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俺は魔法が使えない!!  作者: カリン・トウ
第二章 The Speckled Beryl / Get over it
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第二章 Epilogue bridge


 相羽との戦いから一夜明けた朝、世間さまは普段と変わらぬ陽気に暖かく包まれていた。 

 ニュースや新聞は、いつもの論調で政治批判をするばかりで、夜の東烽高校で起きた大爆発のことも、湾岸地区で起きた大規模戦闘や、無差別に人を襲った稲木出事件のことも報じていない。もちろん黒服のこともだ。


 それはネット記事やSNS上でも同じだった。この事件を語るものは誰一人としていなかった。

 真実に蓋をされているなら、まだ溢れてくるものはある。

 しかしこれでは、まるで街全体が、いや、世間が、社会そものが、それら自体を喪失してしまったようだった。

 それほどの空白感があった。

 もはや忘却と呼んでも差し支えないだろう。

 もっとも、なにが忘れられてしまったのか、それを知るものは、ごく僅かだ。


 で、事件から十日あまり経った頃。

 怪我から回復した燎祐の姿は、ハノンの待つ封鎖区画にあった。

 事件後、レナンの様子を見に毎日お邪魔していたのだが、日常的に瘴気(ミアズマ)の影響が強い封鎖区画を出入りするのは、常人にはなかなかよろしくないというので、ハノンが、俺たちだけが通れる安全な路を作ってくれた。


 これは、どちらかというと瘴気(ミアズマ)に耐性がないレナンのためにやったことだろうと燎祐は察していた。


 お陰で、お見舞いの往来に必要な手間と負担は激減したが、ちょっとでも燎祐が来るのが遅くなると、指輪経由で「まだか? まだか?」と、待ちきれないハノンの声がしてくるのである。


 今日もそんな声に誘われて、ハノンのねぐらまでやってきた燎祐だったが、レナンが治療されている実験室様の部屋につくなり、ハノンは、うれしさを隠しきれない顔をふんわり向けてきた。


「んふふん! きたなリョースケ! もうそろそろだぞ! はやくこっちこい!」


 ハノンは、レナンが治療を受けている水槽の前で、ふんわりはしゃいでいる。

 やに上機嫌なのは、今日がレナンの復帰予定日だからか。いつもならてっぺんが平坦でジトっとしている眠そうで重たそうなまぶたが、今日は始終下がりっぱなしだ。

 よっぽど、この日がよっぽど待ち遠しかったらしい。


「んふふーん んふーふーん」


 ここの実験室じみた根暗な景観は、どれをとっても相変わらずなのに、ハノンだけ出会った頃とだいぶ変わったなあと、燎祐は思った。

 ツンケンしていたのも、今では思い出の彼方。実際、人当たりなんかは別人かというくらい変化していた。


――レナンの影響かな?


 燎祐たちに親しみを覚えたというのもあるのだろうが、なんといっても、一番はレナンの存在だろう。

 以前レナンは、意識をリンクさせて会話を重ねてきたといっていた。その成果なのか、ハノンのレナンへの懐き方が半端じゃないことになっている。

 会いに行けば、四六時中レナンのことばっかり話してるくらい、ハノンはすっかりレナンっ子だ。


 亜人の子供の姉代わりをしていた経験は伊達ではなかったらしい。


 なお、レナンに倣って熱心なハンバーガー教徒になってしまったので、ここへ来るときは何かしらバーガーの差し入れを持参する燎祐だったが、今日はそれもそっちのけでハノンは浮かれている。それだけレナンの快復が嬉しいのだ。


「一応この辺に置いておくな。好きなときに食べてくれ」


「ん。わかった!」


 と、いつもなら飛びつく差し入れに目もくれない。バーガーの匂いにつられてヨダレは出ているが、目はそっちを向いていない。今日のハノンは、レナンにマジである。


 その時、燎祐が肩に提げていたスクールバッグの中から「ちょォ、出せよォ!」と、どっかの俳優が口走りそうなキザったい口調のセリフが聞こえてきた。

 はいはい、と応じて、鞄の中に手を滑らせる燎祐。

 その手が、もそっと取りだしたのは、ドクロの頭。真っ黒い眼窩には目玉の代わりに、赤い光が点っている。

 ご存知タクラマである。

 あれから舟山が駆けずり回ってくれたお陰で、なんとか消滅だけは免れたものの、まだ頭部だけの状態だ。


「ほォー。まさか封鎖区画にンな場所があるなんてよォ。こいつァすげェ! とかいって、俺様ァいちども来たことねえけどなァ、カカカ!」


「ほねだ! あたまのほねがしゃべったぞリョースケ! なんだこれ! なんだこれ!」


「ワケあって俺には名前がわからん。とりあえず友達だ、たぶんな」


 と、燎祐が、自信なさげに、こめかみのあたりを右手の人差し指でかきながらいった。


 幽閉されていたタクラマを助けて以降も、彼自身の身に起こった【忘却】の深度化は続いていた。

 半ば、稲木出に擦り付けられた忘却の性質がタクラマを侵食しているのである。

 そのため、亜人という例外を除いて、レナンや舟山のように特別な加護をもたっていなければ、タクラマの名を口にすることも、文字として認識することも、彼自身を記憶することもできなくなっていった。


 この忘却を燎祐が回避するには、燎祐自身がタクラマを身辺に置いておく必要があり、反対に、タクラマとの距離が百メートルほど開いてしまうと、一瞬にして燎祐の記憶からタクラマの存在が消え去ってしまうと、今日までの舟山の実験で明らかになった。

 なお、ほかの生徒の場合は距離に関係なく、タクラマから視線を外した途端に記憶から消えていたようである。


 もっとも、これまで重ねてきた実験の影響で、燎祐は、自分がタクラマを救出したことなんて覚えてもないし、再会してから今日までの記憶なんてものも、毎日の実験できれいさっぱり消えてしまっている。


 要するに、タクラマとの思い出は今日の実験以後のものしか残っていないのである。

 ゆえに、今の燎祐は、タクラマとはほぼ初対面状態といって差し支えなかった。


 ちなみに、ときおり燎祐が無意識に「タクラマ」の名を口にできる理由は、ついぞ舟山にもわからなかったようである。


「おまえ、リョースケのともだちか? 」


「カカカ! 一応なァ!」


「いちおう? いちおう、って、なんだ?」


 ハノンは頭の上にクエッションマークを浮かべた。心なしか、青みがかった髪の右側に浮いている梵字も「?」模様になっている気がする。


「じつは俺様ァ、誰にも記憶されねー体質をワリぃヤツに感染されちまってよォ! どいつもこいつも俺様のこと忘れちまうンでぇ!」


「ん。そうか。私はハノンだぞ、おぼえたか?」


 ハノンは、いかめしいドクロ頭に怖じる様子もなく、ただふんわりと言った。


「カカ! 覚えたゼ! しかし、こいつァすげェ。マジでうり二つじゃねぇかァ」


「なんで”うり”がふたつなんだ? 私はハノンだぞ」


「悪りぃ悪りぃ。そういう意味じゃァねえンだ。うり二つってのァ、そっくりって意味なんだゼ」


「うりがふたつは、うりうりじゃないのか? なんでそっくりなんだ?」


「うりを二つ並べても区別ができねって意味から、そう言うんだゼ」


「ん、そうか」


「そーよ」


「おい、ほね」


「あン? どしたいハノン?」


「うりってなんだ?」


「知らねえなら教えてやるゼ。うりってのァなァ――――うりなんだゼ!」


 タクラマの目が、ギランと強く光った。

 喜色に富んだ光だった。

 すると、向かい合ったハノンのすみれ色の瞳からも同じ熱量の光が返ってきた。


「ん! わかった!」 


「可愛いじゃねーか」


 それにしても、以前から、久瀬まゆりに似ていると燎祐から聞かされていたが、ここまで似ているとはタクラマも想像もしていなかったようである。


 人が、誰かを「そっくり」と言うときは、大抵は顔のパーツがいくらか近い形をしている程度で、その人の面影を思い浮かべるほど似ていない。いわゆる、それっぽいパチもん止まりだ。


 しかしそれがどうしたことか、ハノンと久瀬まゆりは、髪型と髪色、瞳の色が違う程度で、それ以外はぜんぶ同じとしか言い様がないほど似ているのである。

 魔力色のことも含めれば、さながら格闘ゲームの色替えだ。あるいは、本人が変装しているといったって分からない。


 これだけ似ていても、燎祐は「いや、まゆりの方が背が低いから」と明確な違いを一瞬で見抜くのだが、他人からすれば、ありもしない間違い探しをさせられているような、全くワケのわからない次元の話だった。


「ん、……んー?」


 していると、ハノンが左手の人差し指を唇に当て、目をぱちくりさせながら、タクラマを見ていた。

 数秒の間を置いて、ハノンが小首をかしげる。

 それで燎祐は察した。「なんて呼べばいいかわからない」って顔だと。

 

「ほね、よびかた、なんていうんだ?」


「俺様ァはタクラマってンだ。まっ忘れちまっても別に恨まねーゼ」


 傾いていたハノンの顔が、ふわっと起き上がって、唇から指が離れた。

 そして、口にできないはずの言葉を、あっさり口にした。


「ん。タクラマだな、おぼえたぞ」


 そう言ってハノンは、頭部だけのタクラマを引っ掴んで燎祐の手から取り上げて、鼻先まで近づけて、まじまじと見つめた。

 タクラマは数拍ほどキョトンとしていた。

 それから思い出したようにハノンに訊ねた。


「……おめえ、なんで俺様のことォ覚えられるンでえ? 特別な加護でもついてんのかァ?」


「ん。しらん」


「そっけぇ」


「ん」


 話はそこで終わったが、ハノンはタクラマを掴んで離さなかった。

 で、なにをするのかと思って燎祐が見ていると、タクラマを、ぽんっと頭の上に載せた。

 タクラマの目が、ギンギンと光る。ハノンは、水槽のフチにうっすらと反射する自分の姿を見て、目を輝かせながら、おぉ~、と唸った。

 その格好で燎祐のところまでやってきて、ふんわりとふんぞり返った。

 頭上のタクラマも何故かノリノリで目を光らせている。


「んふふーん! いいだろ! 目がピカピカだぞリョースケ!」


「カカカ! どうでぇ、カッケェだろォ!」


「こいつら仲良しだ!?」


 一瞬で打ち解けるとかそんな次元ではなかった。


――警戒心が強いハノンのことだから、なにか一悶着あるんじゃないかと思って構えていたんだけど、俺の杞憂だったな


 肺の中に堪っていた憂いを、燎祐は一息に鼻から吐き出した。



 時はそれから半時ほど流れて、三人はレナンの水槽の前を囲っていた。

 タクラマは、あれからずっとハノンの頭の上だ。

 

 ゴポ……コポ……


 着衣のまま、水槽の中にゆったりと浮かぶレナンの口許から呼吸器が外れ、ポコポコと気泡が漏れた。

 それから数拍としないうちに、レナンの瞳が、すぅっと開いて、燎祐たちを見た。

 瞬間、一同は、ハッとしたように顔を上げて、待ち人の名を呼ぶ。


「「「レナ――」」」


 だが、その名を言いかけるや否や、待望の人は、自らの首を押さえ、そしてあいているもう一方の手を、これでもかと振るった。


 ドンドンドン!!!

 ドンドンドンドンドン!!!

 ドンドン!!


「ん、んんーーっ!!! (水ぬいてっーー!!)」


 餌を頬袋にパンパンに詰め込みまくったリスみたいな顔をして、レナンが必死の有様で水槽のガラスをぶん殴っていた。


「ん、んーーーーっ!!! んんーーーーーーっ!!! んん、んーーーーっっ!!! (はやく! 水抜いて! はやくーー!)」


 燎祐は一瞬、なにが起こったんだと凍り付いた。

 タクラマは、開いた口が塞がらず顎関節が完全に外れている。

 で、なおも必死に水槽をぶったたくレナンは、復活もまもなく、死に瀕しそうである。


 一方のハノンは、レナンげんきだな!と、目尻を下げて微笑んでいた。

 穢れが心に溜まっている大人には、目玉がぶっ潰れかねんほどの健やかな笑みであった。

 しかし、苦しみあえいでいるレナンにしてみれば、ただただ無情である。

 

 ドンドンドン!!!


「ん、んっっ!!! んんんーーーーっっ!!! (はやく! だぁぁりぃぃぃん!!)」


 水槽の内側から鈍く響く打音。

 レナンの死に物狂いの呼びかけで、燎祐は、ようやっと思考を取り戻し、隣で微笑んでいるハノンの肩をわしっと掴むと、体が大きく前後するくらいの力で、ガクガクと揺すった。


「ハノン、水だ! はやく水槽の水を抜くんだ! このままじゃレナンが溺れ死んじまうぞ!」


「えっ――――あっ」


 それは完全に忘れてましたの声だった。

 レナンの悲しみに満ちた叫びが水槽一杯に響く。


「んんーんーーーーーーーー!!! (ハノォォォンーーーー!!!)」


 レナンの顔がいよいよヤバイ。知人には見せられないくらいヤバイ。

 ある先生に、この人いつ死ぬの?、と聞いたら「今でしょ!」って返ってきそうなほどヤバイ。


「あっ、あ、あわわわ!」


 ハノンはパニックを起こして、目をまん丸にしながら右手を口に当てながらキョロキョロして、その場を右往左往。

 ハノンはハノンなりに慌てなているのだろうが、傍からすると、ただただ可愛いだけである。


「操作盤だハノン! 操作盤を出すんだ!」


「あ……あっ!」


 ぽんっと手を叩くハノン。頭の上にピコンと電球が灯ったのがハッキリ見えた。

 銀髪小柄な誰かさんに匹敵するド天然っぷりであった。

 言われて、ふんわり、けれどいそいそと操作盤に向かって――


「こ、これであんしんだぞ!」


 ハノンはどう見ても回転のアイコンが下に書いてあるボタンに手を伸ばした。

 その瞬間、水槽のヘリにへばり付いたレナンの顔がこれでもかと引きつった。


「んんんーーーんーーー!!! !(それじゃなーぁぁぁい!!)」


 ギョギョギョとひん剥いた目玉を唸らせ、電動泡立て器さながらに、あらん限りの速さで顔を左右に振るレナン。ついには水槽に向かってヘッドバッドを始めた。

 そのマジな気迫を見るに、いよいよ本物の命の峠を迎えているらしい。

 そして、この惨劇が、これが一度目ではないことが丸わかりであった。


「よ、よし、えいっ」


「んんんーーー!!! (それ違ぁぁああああーーー!!)」


 半狂乱のレナン。

 涙の訴え、ハノンに届かず。

 だが、ハノンの手が死の回転ボタンに届く寸前、全速力で横合いからすっ飛んできた燎祐の手が、排水ボタンを一瞬早く叩いた。

 ハノンは、あれ?、みたいな顔をして、燎祐を見上げた。

 

「こ、このボタンな、ハノン……はぁ……はぁ」


「あ」


 ハノンが脳天気を溢した一拍後、こぽんっ、と排水溝の空気が水槽に流れ込んだ音がした。

 間を置かず、サァーッっと水槽内の排水が始まるも、嵩はそれほど早く減らず、安全に呼吸できる位置に落ち着くまでの間、レナンはずっと、年頃の少女にあるまじき姿で必死に藻掻いていた。もはや水攻めである。



 それから一〇分。

 排水が終わった頃には、レナンはすっかりと水槽の中にへたりこんでいた。

 ほどなくして、蒸気的な音を響かせ水槽天井部のロックが外れた。

 水槽のガラス部が機器の下部に吸い込まれるように収納さて、代わりに水槽に繋がる足場がせり上がってきた。

 促されるまでもなく燎祐は足場を上った。

 水が引いたとはいえ、レナンのそばではまだ、浴室に似た湿気の濃い空気が充満していた。


 ハノンとタクラマが見守る中、燎祐は、くたっとしているレナンに手を伸ばした。


「お疲れさん、ほら、そろそろ出ようぜ」


「…………」


「おーい?」


「…………」


「あ、あの、出ようぜ? ていうか、出ませんか?」


 ところが、レナンの手は一向に伸びてこない。持ち上がる気配さえない。全くの無反応。


「え……あれ? レナン?」


 これは流石に変だと思って、おーい、と目の前にしゃがみ込んで顔を覗き込んだ。


「イルルミさーん? もしもーし? レナー――はうぁッ!?」


 濡れて垂れ下がっている前髪の下に見えたレナンの顔、そこに張り付いているものを見た途端、燎祐は絶句した。


 目撃してしまったのだ――――。



「もぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃ――――」


 あの快活を絵に描いたようなレナンが、死んだ魚のような目で、感情を失った表情で、壊れた蓄音機のように訳の分からないことをぶつぶつと呟いている様を。真っ白に燃え尽きて、文字通り廃人になってしまった少女の姿を。


 然もあろう。

 年頃の乙女が、いちばん醜態をさらしたくない人の前であらん限りの無様を演じたのだ。

 レナンが負った心の傷は、乙女の致死量に達していても不思議じゃない。

 通常の乙女だったら間違いなく植物人間になっていただろう。

 いまこうして、声を発し、目を開けていること自体が奇跡なのだ。


 しかし、ここまで不憫な快気も、なかなかない。


 じとっとしていた湿度の濃い空気が、なんだかさっきよりもずっしりとして重たい。

 その重さというのは、レナンの呟きが聞こえるたび、一層重量感を増すのだ。


「もぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃだぁりんだぃすきけっこんしてもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃぁぃばぶっころすもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃだぁりんだぃすきけっこんしてもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃ――」


「れ、れな――い、イルルミさぁぁーーーん!?」


「もぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃもぉおょめにぃけなぃだぁりんだぃすきけっこんしてもぉおょめにぃけなぃぁぃばぶっころす」


「そ、そうだ! 部屋を移動しよう!」


 言いだしたのは燎祐。

 無論、水槽の前にレナンを置いていては、レナンのこの精神的な病は治まらないと踏んでのことだった。



 ちなみに、ハノンのねぐらには、水槽のある部屋のほかにも、書斎らしき部屋や、古めかしいインテリアが飾ってある客間があって、一同は過ごしやすそうな客間に移動してきた。



 室内は、ハノンの魔力で作った光源が照らしており、家具類は客間っぽいだけあって、テーブルやソファーでコの字型の宅が一つ組んである。レナンは一人掛けのソファに、ハノンは膝の上に、タクラマは頭の上に。燎祐は対面に座した。


「あ、あの、レナ――」


「もぉおょめにぃけなぃメィキラィもぉおょめにぃけなぃぁぃばぶっころすもぉおょめにぃけなぃだぁりんだぃすきけっこんして」


「何か変なの混じってンぞ」

「駄目だこりゃ……」


 ――――――


 ――――


 ――





 レナンが正常な人格に戻るのに、それから半日くらいの時間を要すことになった。


 その間、ハノンは借りてきた猫みたいに大人しく、普段の彼女を知っているだけに、壊れたレナンの有様にタクラマも燎祐も戦々恐々だった。


「レナン……、あんしんしたか?」


「……ん? ははっ、そうだな。ハノンのおかげですっかり良くなったよ、ありがとう」


 レナンが優しい声をかけると、ハノンは母親に甘えるみたいにレナンの胸に飛び込んだ。

 よしよしと頭を撫でてやると、ハノンはそのまま寝てしまった。


「カカカ。はしゃぎ過ぎて疲れちまったかァ。ハノンのやつ、おめぇのことスッゲェ愉しみにしてたかンなァ」


「にしてもレナン、子供あやすの得意なんだな」


「ふふん。なにを隠そう、くーちゃんを育てたのは半分私だからな」


「「いや、誰だよくーちゃん」」


「くーちゃんはくーちゃんだ」


 そう言ってソファーにふんぞり返り、スンと鼻を鳴らすレナン。

 ハノンと同レベルの回答だった。


「ンで、この子どうすンでぇ? 聞きゃァ、封鎖区画に独りで住ンでンだろォ? このままでいいのかよォ?」


「それなんだが、ダーリンの家で預かって貰おうかなって思っている」


「は!? 聞いてないぞ!?」


「言ってないからな!」


 ふふん、と胸を張るレナン。

 トンと右手で胸を叩いて燎祐に言う。


「安心してくれダーリン、私も一緒に住むつもりだ」


「むしろ不安で眠れねえよ!? いつからそんな不穏な話になった!?」


「カカカ! いいじゃねえかァ! 今さら一人も二人も変わンねえだろォ、おめぇン()


「しばらく泊まるってなら、どうとでもなるだろうけど、住むって話になると母さんがなぁ……」


「大丈夫だダーリン、義母(おかあ)さまとはもう随分と親しい。説得も難しくはあるまいよ」


「その辺はたいして心配してないけどさ。きっと、たぶん、母さんのいる家に住むなら許可するって方向になると思うぜ?」


「つか、燎祐よォ、隣家って、まゆっちの家だろォ、おめえの母ちゃんが決めちゃっていいモンなんけ? 後からやべえコトになンじゃねェか?」


「おいおい、なに言ってんだタクラマ、やべえことになんかなるわけないだろ」


「おォ、出た出た急に俺様の名前出す謎芸」


 ハノンの頭の上で、カカカカ!と、笑い飛ばすタクラマ。

 本当は忘れられているとは言え、燎祐に名前を呼ばれるのはそれなりに嬉しさがあるようだ。

 が、その笑い声も喜色も、すぐに失われることになった。


「もともと隣は母さんの家なんだ、ぜんぜん問題ないって」


「おめーこそなに言ってンだだゼ燎祐よォ。おめーン家の隣は、久瀬の家って、おめぇがさんざ言ってたろーがよォ。家主に断りいれねーとか、ありえねーだろォ」


 タクラマがそう言うと、燎祐は眉間にしわを寄せて、腕を組んだ。

 それから少しの間、わずかに視線をあげて逡巡した。

 燎祐は顔を戻さず、いった。


「なあタクラマ、ひとついいか?」


「あン?」


 燎祐の視線が下がり、両の目がタクラマに向いた。


「さっきから言ってる久瀬とか、まゆっちって、いったい誰のことだ?」


「おーィおィ! つまンねえ冗談だなァそいつァ! なァに言ってンだァこいつはよォ!」


「そりゃあこっちのセリフだ。お前こそどうしたんだ? 俺のことホントに知ってんだよな?」


「ったりめーだろうがァ! おめえが一方的に俺様のことを忘れてるだけなんだゼ! つーかレナン、おめえも言ってやれや! 燎祐の野郎、まゆっちを忘れちまうなンてよ! この一件で、ちっと頭おかしくなったンじゃねーかァ!?」


 ハノンの頭の上で、くるりとレナンの方を向く。

 急に真っ直ぐな視線を向けられて、レナンの瞳が困惑に曇った。

 点っていた部屋の灯りが、風にあおられたように、ぐらりと揺らいだ。

 一瞬の明滅があった。


 そのときにはレナンはタクラマから視線を外していた。

 そして一呼吸の間を置いて、間違った言葉を選ばないように、慎重に応えた。


「久瀬という名には聞き覚えがある」


「聞き覚えがあるって、おめえ、そりゃ知ってるってェことじゃ――――」


「しかし、私の知人に、その姓のものはいないよ、ひとりもね」


「ひとりもって、バっ! おめえらぁッ!!!」


 タクラマの怒気が爆ぜた。


「いくら気心が知れてよォがよォ、そいつア、ゼッテー言っちゃアならねぇ冗談ってモンだゼッッ!!!」


 これまで、本気の怒りをあらわにしたことがなかったタクラマが、いまは心底燃え上がっていた。

 燎祐とレナンは、そんな彼を見て、かえって冷静になる。


「私が冗談をいっているように見えるのか」


「俺も同じだ」


 タクラマの怒気に圧されても、二人は毛ほども意見を翻さなかった。それどころか、いよいよもって大真面目な顔で言い返した。

 その冷静すぎる顔が、タクラマにはこれ以上ないほど腹立たしく映った。


「ざっけンなよォ!! 俺様だけならとかくよォ、てめえが、まゆっちを忘れるたぁ、どういう了見だ燎祐ぇぇ!! いつまでもくだらネェこと言ってンじゃねえ――――」


 タクラマは、カッとなって最大熱量の感情を言葉に乗せた。

 しかし、それ以上は言葉が出てこなかった。いや、出すことができなかったのだ。

 タクラマに向けられていた燎祐とレナンの怪訝さをにじませた瞳が、それを許さなかったのだ。


 そして燎祐もレナンは、言葉を発さぬまま、静かにタクラマを見ていた。

 その無言と視線は、一切の冗談を許してはいなかった。


 つまりそれは――――本心である。


 偽りのない真実である。


 これが、現実なのだと理解したタクラマは、頭の後ろに、言い知れぬ焦燥と薄ら寒いものを感じた。

 

「なんでだよ、おめぇら……。まゆっちを忘れちまったなンて、嘘だろ…………」


 静かな部屋のうちで、タクラマの声が、むなしさに満ちた空気のなかに溶けて消えた。


 燎祐とレナンは、久瀬まゆりを忘却した。


 それは、久瀬まゆりが遺した最後の置き土産であった――――。


ベリル【Beryl】幸福のほか、発色が約7つあることから多面性を象徴する宝石。

スペクルド【Speckled】まだら。複数の色・濃淡が入り混じり不均一であるさま。


ゲット・オーバー・イット【Get over it】乗り越える。立ち直る。忘れる。


第二章 The Speckled Beryl / Get over it おしまい


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