第一章2 眠り姫と通学路②
唐突に、ここが学校かもしれないと聞かされて、目の前の全てが色を失ったように急に疑わしくなった。
それなのに、自分では全部を否定できない。
頭が、自分は正しいと、間違っていないと声高に叫んでいる。
幻術や催眠が、そういった心の隙を鋭く突いてくるとは知っている。
しかし、それが我が身に起きているとなると、それと分かっていても割り切れない。
なんて始末が悪い!
「ははっ……参ったな……。俺の記憶が一つも当てにならないってことかよ……」
「そうなんです。燎の記憶はあんまり当てにならないんです。わりと平素から」
俺の言葉をトリガーに、まゆりいきなりトーンダウン。
声差しから、ちょっと不機嫌さも滲んでいる。
なんだ、急にどうした。
「あの……俺なにかした……?」
「燎はさいきんちょっと忘れっぽいというか、よく私とのお約束を破るというか、一昨日も、なんですけど」
「えっ一昨日!? なんかあったっけ!?」
「ほらああーー!! もぉー忘れてるんですけどぉおーー! 一緒にお買い物行ってくれるって、その前日に約束してたんですけど!」
「あ!」
「あ、って言った!? やっぱり忘れてた!」
「ま、まゆりだって今朝は起きるって言ってたぞ!? これでおあいこだぞ!?」
「んー……なに言ってるの。燎が約束破ったの、これだけじゃないんですけど……。余罪、沢山、あるんですけど…………」
トーンの落ちた声が更に沈んでいき、それこそ化けて出たみたいに、ねっとりと絡みついてくる水っ気のある重さに変わった。これはただ事じゃない。
「先週も……先々週も……その前の週も……」
「お、落ち着けまゆり?!」
敵からは幻術。まゆりからは怨嗟の声。耳と心臓に直接ダメージが通るぶん、俺にとって後者の方がよっぽどヤバイ。
肩越しに、ちらっと様子をうかがったら、エメラルドの瞳が暗黒に包まれた渦潮のようになっていた。
果たして気のせいだろうか、まゆりの両腕が少しずつ俺の首を絞めているような………。
しかし今は、なんと厄介なこの幻術を施したヤツを探し当てるのが先決である。
緊張と呼吸――二つの意味で窒息しかかりながら、周囲を警戒する。
しかし体がまともに動かせない。上半身はかろうじて動くが、腰から下は、まるで物言わぬ鉄塊のようにビクともしない。
已む無く、目だけで辺りを確認する。
それでようやく、周囲の風景の異常に気づいた。
先ず、動いている物がない。草も木も絵のように固まっている。
次に、転がっている物が無い。落ち葉や吸い殻といったものは疎か石ころもない。
それだけじゃない。雲も、太陽さえもない。
醒めた目を向ければ、明らかに不出来な世界だった。
だが、喩えそんな粗末な世界観だろうと、幻術は効果が持続する限り、それを真実だと信じ込ませることが出来るのだ。
俺とて、この不自然極まる景観が正常で無いことくらい分かっているが、しかし幻術が解けていないこの頭は、未だ半信半疑でいるのだ。
「この幻術、術者自身の魔法を補助魔導機で増幅させた感じかな。練度は並より下。それでも、魔力が無い燎には抵抗出来ないですけどっ」
さらっと状況を分析し終えたまゆり。
さっきよりは幾らかマシな声だったが、依然としてすっぽかしの件はお冠だ。
これは拗らせる前に先手を打たなければ間違いなく危険――――と思って、なにか言おうとした時には、もう拗らせていた。否、始まっていた。
先ほどから徐々に絞まりつつあったまゆりの腕が、いよいよ俺の頸動脈を極めに来た。その途端に呼吸が一段と苦しくなった。
「ま、まゆりぃ!! あとで何でもいうこと聞くから許してくれーっ!? 今は勘弁してくれえええ!!」
「前もそう言ってたもん…………何でもするって………………言ってたもん……」
「ほ、ホントなんでもするからぁ!!」
どよんどよんとした声に合わせ、容赦なく絞まっていくまゆりの腕。
その恐るべきトルクに、思わずギブアップのタップを重ねるが全く無視。
「……先週はからあげ買ってくれなかったもの……先々週はパン屋さんに連れて行ってくれなかったもの……その前の週は……」
「グエェーッ!」
念仏のように弁護不能な罪状が並び立てられていく。
幻術のせいか窒息のせいか、世界の輪郭がぼやけ、視界が朦朧としだした。昏倒されるのも時間の問題か。
このままでは命が危うい! 本気で!
それこそ俺は、恥知らずなまでにまゆりの腕を指で猛タップする。が、依然として少女の呪言が耳を冒し続けるだけだった。
どれだけ罪深いんだよ俺!?
そこへ風雲急を告げる声がした。
「おうおうおうおう! このオレが並以下たあ言ってくれたなあああ!!」
怒鳴り声だった。
敵意を剥き出しにした男の声だ。
しかし視界のどこにも人影はなし。気配すらも察せられない。
再び男の声がする。
「久しぶりだなあ常陸ぃ、久瀬ぇ。待ってたぜえええ、てめーら二人に合法的に復讐できるこの時をよおおおおっ!」
さっきにも増して語気を強めた声は、襲撃しておきながら己に違法性がないと主張した。
お陰でここが学校である可能性が一層高まった。おまけに攻撃の理由もしれた。
だが申し訳ない、ただいま恨みの裸絞で他界寸前につき、君の相手はできそうにない。
だって、全身が小刻みに震えて止まらない。
顔だって腫れたみたいにパンパンになっている。
俺既にピンチ。
「ビビってんのか常陸いいい! さっきから全身もガクブルさせやがってええ、顔がブドーみてーに紫色してるぜえええ!」
誰かがなにか喋ってるが、もう聞こえない。
たとい言葉が耳の中には入っても頭の中まで入ってこない。
苦しさのあまりカッと目が開いた。
喉がコヒュとか鳴って、乾いた音が絞り出された。
行灯の火が落ちるように視界がフッと真っ暗になった。
それと分かったあたりで意識も希薄になり、前後不覚を体現するようにぐらりと体が撓った。
これは罰か。はたまた報いか。
体が揺れて、重心が崩れる。手を離したマリオネット人形みたいに、全身が上から下へ、前のめりに潰れていく。
なるほど意識外なら体は動く、の……か……。
あぁ頭が……真っ白に…………
「まさか気ぃ失ってんのかああああ! こいつあ傑作だああああ!」
嘲笑がこの身にのし掛るように降ってきた。
しかし俺の意識と体が地に落ちることはなく、ふわふわとした柔らかな中に止まった。
すると極まっていた腕がほどけた。止まっていた血流と呼吸が一度に蘇って、回復の反動に俺はビクッと胸を跳ねさせた。
けど、まだ指や足の末端がビリビリする。
「急にどうしたの? どこか具合悪いの?」
耳元で囁くふんわりした声は、なるほど無自覚だ。
これは自分が人の首絞めてたことには全く気づいてないぞ。
事態がまるで分かっていないまゆりは、少し浅めの驚きを潜ませたような声音で、ねえねえ、と俺を揺さぶって、こちらの安否を頻りに気にしている。
体に走る小さな揺れの中で、どうやら自分は、クッション性の高いなにがしかに身を包まれているのだと察した。たぶんそういう魔法だ、まゆりの。
「おっけ……もう大丈夫……」
「体調が悪いんだったら前もって言って欲しかったんですけど。私が起きてたから良かったけど、燎に何かあったらって思うと心配なんだからっ。魔法が間に合ったからいいですけどっ」
「サーセン、アザーッス」
引きつった声で精一杯の皮肉をぶつけたが、どうやら俺の返事を好意的に受け取ったまゆりは、なんとも嬉しそうな得意そうな、少しはにかんだ照れっぽい声を漏らした。
「う、うん。でも大丈夫ならよかったの。んふふ」
そう言って、まゆりは俺の耳元に頬をすり寄せた。
反則だ。反則的に可愛い!!
この瞬間、俺は、真相を打ち明ける機会を永遠に失った。