を見ると、泣きじゃくってる間にベッドから放り投げた枕が、自分の陰の中に転がっていた。
打ち捨てられて、無様に転がって、誰にも拾い上げてもらえない日陰者。
「わたしと……おんなじだ……」
偶然の重なりに、まゆりは自分自身を投影していた。
まゆりは緩慢な動きでベッドを降りると、枕を拾い胸に抱えた。
頬を寄せると布地はやはり湿っぽくて少し肌に障った。
「…………」
まゆりは枕を抱えたまま静かに部屋を出た。
その足は、真っ直ぐに玄関を出て、隣家の燎祐の部屋に向かっていた。
それと頭で考えていたわけではなくて、まゆりの行動は殆ど自動的だった。
そして無意識が夢の続きを催促するように、まゆりを、燎祐のベッドの前まで運んだ。
「……今度は……ちゃんと持ってきたの……」
まゆりは、燎祐の幻に言い訳をするように、枕を抱え直し、ベッドの中へと身を滑り込ませた。
「おやすみ……燎」
夢の時と同じように、静かに目を閉じるまゆり。
無論、夢の中にあった暖かさも安らぎも、主を欠いたこの場所に見当たるはずもない。それが何の解決にもならないことだと判っていても、せめて彼に一番近い場所で、甘い幻想に包まれていたかった。
眠ろう。このままずっと。
忘れよう。これからずっと。
そしてわたしは、このまま、いなくなりたい。
眠りに落ちていく中、まゆりの涙が、また枕を濡らしていた。




