第一章19 SEVEN DAYS『A』 ②
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気がついたとき、まゆりは自室のベットの中にいた。
部屋に明かりは点いておらず、窓の外も暗くて、一瞬自分が寝ぼけたのかと思ったけれど、その安堵は、巻き戻された記憶によって瞬時に打ち消された。
まゆりは直ぐにベッドの中に逃げ込み目を閉じた。
まゆりは震えていた。震えながら、ずっと思考を巡らせていた。
頭の中で煩悶とするのは、レナンが持ち出した【雪白の誓約】のこと。
そして、別れ際の言葉。それらがグルグルと低回するたびに、胸の奥をぎゅうぎゅうと締め付けた。
まゆりは、その気持ちを少しでも落ち着かせようと、呼吸を鎮め、自らの思考を止め、今の自分のみに意識を向ける。
普段からしている魔法の訓練、魔力との対話と同じように。
していると、瞼の裏の真っ暗な闇に、翡緑の粒子がふわりと湧き上がり、薄ぼんやりとした光を発した。
それがだんだんと集まって一つの形を成していく。
出来上がったのは、パステル画のような曖昧な輪郭をした、もう一人の自分の姿。
その境界は暗闇の中で、さざ波のように淡く揺らめいている。
それは自身の魔力の象形であり、また自身の深層の意識の象形でもある、まゆりの内面世界。
普通このようなイメージは顕在意識からの妨害があり、その殆どが、失敗に終わるか、自らの望むままの形に歪むのだが、まゆりは小さい頃から訓練をしてきたため、自分を、顕在意識と無意識の丁度中間に置くことに慣れていた。
今に限っては、そのつもりでしたことではなかったが、結果として上手く行ってしまったらしかった。
そこに現れたもう一人の自分は、黒一色の世界を漂いながら、まゆり本人が、心の内を話すのを待っている。
しかし、まゆりが押し黙ったままでいると、こちらへふわりふわりと近づいてきて、「私と話したいことがあるのではなくて?」と静かに語りかけてきた。
まゆりは一瞬、その意味を図りかねた。
自分には話したいことはないと思えたからであった。
その時、頭の中で自動思考が始まりそうになったが、それが活性化しないように、まゆりは努めて平静を保とうとした。
勿論、また変な思考に苛まされないようにだった。
ようやく自動思考の波を鎮めて、一様の平穏を取り戻したが、しかしもう一人の自分は未だ消えず、そこで興味深そうにしてまゆりを見つめていた。
そしてまた告げる。
――(私と話したいことがあるのではなくて?)
逡巡の後、まゆりは、自分自身が知りたがっていること、或いはそうと思われることを、ようやく口にした。
――私は燎が好き
――(どうして?)
まゆりと同じペースでもう一人の自分が問う。
どうしてなんだろう、とまゆりは思った。
そういえば「どうして彼が好きなの?」と聞く人が、今まで沢山いた……。
何故だろうと考える。
けど分からない。
実は考えたこともなかった。
なんで理由がいるんだろうと、まゆりは困惑した。
どれだけ考えても理由は思いつかない。
そもそも理由があるのかさえ分からなかった。
――だって私は、会ったときから好きだったの
――(どうして?)
また問われた。
でも、そのことは覚えている。
出会った時のことは、はっきりと……。
初めって会ったあの日、燎祐の言葉で、まゆりは大泣きした。その記憶は鮮明に、心の中に刻まれている。
それからまゆりは、ずっとずっと、燎祐だけのことを見ていて、彼のことだけを考えるようになった。
――私はそう、燎と一緒にいるために生まれたんだって
――私はこの世界でどんな誰よりも燎が好きなんだって
少なくともまゆりは、そう思っている。
そうであると信じ切っている。
――でも
――(でも?)
『君の好きは未だ恋じゃない』
『君は未だ彼に恋していない』
その全てを一蹴された。
まゆりが想い続けた十年を、ものの一分で破壊されたのだ。
まゆりは心で『違う』と『そんなことはない』と叫んだ。
しかし現実は、そうではなかった。
動揺し狼狽えるばかりで、ただの一言も言い返せなかった。
そのことに、まゆりは自失するほどの衝撃を覚えた。
――私は……っ!!
――(どうして気づこうとしないの?)
まゆり感情を強くした瞬間、もう一人の自分の輪郭が須臾に霞んだ。
直ぐに気持ちを鎮めて、今一度、心の平静を保とうとしたが、その時、自らの胸を鋭く穿った痛烈な言葉が甦った。
『君たちは未だ恋人じゃない』
黙らせた筈の感情が目を覚ました。
立ち所に心の静けさは失われ、火の付いた感情が、業火を上げて燃えあがった。
レナンの言葉のままに加熱されていくまゆりの心が、その炎によって、いとも容易く熱割れをきたす。
そして聞こえてはいけない音を、何かが砕け割れる音を、己自身に聞かせた。
その響きは無限に続く山彦のように決して鳴り止まなかった。
――止めて止めて、止めてっ!!
――(私には止められないことよ)
だが、まゆりの願いは届かず、その心は、もう一人の自分と共に、割れて砕けてバラバラに散ってしまった。
全部がぐしゃりと崩れてしまった。
散乱した心の破片には、どれも燎祐の姿が映り込んでいて、キラキラと輝いている。
まゆりはそれを必死にかき集めて、元の通りに鏤めようとして、たくさんの尖った欠片で手をズタズタにして、その痛みに、たくさんの涙を零した。
――ドウシテ レナンハ ソンナコトヲ イウノ
――ワタシハ リョウガ コンナニ スキナノニ
メチャクチャな感情が頭の中で暴走している。
苦しさに胸が圧し潰され、今にもグチャグチャになってしまいそうだった。
弱い心が大きな悲鳴を上げて、意識を、狂ったように黒く塗りつぶして……、気がどうにかなってしまいそうだった。
『負ければ燎祐は私と婚約だ』
奪われる。自分の一番大事な人が。
どうにもならない結末が手薬煉を引いている。
レナンの言葉を聞いたとき、まゆりの頭はただ真っ白だった。
息もできなかった。怖くて堪らなかった。
それを思い出した瞬間、覚醒した意識の中で、自分を掻き抱いていた。
肌に指を痛いほど食い込ませて。
それが何時間か続いて、ようやく一時の落ち着きを心に取り戻したまゆりは、自身の内面の訴えに耳を傾けるべく、深層意識との対話を反芻した。
それは、自分が意識として認識を拒んでいることを、もう一人の自分は知っているからだ。
まゆりには、その正体や意味がまだ理解できてい。
その為に、最初の「どうして?」を振り返ることにした。
そして、もう二度と呼び起こすことはないと思っていた最も古い過去を、水底に鎮めていたその記憶を、ゆっくりと引き上げ、遡り始めた。
燎祐への想いを、今一度、確かめるために――――。
まゆりの人生は、辛い記憶から始まる。
まゆりは、生まれたときから人と違っていた。
生まれ持った銀色の髪と、エメラルド色の瞳のせいで、忌み子として肉親の誰からも嫌われた。
その憎しみは時に他人へと伝播し、いつしかまゆりは、誰からも嫌われた。
そして、生来備えていた特別な力のせいで、まゆりは、周囲から不気味に思われていた。
誰かの手は何時だって自分を叩くために、誰かの足は何時だって自分を蹴るためだけにあった。
どんなことが起ころうと、誰も助けてはくれなかった。それは憂懼と不安に塗れた陰惨な世界だった。
幼かったまゆりの心は、その環境に耐えられず、たちまち塞ぎ込んでしまった。
見るもの全部が嫌になってしまった。
そして、この世の全てに怯えるようになってしまった。
それが、まゆりの置かれていた生まれついての現実だった。
故に、まゆりは願った。
自身を囲う世界がなくなってしまえばいいと、そうでなければ自分が終わってしまえばいいと思った。
けれど、どれだけ願っても、周りからは何も無くなりはしなかった。
だから、まゆりは、もうなにも感じられないように、自分の、何かを感じる心を、忘れてしまった。そのように振る舞った。
もうなにも聞けないように、もうなにも見ることがないように、目を閉じ、耳を塞ぎ、ただ在るだけの虚無になった。
そして、まゆりの記憶は一旦ここで途切れる。
次の記憶は、肉親全員を事故で亡くした後から始まる。
天涯孤独となったまゆりは、その後、とある縁で、常陸の家に引き取られ、そこで空色の瞳をした少年と出会った。
常陸燎祐である。
ここから、まゆりの「新しい記憶」が始まる。或いは「新しいまゆり」の記憶、と呼ぶべきかもしれない。
その間の記憶はない。
まゆりを目撃した燎祐の第一声は「オレとけっこんしてくれ!」で、挨拶どころか、あらゆるものをすっ飛ばして、初対面でプロポーズした。
それも、おでこがくっつきそうなくらいの距離で、いきなり。
だが、まゆりは無反応だった。
うんともすんとも言う気配を見せず、ただ沈黙。
無論、彼の声は聞こえてはいたけれど、まゆりは長く自分を閉ざしていたせいで、その心は、打てど響かないまでに凍てついていたのである。
しかし、この日の燎祐少年は、諦めを知らなかった。
目の前の少女から絶対に返事を聞くのだと、心の氷河何するものぞと、真っ白で冷たい手を熱く握って、子供ながらに熱烈なプロポーズを続けた。必死に。
そして、少年は、少女の心を驚かせたのである。
その時、少女は、生まれて初めて向けられた好意と、温かな言葉が、何よりも嬉しくて、泣き出してしまった。
辛かった今までのことを全部吐き出すように、涙を枯らした。
それからは、燎祐とまゆりは、いつでも一緒だった。
どんな時も、どこへ行くにも、いつも手を繋いでいた。
だから、どんなことをするのも二人は一緒だった。
燎祐は、まゆり自身が嫌いになっていた銀色の髪も、好きになれなかったエメラルドの瞳の色も、全部大好きだと言って、自分の一番の宝物のように大切にした。
まゆり自身も気味悪がっていた、生来の特別な力のことも「すごいなそれ!」と興味津々だった。
燎祐は、一度たりともまゆりを拒絶しなかった。
そんな彼の傍で、まゆりは、だんだんと自分に自信を持ち始めた。
彼のことを、ますます好きになっていった。
そして、いつのことだったか、燎祐がまゆりの魔法を「かっこいい!」と褒めたことがあった。
大好きな彼に褒められて、まゆりはとても嬉しくなった。
まゆりは彼にもっと褒めて貰いたくて、魔法に夢中になった。
案の定、魔法を新しく覚えるたび、燎祐は無邪気に喜んで、もっともっととせがんだ。
まゆりは、彼が自分に何かを求めてくれることが、本当に嬉しくてたまらなかった。
だから、より深く魔法にのめり込んでいって、彼をもっと一杯喜ばせられるように、今よりもずっと凄くなろうと、来る日も来る日も努力した。
寝る間も惜しんで頑張った。でも明け方には眠りに落ちてしまって、毎朝学校へは、燎祐のおんぶで連れて行ってもらっていた。
気がつくと、まゆりは、世界最高位の規格外の魔法使いになっていた。
でもそれは、なりたくて目指していたわけでも、志していたわけでもなかった。
言ってしまえば彼への想いの副産物であって、それ自体には何一つ興味を抱いていなかったのである。
それが災いの元になった。
まゆりの振る舞いは、その頂を羨望する者、手の届かない者達を、負の感情に駆り立てた。
しかし、自分の座すところが、そんなものだなんて一つも理解できていなかったまゆりには、それが恐怖でしかなかった。自分を探す嫌忌の視線が怖くて怖くて、ザワつく心をどうにかしたくて、燎祐に縋りついた。
彼の背に隠れ、必死にしがみついて、そして怯えていた。あの頃のように。
燎祐は「大丈夫だ」と笑って、まゆりを背に庇った。
それから彼は、どんな時も、その身と心を守り続けた。
そして、一難去っては振り返って優しい顔を向けた。
その時から、まゆりの中で燎祐は英雄になった。
彼を想う気持ちは、乙女の憧憬へと変わった。
まゆりにとって、燎祐は、自分の運命そのものだった。
――それなのに……
青い瞳をした烈火の少女は言った。
君は未だ恋をしていない、と。
まゆりには、その言葉が理解できなかった。
意味がわからなかった。
しかしレナンの言葉は、殺意を持った鋭利な刃物のように、たった一突きで、まゆりの心の中心に届いてしまっていた。
レナンの眼は見抜いていた。
まゆりの想いは本物であっても、それは燎祐への甘え、依存が合わさった、不安定な心の上に形成されたものだと。
その本質は逃避であると。
それ故にレナンの言葉は、まゆりの心に致命的な傷を負わせたのである。
その痛みは、今まで無自覚だったもの全部を、発作的に意識の表層へと押し上げ、目を逸らし続けたもの全てを自覚せよと、まゆりに強要した。
これまでのツケを不足なく支払えと言わんばかりに。
まゆりの心はその苦しみに耐えられなかった。
意識を取り戻した後も、胸に走った痛みが消えることはなかった。
瞼の裏に甦ってくるのは、自分とは違う、剥き出しの、捨て身の想いの形。
燎祐に向けられたレナンの、あの射貫くような瞳を。
裏表のない真っ直ぐな澄んだ瞳を。
熱を帯びた言葉の数々を。
一番大事な人を奪ってしまうよ――――――
どれだけ頭を振り乱して髪を布団の中に擦りつけても、あの瞬間が、ますます鮮明になるばかりで、どこにも行ってくれはしなかった。
まゆりは己を苛む感情に唸った。身悶えた。しっぽを出したその感情の名を、その正体をずっと掴めず、更に苛立った。
沸き起こる憤懣の全部をベッドの中でぶつけた。何度も何度も、何度も。罪悪感なんて忘れて、自分でも驚くほど暴れた。
それでようやく分かった。
「………………わたし……悔しいんだ…………っ」
まゆりに芽生えた感情の名は。
嫉妬、だった。




