第一章24 SEVEN DAYS『C』 ②
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全界恩寵教会カリス・ホリネスティ――――
一般にカリスと略されるそれは、キリスト教と同時期に誕生した宗教で、非常に長い歴史を持つ。
この宗教が現代まで露と消えずに存続してこれたのは、ひとえに『御業』のお陰だと言われている。
御業とは、天が与えた特別な力であるとされていて、カリスはこの御業によって、あるときは貧困に喘ぐ信徒を救い、あるときは死を超越する奇跡を起こし、またあるときは神的存在との対話を行ったという。
無論、カリス内に伝わる伝承のため、真否の程は定かではない。
だが、魔法や異能が認められるようになった現在、これらは逸話だったと見られている。
この『御業』なるものが、第二の魔法なのかどうかはいまだ判明していないが、まだ文明が幼かった時代、超常的な力を持つカリスは、その力でもって多くの人間を魅了した。
しかしカリスがその名を高め始めた頃、大衆の中心には既にキリスト教が存在していた。
大衆の関心は、自分の自由にならない神秘ではなく、誰にでも門戸を開く平等な教えに移り変わっていたのである。
節度を保ち、無償の恵みを与え続けてきたカリスは、そのことに酷く失望した。
一時は門戸を完全に閉ざしたほどだった。
その門をこじ開けさせたのは、御業を欲し利益を企む有力者たちだった。
彼らの目論見通りカリスは入信の希望を拒まなかった。
けれど、今度は彼らに問題が生じた。改宗だ。
既に大多数を占める宗教勢力下に、風変わりな色物があれば、それは直ぐに異端視され、不当な差別を受ける。
その機微に疎くはない有力者は困惑した。これでは体裁が保てなくなる、と。
この板挟みに喘いだ結果、有力者たちは改宗をせず、表面上はキリスト教、或いは国教とされる宗教の信徒でありながら、その裏ではカリスに与する形を取り、二つの信仰を跨ぐ方策を採った。
初期はこの案に難色を示したカリスも、有力者の積む金品にとうとう旨味を覚え、後に教理に「複数信仰の自由」を加えた。
これによって、有力者は大手を振って二重に籍をおけるようになり、カリスはさらに多くの力を取り込み、その地位を盤石なものとしていった。
最盛期には、あらゆる宗教の裏の顔はカリスとさえ言われたほどだ。
なるほど、カリスの掲げる教理と御業は、金字塔を打ち立てるほどの異彩を放っていたわけである。
それが今では、ゴシップ記事より胡散臭さい怪しげな団体にまで地位を窶してしまった。
一時は栄華を欲しいままに極めたカリスが、どうしてそのような誤った道を辿ってしまったのか。
腐敗と言えば簡単すぎるが、実際それでカタがつく。
それもこれも、体裁という幻想に取り付かれた結果であった。
全ては、心の教えよりも『御業』に頼ってきたツケだった。
かつて繁栄に導いた『御業』が、その衰退さえ先導するとはとんだ皮肉である。
結局、『御業』という甘い汁が、だんだんと人の意識を腐らせていったがため、起こさなくてもいい悲劇を起こしてしまったのだ。
そして、その引き金を引いたのは『人類救世軍』だった。
事の発端は、大東亜戦争が終結を向かえる一九四五年、その年の二月――――
ソビエト連邦の一部であったヤクート共和国のエセ=ハイヤという町が、突如黒い靄に包まれて『別の地平』へと繋がってしまった。
黒い靄に呑み込まれたエセ=ハイヤは、徐々にその原型を失い、やがて地上のあらゆるものが、別の地平のものと置き換わってしまった。
土地全土が『異化』を引き起こしたのである。
このことは噂となって国中を風のように飛び回ったが、一旦それで終息をした。
この怪現象が再び世に顔を出すのは一九六〇年。
奇しくもそれは、森林伐採により人為的に地盤沈下を引き起こした、バタガイカ・クレーターの調査によって世に知られることになった。
翌一九六一年三月、エセ=ハイヤを呑み込んだ別の地平について、国連が調査に関する協議を始めた。
その頃、多くの有力者を抱えていたカリスは、独自のルートで別の地平に関する情報を入手しており、国連とは異なる活動を構想していた。
彼らは、これを機に歴史の表舞台に立つつもりでいたのである。
カリスは、その調査情報を元に『人類奪還作戦』を計画。有り余る資金と数多のコネクションを使い、軍備拡張を行い陸上装備を大量に調達する。
その側ら、策定された作戦案は時を待たずして合意し、直ちに信徒からなる軍団を編成。これを『人類救世軍』と名付け、別の地平へと派兵した。
そして、カリスの凋落が始まる。
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人類救世軍の侵攻は二つの目的を持って行われた。
一つは、奪われた人類の輩を救うこと。
もう一つは、亡骸と魂と、そして奪われた地上を取り戻すこと。
人類救世を謳う彼らには、これ以上ない大義名分だった。
そして血戦の狼煙と共に、救世軍の一団が黒い靄の中へと雪崩れ込んでいった。
しかし足を踏み入れた先で、彼らは、人類救世軍は困惑した。
手に武器を持ち、目を血走らせ、大挙をなしてやって来たにもかかわらず敵が居ない。
異形の姿をした亜人はいたが何の抵抗もない。
それどころか非常に友好的だった。
おまけに生存が絶望視されていたエセ=ハイヤの人々も、彼らと平穏に暮らしている。
そこには奪われたものなど何もなく、新たな共栄が始まっているのみであった。
遣わされた先兵たちは皆、速やかに武器を下ろし、直ちにこの報せを大本営へと急がせた。
この地で争いの必要はない、と。
全てはこれで終わるはずだった。
全部はただの取り越し苦労だったと、笑い話として幕が引かれるはずだった。
だがこの話は、笑いどころを失い、暗い坂を転がり始める――――
報せを受けた人類救世軍大本営は、焦りを禁じ得なかった。
これだけの挙兵をして軽挙妄動であったと知れれば、人類救世軍の、延いてはカリスの沽券に関わる。表舞台に立つどころか、これでは単なる笑いものだ、と。
まさか、そんなことをカリス本隊に報告は出来ない。
我々は期待されているのだと、大本営は唸った。
そして、進退窮まった救世軍大本営は『人に化けた悪魔が欺瞞作戦を展開している。これを撃滅せよ』と、先兵の情報を歪め、侵攻を再開させた。
己が体面を保つため、流血と屍を要求したのである。
反発はあった。しかし信仰を盾に侵攻させた。
慣れぬ軍靴を響かせ、無抵抗の者を殺すたび、兵士達の気はおかしくなっていった。
逃げ出す者、反意を見せる者は吊し上げられ処刑された。
刑の執行は仲間全員にやらせた。無論、抑制剤とするためだ。
既に壊れかかっていた兵士たちの精神は、発狂した。
薬は劇薬だった。
この種の処刑が止むことは暫くなかった。
そうやって惨たらしい死が折り重なって、刑戮された死屍が大きな山を作った頃。
人類救世軍は狂った英雄となっていた。
狂気に陥った兵士には、もはや乗り越えるべき心の葛藤はなかった。
彼らは目につくものをただ破壊し、亜人も、人間も、味方も関係なく殺した。
玩具のように死体を弄んだ。
救世軍は時の許す限り、この地に、殺戮と蹂躙を平等に与え、死を氾濫させ続けた。
自称する人類救世の名の下に――――。
この悲劇の終点は、国連調査団の派遣が正式に決まったことでもたらされた。
その時には、救世軍の活動はもっぱら兵士の処分と不都合の抹消であった。
彼らが去った時には痕跡一つ残されていなかった。
すべては深い闇の底に埋葬されたのである。
だが、その墓を暴く者が現れた。
従軍した信徒の一人だった。
彼は、そこで起きた未曾有の大虐殺の全容を詳細に語った。
しかし救世軍を解体したばかりのカリスは、ことの顛末を知らず、彼こそ狂った人間だと哀れんだ。
救世軍の元幕僚らもそれに賛同し、彼を牽制した。
それでも真実の語り手は屈しなかった。
毅然と立ち向かった。
彼の追い風となったのは帰還兵からの証言。
そして凄惨な事件から落ち延び、匿われていたエセ=ハイヤの住民と亜人たちだった。
そこから浄化の炎は一気に燃え広がり、事態に収拾を付けられなかったカリスは、恐るべき早さで自壊を始める。
火の手の上がった一連の真実は、元幕僚への追求に始まり、次第にカリスの不正へと飛び火。メディアという放火魔を呼び寄せ更に炎上。後に信徒の大量脱退と離反を招いた。
そこへ世間の目という業火が勇み足で押し寄せ、彼らの理想郷はあっという間に焼け野原と変わった。
そして終に、たった一人の信徒の正義の下に敗れ去ったのである。
以来、彼らは傷が癒えるのを待つように、或いは力を撓めるように、社会の裏側に潜んだ。
楽土を焼き払われようとも、敬虔な信徒らの『御業』への信仰は燃え尽きることはなかったのである。
彼らは、今も何処かでその時を待っている。
全世界に恩寵を与え、悲願である人類救世を成就するために。
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レナンは俯いたまま、視線をタクラマに向ける。
カリスの話題が予想よりも彼に響くため、どう話を差し込めばいいかを視ているのだ。
それと分かった彼は、おざなりに手を振って、レナンに話を続けさせた。
「今から三ヶ月ほど前になるが、世界魔法士統制機関の極東本部が保管していた【魔女の紋章】が、救世軍の一派によって盗み出された。我々の調べでは、その件に、相羽が関与した公算が大きい」
タクラマの眼光がやや弱まる。
その光の中に、カリスに対する敵愾心はあっても、何故その話を自分に聞かせるのかという疑念がわき上がっていた。
彼からしてみれば、カリスと人類救世軍の尻尾を掴んだことは大きな収穫だったが、同時に一介の学生が知っていい情報の埒外にあるとも思った。
彼の頭の中で、レナンの目的が、薄らと見え隠れする。
「学校の教員が盗人団の一味たあ笑えねえ話だゼ。そこまで分かってンなら、事件は警察が片してくれンじゃねえのかァ?」
「本来はそうさ。だが、よりにもよって相手が世魔関だ。あれは政府だろうが軍隊だろうが靡きやしない、どこまでも独善を突き詰めた治外法権の塊だよ。実際、手が出せないからね」
「じゃーよォ、もう世魔関が何とかするって方向になってンだろ?」
「いいや。世魔関は隠蔽したよ。盗難の被害は無かったとね」
「冗談だろ……!? 何を盗られたか分かってンだよな!? 野放しにするってのかァっ!?」
「被害がないと言い切られた以上、国魔連だって介入できない。この国はお手上げなのさ」
「だ、だからってよォ――――」
「だからさ。もう八和六合が動くしかないんだ。そして連中が【魔女の紋章】を使う前に、何としても奪取しなくてはならない」
レナンは組んだ手の間に顎を乗せて、視線を絡めたまま語る。
タクラマは話のスケールの広がりと、自分の中で渦巻く憤りに頭を抱えた。
そして理解もしていた、いま自分は難しい判断を迫られていることに。
「おいレナン、そりゃア俺様に首ィ突っ込めって言ってンのか。諜報ごっこやれって?」
「その通りだ。君の協力が欲しい。私に力を貸してくれ」
「確かにカリスにゃア報復してえって気はあるし、相羽も気にくわねえ。だがよォ、そんなのは冗談じゃねえゼ。関わってたまるかってンだ」
視線を切って顔を背けるタクラマ。
レナンは表情を消して胡乱げな目を向ける。
「タクラマ、私の目を見ろ。それは君の本心か?」
「…………っ」
「そうだろうな。であれば、今一度問いたい。私に力を貸してくれないか。【魔女の紋章】を使ったらどうなるか、知らない君ではないだろう」
レナンはタクラマの眼窩で揺れる赤い光に瞳を据える。
彼女の蒼い瞳は、彼の裏腹をとっくに見抜いている。
その視線に射貫かれて、タクラマの目の赤い光が漆黒の眼窩で明滅する。
暫くのにらみ合いの後、彼は両手を上に放り投げて、大きく息を吐き出しながら降参した。
「あーもう、わーったよ!! けど、こちとら気乗りしてるワケじゃねえからな。寧ろサイコーにイヤダゼ!!」
「でも暇は潰れるだろう? それと、この機に私も復学する予定だ、君のクラスに」
「はァ? レナンおめえ二年なんじゃねえの…………」
「言ったろう。東烽は八和六合の庭だと。些末なことさ」
凜とした声が部室に響く。
当惑するタクラマを置き去りに、レナンは口元をニッとつり上げ、立ち上がり様に手を差し向ける。
「明日からはクラスメイトだ。宜しく頼むぞタクラマ」
雅な顔付きに似合わぬその剛胆さに、タクラマは今後のことを想像しながら、心底辟易するのだった。




