第一章10 『封鎖区画』②
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「…………おい、どこだよここ」
俺がいたのは全く覚えのない場所だった。
足下のアスファルトなどは一面が凸凹でボロボロになっていて、あちこちの裂け目から見たこともない歪な植物が顔を出している。
周りに見える建造物は、どれも塗装が中途半端に剥げ落ちていて、腐食して虫喰いになっていたり、向き出た鉄筋に錆色に染められたりしている。
点々と見える窓には無事なものがなく、所々に残ったガラスが無骨な牙を剥き出しにしている。
見るからに気味の悪い場所だった。
そして一言で片付けるとすれば、それらはみな傷みきっていた。
加えて、水路や下水の機能が既に死んでいるのだろう、水の腐ったような臭い、或いは埃っぽさのあるカビの臭いが立ちこめている。
誰が見ようと、ここが廃墟であるに違いない。それもとっくに人が引き上げた無人地帯に思える。
しかし一帯に漂っている空気は無人特有の不気味な冷たさが無かった。
寧ろ茹だるようにじめっとしていて、それが肌にねっとりと絡みついてくるようだった。
俺はこの場所の手がかりを掴もうと、あちらこちらに注意を向けながら歩いた。
「倉庫、いや、何かの工場だ……。でも、これだけの土地腐らせておくって普通じゃあ有り得ないよな。買い手が付かない理由でもあ、る――――!?」
ハッとして言葉が喉に詰まった。
この地域の人間が、無人の廃工場と聞いて思い当たる場所は一つしかない。
誰もが忌避するあの場所しか。
それは、国家魔法士連盟によって立ち入りを禁止された場所。絶対に近づいてはいけない場所。
十数年前、制御に失敗した呪術が暴走し、大規模な呪術汚染と環境の異常変質を引き起こし、区画ごと封鎖された工業団地。
その全域は現在も瘴気に沈んでおり、事故の中心地では、今なお正体不明の現象が発生し続けていると言う曰くだらけの危険地帯だ。
以来この『封鎖区画』は、まるで時代から忘れられるのを待つように外界から隔離されている。
ここが封鎖区画だという決め手にはまだ欠けているものの……、とにかく嫌な予感がする。
「離れよう。今すぐに」
額にじわっと汗が滲んだ。
俺はそれ以上の思考を放棄し、スクールバックをリュックのように背負った。
足に力を入れて走り出そうとした、まさにその時――――――。
「どういう手品かしらねーが、テメーで解術するたあ思ってなかったぜえええ!!」
後ろから声がした。
怒鳴るような男の声だった。
振り返ると、頭髪がボンバーした男が立っていた。
その男の身なりはボロボロで、肌は煤けていて、まるで感電事故のコントだった。
「おとなしく幻術にハマってりゃあ、ずっと封鎖区画に閉じ込めてられたってのによおおおお!!」
男の口から最悪の知らせが届けられた。
当たらなくていい予感が的中してしまった。
こうなったら是が非でも脱出を急ぐほかない。
だが、そうするのも容易ならざる状況だ。
加えて、まゆりの腕輪が消失したいま、再び幻術を食らったら一発でアウトだ。
なんとしても、それに気づかれてはならない。
――とにかく今は、こいつに付き合って隙を見つけるしかない!
俺はその切っ掛けを作るべく、相手と周囲を慎重に観察しながら口を動かす。
「なんだって俺をこんな場所に」
「誰も探しに来ねえからに決まってんだろおおお!! てめーには汚染源まで行って死んでもらう予定だったんだけどよおおお!! バラシになっちゃしょうがねえぜえええ!!」
「それは名案だったな。しかしいいのか、お前もこんな所まで付き合ってくれて。ここから帰れなくなったらどうするつもりだ? えぇ?」
「心配するこたねぜええええ! 今からオレはテメーを捻り潰してよおおお、どうせ直ぐにここを出るからなあああああ!!」
俺の言葉に動揺したのだろうか、相手は話の途中からチラチラと自分の後ろを気にしだした。
無自覚にやっているのか、無意識がそうさせているのか、どちらにしてもこれで出口の方向は分かった。
あとはコイツの目をどうやって誤魔化すかだが……――――。
しかし、
「今朝は久瀬がいたからやられたけどよおおおお! てめーだけなら話は別だあああ!!」
「――――――!?」
俺は硬直した。
今朝、俺とまゆりと出くわしている…………?
そんな記憶はない。
まさか幻術の影響で記憶障害が――。
ハッとして額に手をやった。
人の認知に影響する幻術は、記憶異常を誘発することがあるという。もともとその様に指向された幻術もあるというが。
それが自分の身に起こったのだと思うと、そそけ立つほどの不気味さがあった。
「もう忘れたとあ言わせねえぜえええ!! さっきも体育館裏でもオレに恥かかせやがってえええ!! 覚悟しろや常陸いいいい!!」
そういえば体育館の裏で…………
なにが あったんだっけ
思い出そうとした瞬間、記憶そのものが、まるで空気に溶け入るようにだんだんと消えていってしまった。
そして空白になった。
記憶がなくなった。
その瞬間を自覚した。
これは本当に幻術の影響なのか。
本当にただの記憶障害なのか。
急に目の前の世界が遠のいていく気がした。
まるで自分が自分でなくなっていくようだった。
どうしてこんなことが……。
俺はまだ、もしかすると幻術に囚われているのではないのか。
目の前のことは全部幻なんじゃないのか。
眼の奥が開いて揺れた。
じとっとした汗が額に浮かんでいる。
言い知れぬ不安に呑まれた頭が思考を拒否している。
なのに次々に言葉が浮かび続けて意識が混濁していく。
白黒に色を失った景色の中で、誰かが俺に何かを喋っている。
「てめーは格闘はデキるけどよおお、でも魔法だきゃあどうしようもねえからなあああ!! 手も足も出ねえままァ嬲り殺しにしてやるぜええええっっ!!」
肌にビリっとくる声量だった。
だけど耳には入ってこなかった。
頭が理解を拒絶して、俺はそれをただ呆然と見つめていた。
すると、ヒュッと冷たいものが頬を擦った。
「――?」
半ば他人事のように籠手の甲で拭ってみたら、ベットリと血が付いていた。
なんだこれ…………。
なんだ、これ。
なんだよこれ!!
それでやっと我に返った。
尾を引く血の赤色を目に入れて、ようやく頬に痛みが走った。
自分でも信じられない失態だった。
それだけに俺の動揺は計り知れなかった。
「ど、どうしちまってたんだ俺……っ!」
俺はボンバー野郎に背を向け、即座にその場から脱出した。
理由だのなんだの考える暇はない。
「とにかく今は立て直す!!」
魔法には人を殺す力がある。
補助魔導機は殺人を容易くする。
この世界は、とっくの昔に第二の銃社会に突入している。
ついカッとなった、ついうっかり、なんとなく、そんなレベルの感情で人は殺し殺される。
そして目の前の相手はそれに当て嵌まる人間らしかった。
しかも準備は万端で、確かな殺意まである。
それで俺を襲ってこないわけがない。
向こうが何をすべきかは決まっている。
だったら俺が採るべき道は二つに限られる。
逃げるか、戦うかだ。
他の選択肢は、ない!
「ははははは!!! 逃げるだけか常陸いいいい!!」
初動で引き離したはずなのに、相手が直ぐに追いついてきた。
恐らく補助魔法で速度を上げているのだろう。
多少の加速では距離が千切れない。
俺は拳を握りしめ、無人の区画をひた走った。
「久瀬がいなけりゃあテメーはクソだって思い知れえええええ!!」
幅広の道の中央を走る俺に向け、相手は何本もの氷の矢を放った。
それと分かるのは、背中に目があるからではない。
人間本来の能力を総動員しているから分かるのだ。
それこそが師匠との修行で身につけた、この時代を生き抜く術だ。
俺は振り返らずに、全ての攻撃をすんでの所で回避した。
「はしっこい野郎だぜええええ!!!」
相手の次の攻撃は扇状に、連続して隙間なく放たれた。
なるほど今度は左右に避けられない。
足で全力でブレーキをかけると同時に、体を急速反転。
俺は、おかしなくらい前傾した上体のまま、加速した。
直後、数本の矢が髪のすぐ上を過ぎ去った。
俺は足を更に加速させ、一気に相手との距離を埋めて懐へ侵入する。
そしてノーガードの顎先目掛け左拳を打ち上げた。
しかし手応えと同時に響いたのは、ガラスが砕けたような音。
「不可視の壁!? 対物理障壁か!」
「オレの補助魔導機は自律型の特別製でなあああ!! カユいところは勝手にやってくれんだよおお!! 障壁だって全部自動で――――」
「――――――あっそ!! 実は想定内だ!!」
瞬間、溜めていた右拳を放った。
全力の拳は対物理障壁を貫通し、相手のガラ空きのボディに深々と突き刺さった。
そこへ間髪入れず左右の連打を集中的に食らわせた。
「ごぶうああああああああああああぁぁぁーー!!!」
鴨打と言ってよいほどの一方的展開に、思わず手が止まりそうになる。
だがこいつの補助魔導機は自動的だ。
だったら必ず応戦してくる。手温いことはしていられない。
やるなら力尽きるまで徹底的にだ!
「恨むんなら高性能な補助魔導機を恨めよッッ!!」
「おぶぅぅぅ!!!」
拳の目標を腹から顔面に変え、猛ラッシュを浴びせかける。
それに合わせボンバーした頭がボヨンボヨンと跳ねまわる。
なんて鬱陶しい!
すると予期した通り補助魔導機が反撃に出た。
主人の背に隠して形成した氷の矢を、何十と打ち出してきたのだ。
俺は殴り続けながらそれら全てを打ち落としていく。
「でりゃあああああああああああああっっ!!!」
「うごあぉぉ――!!」
殴打に続く殴打。
俺は体力の限り拳を振り回した。
もう氷の矢が止んでいることにも気づかず、ひたすら。
「これで終わりやがれええええええーーーーッッ!!」
残る力を振り絞り、渾身の右を打ち下ろした。
相手は顔面からアスファルトにぐしゃりと沈んだ。
「はぁ……はぁ…………どんなもんだい……!」
肩で息をするのがやっとだった。
拳を持ち上げる力も残ってなかった。
一休みが欲しい。学校でも戦いっぱなしだった。
とにかく今は座りたい。
そう思って膝を折って地面に手をついた時、全身から血の気が引いた。
「――――!!」
アイツが立っていた。
否、浮いていた。そこに。
首根っこを摘ままれような格好で、右へ左へ足をプラプラと揺らしながら、宙に浮いている。
だらんと下がったヤツの顔を見るに、意識があろうはずもない。
「緊急用の傀儡魔法…………ってワケじゃあないみたいだな……。さっきにも増して嫌な感じがするぞ」
補助魔導機が主人の救助を目的に行動しているなら、こんな風に扱われたりはしない。
言い換えれば、挙動がおかしい。
これがもし補助魔導機の仕業でないとしたら、ヤツの体は、一体どうしてしまったんだ。
不可思議で実態のない何かが這入り込んだっていうのか。それが動かしているとでも。
『警告 汚染レベル上昇 警告 汚染レベル上昇 警告――――』
俺の混乱をよそに、唐突に場違いに明るい機械音声が流れだした。
音声は宙ぶらりんになっているヤツのポケットから聞こえている。
鳴っているのはヤツの補助魔導機だろう。
「さすが特別製。状況がよくわかる有り難いアラートだ。是非持ち主に聞かせてやりたいね」
しかし次に流れてきた文言で冗談も言っていられなくなった。
『――――汚染レベル 危険値ニ達シマシタ』
思いつくのは最悪の一言だった。
俺は疲労でガタついている膝を叩いて黙らせ、頭の中を区画からの脱出に切り替えた。
来た方向も、向かうべき方向もちゃんと分かっている。
大丈夫だ。
そう言い聞かせながら胸に手をやって、暴れそうな鼓動を落ち着かせる。
「問題は……こいつが連れていけるかどうかだが……」
それが体力的な問題であるならば気合いで解決もできよう。
だが相手は宙に浮いている。
これを引きずり下ろすのはどう考えたって至難だ。
例え原因や解決法が分かったところで、魔力の無い俺に解除の手立てがあるとは思えない。金の籠手が役立つとも。
だからと言って、意識のない相手を、危険とはっきり告げられたこの場に放って置くこともできない。
こっちが死に目に遭わされようが、俺の目的は打倒であって殺人じゃない。
互いに身が危険に晒されているなら手も貸そう。
「何もせずに死なせるなんて方がよっぽど寝覚めが悪いしな……」
尤もそれは、相手から余計な抵抗もなければ、の話になる。
そうであって欲しい願う。
しかし、俺の感じている悪い予感が当たるなら――――――
間もなくヤツのポケットの中の補助魔導機がビィビィと鳴り出した。
それは地震速報を思わせる警戒色が非常に強いサウンドだった。
『汚染範囲拡大 直チニ現場カラノ即時退去ヲ推奨 汚染範囲拡大 直チニ現場カラノノノノノ即ジジジジジイイイタイイ去ヲスイイイイイイイシシシシシ――………………』
『シネ』
「くそっ、またビンゴかよ!」
弾かれたように俺は走り出した。