第二章61 紅蓮の夜気②
最上位個体の命令で散った相羽。
さっき屋上にいた十五体の下位個体で、現在も形を保っているのは二体。うち一体は身体半分ほどがヘドロ状に溶け始めており、洗礼者化が始まっていた。残る一体はカタチこそ無事だったが、眼が完全に逝っていた。比喩ではなく事実だ。
見つけられない眼など要らんと吐き捨て、内側からマグマよりも熱く吹き上がる破壊衝動のままに、己が手で両眼を貫いたのだ。
眼窩からはいまも黒い血が、まるでアニメや漫画のキャラが流す涙のように、流れ続けている。
この自傷行為が、下位個体で最後の相羽の自我を繋ぎ止めていた。
いまは光こそ失ったが、その分、他の感覚が鋭えていくのを自覚していた。
特に気配には敏くなった。他の個体たちがどの辺をうろついているか、何となくだが分かった。
けれど、燎祐だけは見つけられなかった。気配も感じなかった。
燎祐は「相羽の目から隠れる魔法を使った」と言ったが、指輪が幽霊みたいなものの声を「聞きたくない」で遮断できるあたり、効力の範囲が概念にも及んでいることは明白だった。
よって、相羽である限り、燎祐を見つけ出す手段のすべてが通じない。
指輪の魔法を打ち破る方法はひとつ、相羽であることを喪失し、洗礼者に墜ちるほかない。が、そんな考えに至れるほどのヒントは転がっていなかった。
なにせ燎祐は世間的には無能なわけで、彼に関する情報というのは久瀬まゆりを調べた時に出てくる付属物でしかない。相羽もそれくらいのことしか知らない。
目立つ情報と言えばレナンとの決闘で引き分けたことくらいだが、あれはレナンの演出としか思っていなかった。
事実、レナンは燎祐に合わせて戦っていた。
もし勝ちに拘って最初から脚を使っていたら燎祐は秒殺だったろうし、必殺の【威光】だって最後に一度だけ使ったのみで、本当は何発も撃てたがそうはしなかった。加えて、いくらもバリエーションがあるなかで、使った【威光】は、燎祐が使用したものと同じ型。
このことから相羽は、燎祐を手駒に加えるためにレナンが決闘を利用したと考えていた。
相羽がそう思ったのには理由がある。世界最高位の魔法使い久瀬まゆりだ。
あの少女を味方に付けるには、常陸燎祐と強いパイプを築く必要がある。なぜなら久瀬まゆりは、取り憑いた亡霊のように常陸燎祐から離れようとしないからだ。
つまり燎祐を落とせば、久瀬まゆりはオマケで付いてくる算段ができあがって――実際、決闘の後からは三人で行動をするようになっていた。それを知った相羽は己の考えをますます強めた。
その上で相羽は『イルルミ・レナンはカリスの計画のすべてを分かっているわけではないが、しかし久瀬まゆりの存在が、カリスの計画を破綻させるために必要だと直感的に理解している』と、考えていた。
相手は八和六合の御庭番、どれだけの勘ぐりも深読みも、掠らないということはないとない、そうと断言しきるほど、相羽はイルルミ・レナンの素質を高く買っていた。
だが、それが間違いだった。
ぶっちゃけ、レナンはそんなこと気づいてもいないし、勘づいてもいない。もっといえば久瀬まゆりは最大の恋敵で、仲間に引き込むつもりで燎祐に近づいてはいない。
ちなみに、決闘後に一緒に行動していたのも、成り行き半分、燎祐とまゆりがお人好し過ぎるのが半分。あれだけレナンを毛嫌いしてみせた久瀬まゆりだったけれど、親友のヨーコにどこか似ているせいか、やっぱり憎めなかったのである。
というわけで、相羽の読みはことごとく外れていた。
けれど人間の思考とは、常に点と点を結びつけるように出来ている。例えば朝に目撃した占いの結果を、事あるごとに思い出して関連付けたりするように。たとえ無関係の出来事であっても、繋げずにはいられない。そうした偏りが、視界を霞ませ、計算を狂わせ、生んだ現実とのギャップを育てていく。
そして相羽は、たまたま自分の考えに当てはまる行動をとっている燎祐たちを目撃し、すべてが自分の考えの通りだと思い込んでいる。
そんな誤解と偶然が幾重にも重なって、燎祐の行動はすべて、相羽の予測の外にあった。
よって、この後に起こることも、相羽には分かっていなかった。結末さえも。
「洗礼者の気配が四つ、同時に消えた。一瞬だが、微かに炎の精を感じた。ククク、とうとう姿を現したかイルルミ」
目は見えずとも、周囲の状況は見えていた時よりも把握できている、とでも言うように、相羽は脚の速度を上げる。
自意識過剰なその認識に反して、実際は無傷どころか、身体のあちこちを壁面にぶつけながら行くのあった。
「ククク……待っていろ小僧ッ!」
盲目の相羽は戦いの痕跡を追って、階段の踊り場に出る。その時、ドンっと身体が何かにぶつかった。
ん?、と手を前方に伸ばし、行く手を遮ったものの正体を探ろうとするが何の感触も得られない。
相羽が訝しんでいると、唐突に、キュキュッと、ゴムの靴裏が廊下を擦過する甲高い音が背後でした。
「そこか!」
振り向きざま、不可視の斬撃を十字に放った。
しかし虚空を切り裂くのみで、手応えはない。
「いま確かに靴音が聞こえ――」
言いかけたとき、相羽の中心に、ズンッと重たい衝撃が走った。
それは一直線に、背から胸に向かって通り抜けていった。
相羽は不思議そうに伸ばした右手で自身の胸をさすってみると、指が硬いものにぶつかった。それは背から胸骨を貫いて胸から聳えていた。
その感触を丹念に確かめるように指を這わす。
「これ、は、破滅……」
「直ぐにモザイク化しない!? 耐性が強い個体か!!」
燎祐が目の前の背中を蹴飛ばすと、刺さっていた破滅が相羽の指をすりぬけて、ドロドロとした真っ黒い液体をしたたらせた尖端が外に顔を出した。
相羽はよろよろとした動きで、振り返る。穿たれた穴に手を当てているが、黒い液体が止めどなくドバドバと溢れていてもはや手当にもなっていない。
「ク、クク……まさか、貴様から、来る、と……はなぁ……!」
「悪いがお前の相手はこれっきりだ! そんじゃ!」
「なっ! 待て貴様っ!」
逃走宣言に面食らう相羽。
その驚嘆を置きざりに、燎祐は、走ってきた道を一気に引き返していった。
杖の柄を、床や階段にカツン、コツンとぶつけながら。
盲目の相羽は、音が進んでいった位置と方角を正確に把握し、ニタっと悪い笑みを溢した。
「あいつめ……焦っているな……! くははは……! 見えずとも分かるぞ、どこに、いるか! もう、逃げられんぞ!」
盲目の相羽は、全個体に信号を飛ばした。
ほどなく、自分以外に残存するすべての気配が、一斉に動いたのを察知した。
長い夜は、まもなく終わる。
****
燎祐は四体の洗礼者を倒した場所を通り過ぎ、再び上階へ向かっていた。
その目は、真っ直ぐに前だけを向いているが、感覚の目は後方に向けられていた。
「狙い通りなら、後ろから一斉に雪崩れ込んでくる……!」
目下の脅威は、敵が全方位から迫ってくることである。
いくら気配を読むことが出来たところで、活発な敵の活動のために身動きができなくなってはなんの意味もない。
この状況を脱するには、闇雲に敵を掻き回すのではなく、敵の捜索活動をコントロール下におく必要がある。それには状況作りが不可欠だ。
そこで燎祐は、相羽たちの気配を読んだ上で、あえて自分の居る場所を教える真似をして逃走した。
するとどうなるだろうか。相羽たちは目を血走らせ、死に物狂いで追ってくる。最短距離で。
それこそが燎祐の狙いだった。
相羽たちは、知らず知らずのうちに、燎祐が引いたコースの上を走らされてるのだ。
「……ひとつだけ、やけに遅れている気配がある。たぶんさっきのだ」
ぽつと呟いて数瞬の後、背筋がピンッと伸びてしまうほどの怖気が走った。
一つでも尋常でない極限の殺意が、後方から群れをなして押し寄せてきたのである。
チラッと目を向けると、群れは殆どが異形に成り果てた洗礼者だった。その少し後ろに、四体の相羽がいたが、さっきのはいなかった。殺意の度合いは明らかに相羽たちの方が強いが、洗礼者に先行を譲っているのは、燎祐を視認できないためだろう。
「はっ、おいでなすったなっ……!」
目端で見やった瞬間、燎祐は通路前方の壁に向かって全力で【破滅】をぶん投げるど、それに追随するほどの速度で走った。
杖の位置イコール自分の位置では、遠距離から魔法を撃てる相羽に瞬殺されるのがオチ。杖と一緒に逃走するには、隠すのが一番妥当だが、それが通じるような相手ではない。だからといって、投げて並走するという発想もない。
そして杖の尖端が壁に刺さる寸前、燎祐の手が柄を掴んで、次の進行方向に向かって、走りながらぶん投げる。それを繰り返して、校内中を走り回る。もはや脳筋もビックリな作戦である。こんなのは燎祐にしか出来ない。
と、その時、洗礼者の一体が異常なほどに速度を上げ、燎祐に追いついた。
杖のキャッチ・アンド・スローイングにかかる時間分は、どうしても継ぐ脚が遅くなる。そのタイミングを狙われたのだ。
「フン。そこか」
後方から相羽の低い声が聞こえたと同時、燎祐に迫っていた洗礼者が、突然、バラバラッと賽の目の細切れた。そして慣性の法則に引きずられながらボロボロと廊下に転がった。無論、射線上にいた洗礼者すべてが同じ有様だった。
あれだけの殺意を滾らせていたのに、目端に映った洗礼者の最後はあっけなかった。
「照準器にもならんとは、つくづく下位個体は使い物にならんな」
「洗礼者で俺の位置を暴いて、魔法でまとめ葬ろうってか! やるとは思ったぜ……!」
散らばって無に還りつつある洗礼者に対する一瞥もなく、互いに吐き捨てる。
燎祐がフロアを上階に移す頃には、洗礼者の数は図らずもゼロになっていた。
いま追ってきているのは最上位の四体のみ。
この個体たちは杖が飛ぶ方向を追っているのであって、燎祐自体は見えていない。けれど、放っている殺意は、確実に燎祐を捉えているように思えた。
言うなれば、見えていないのに見られている気がする、という感じだ。燎祐には、それが不気味でならなかった。
「…………ククク。頃合いだ、仕掛けるぞ。ヤツの射程に入ってやれ」
四体のうち、先頭を行っていた相羽が残りの三体に声を掛けた。
全員が、阿吽の呼吸のごとく、ウン、と頷き、そして一斉に加速した。
その速度は、燎祐に迫る勢いで――――
「来たッ!!」
燎祐は好機とばかりに脚の回転を上げ、軽く跳躍しながら、パシッと杖を掴んだ。その姿勢から、杖の尖端を思い切り床に突き立て、着地しながら全力反転、そして――
「魔力装填ッッ!! 纏火・【赫天吼】!!」
残存する魔力のありったけを放たんとした刹那、真っ黒な液体が燎祐を背後から包んだ!
「ポ……ゴォ……オ……オオ……!」
「――ッ!?」
それは盲目の相羽の成れの果てだった。
それが、床や壁の傷を伝って追ってきたのだ。
最上位の個体たちはこの瞬間を狙っていた。
だからこそ、洗礼者をバラバラにして燎祐の注意を引きつけた。
すべては、この個体への警戒と注意を薄れさせるためであった。
「ククク、連携とはこうやるのだ小僧」
その声が届くより先に、燎祐の視界は一瞬にして闇に奪われて、最後の【威光】は真の標的を失って、闇のなかで暴発した。それが盲目の相羽の最後だった。
【威光】によってその闇が打ち破られたとき、燎祐の身体は、直上から降ってきた目に見えない大きな力でもって、地面に向かって叩き付けられた。
ズンッ!
全身がメリメリと音を立てながら床に沈む。
まるで重力が何千倍にも増したかのようだった。
「ぐ……あ、あ……っ!」
「クククク。これはまた綺麗なヒトガタが取れたなあ」
その言葉の通り、廊下には燎祐のヒトガタができあがっている。
ドシンッ!
相羽のぶっとい脚が、燎祐の上を踏みつけた。
否、脚で押さえつけた。
「さて小僧、どこから切り落として欲しい」
****
東烽高校の正門近くに、赤いスポーツカーが駐まっている。
いつでも発進できるようにか、エンジンは掛かったままだが、運転席には誰も乗っていない。
その一方、シートが倒されている助手席には、縦長のケースが寝かしつけてあった。サイズからして楽器でないことは明らかだが、かといってその枠に収まりそうなものといえば、槍とか長刀くらいしか思いつきそうにない。
そこにいったい何が収まるのかは、持ち主のみぞ知る、といったところであろう。
その持ち主たる人物はいま、車のボンネットに優雅に腰掛けて、黒髪を夜風に遊ばせながら、手にした自分の得物に目を落としながら、眉を寄せて苦笑していた。
「あはぁ。燎祐くんのことだから、なんやかんや取り返すんだろうなーって思ってはいたけどぉ、まさか直に私に送りつけるなんて思ってもいなかったなぁ。ていうか、あれだけ私に散々やられたのに、フツーに返してくれるんだぁ。ちょっと以外……」
手にした得物を軽く振るメイ。
その得物の禍々しさと、独特のフォルムは、紛れもなく【破滅】。
相羽に奪われ、いまは奪還した燎祐が持っているはずのもの。
それがどうしてここにあるのか。
答えはいまから数分ほど前に遡る。
教室での攻防で全裸の相羽を倒した燎祐は、指輪の魔法を使って【破滅】をメイの元に転送していた。
これ以上、杖を護りながら戦うのは困難だと判断したからだった。
そこで燎祐は、さらに指輪に願った。【破滅】のレプリカを、と。
だから、次に突き刺した相羽は何も起きなかった。
では、燎祐が「耐性が強い個体か」といったのは、レプリカと悟らせないためのブラフか。
否だ。
燎祐は杖がレプリカだと知らなかったのだ。知らなかったが故に誤解したのだ。
そんなはずはない、ということはない。
可能だ。魔法には。不可能じゃない。
なぜなら、燎祐は、自分の記憶を消すことで失ったのだから。
杖がレプリカであるという事実を。
だからこそ、あの偽物の杖は、いまも本物でありつづけているのだ。
元から模造品であるのに、その模造品が本物らしく振る舞っているなんて皮肉もいいところだ。
燎祐自身、己をいまだ悩ませつづける記憶の喪失を、自ら利用しようとはこれまで考えもしなかっただろうが。
さあっと夜風が吹く。
メイは、ふぅ、と軽い溜め息を付く。
「念のためと思って、車で拉致った時から魔力線を繋ぎっぱなしにして監視してきたけど、そんな必要もなかったなー」
メイは、魔力線を通じて、いまの燎祐の状況がどれほどの窮地か知っている。だが、この態度。
いつか「敵でも味方でもない」と表明したのは、まさしく燎祐の生命がどうなろうと知ったことではない、と断じたも同然だった。その言葉通り、メイには、燎祐に対する慈悲の心など欠片もない。
それどころかメイは、まゆりが不在なのをいいことに、いくつもの魔法を燎祐に仕込んでいた。魔力線はそのうちの一つに過ぎない。
メイは、潜めていた眉を緩めると、杖を両手に握りながら、ぐーっと背を伸ばした。
目尻に、うっすらと滴が浮いた。
それから、はぁ~、と全身を緩ませ、首を右に左に、コキコキと動かして、ボンネットから立ち上がった。
「はぁ~~、正直カリスにはムカッときてたから、今日は久しぶりにちょっとだけ暴れようかなーって気分だったんだけどー。んんん~、この感じだとキャンセルかなぁ~」
そう言ってメイは、杖を肩口に担ぎながら助手席の扉をあけて、中から縦長のケースを取りだした。
メイが小声でなにか呟くと、ケースの留め具がひとりでに動いて、蓋が開いた。
「ごめんねー【破滅】、今回は出番がないみたい。次は使ってあげるからねー。それまで、ゆっくりおやすみなさーい。はい、パタンっと」
人形遊びでもするように一人でままごとを終えると、メイは、【破滅】を収めたケースを棺のようにおごそかに助手席のシートに載せ、それから一つ深呼吸をして、東烽の校舎に向き直った。
「さーてさて、なんだか燎祐くんピンチそうだし、襷の繋ぎくらいは私がやってあげちゃうかなぁ。あはっ!」
****
不可視のものを見下ろす相羽の目には、至上の歓喜が浮いている。
身をよじりたくなるような興奮が鼻腔を広げて、アドレナリンの津波が脳内で起こる。
骨を抜かれるようなたまらない高揚感が、厳めしい口を、いまはだらしなくひらけさせて、口端からだらだらと唾液をしたたらせた。
心なしか、息づかいも荒い。傍からとせずとも、もはや変人奇人の類いだ。
「クハハハハ! どこからだ! どこから切り落として欲しい!」
「く……くそっ! 早く抜けださねえと……!」
燎祐の背をグリグリと踏みにじりながら、徐々に体重を掛けていく。
骨の軋みあがる感触が脚を伝って耳まで登ってくる。
相羽の相好がますます歪む。
「答えられぬなら、端から切り落としていくぞ! これだけ手間を掛けさせたのだ! ただでは殺さぬ!」
「ククク、どのみち殺すのだ。好きにするがいい。計画は我々の方で続行する。もうあまり時間がない」
「「で、あるな」」
四体の相羽は、相互に顔を見合わせる。そのアイコンタクトで役割分担が済んだようだ。元が同じとはいえ、ほとんどテレパシーの域である。
「では我々は行くが、その前に――小僧を始末するまで感覚は共有しておけ。殺したくて堪らんのは貴様だけではないことを忘れるな」
「無論だ! リクエストにも応えてやろうクハハハハ!」
燎祐を踏みにじる個体は、鬼の首を取ったみたく、場に不釣り合いなほど上機嫌にこたえた。
やれやれといった具合に、残りの三体が手のひらを空に向けて、こいつはどうしようもねーなとでも言いたげにフンと鼻息をついた。
凶行に走る寸前とは思えない空気感である。
「では杖を貰っていくぞ」
「ま、待てっ!」
燎祐が手を延ばすが、それを相羽が当て感だけで踏みつける。
「貴様は黙っていろ!!」
「ぐああ!」
「さあ、お前たちは早くゆけい! こやつの始末は私がつけておいてやる! クハハハハ!!」
燎祐を踏みつける相羽は、愉悦と優越を同時に感じ、腹の底から湧き上がる多幸感に脳が痺れる思いだった。
そんな時である。脚を乗っけていた燎祐の背が、なぜか、くっくっく、と笑った。
グリッと踏みつけてみるが、燎祐の背は笑ったまま。
相羽は、あん?、と目を眇めながら、自身の目に映らない燎祐を見下ろす。
その途端、ヒールの靴音が、燎祐の口をついて飛び出してきた。
コツ……コツ……コツ……
耳を傾け訝しむ相羽たち。
聞き違いかと思ってさらに耳を立てると、今度は耳慣れない女の声がした。
「――あはーっ! まだ計画を続行できるだなんて思っちゃってるのー? ばかっぽーい!」
艶っぽい女の声だった。
明らかに燎祐の声ではない。
それを耳にした相羽は、ちん入者の参上かと構えて、カッと目をかっぴらく。
「ぬう!? 誰ぞ貴様!」
「カリスのみんなが超会いたがってるメイちゃんご本人さまですよぉ? どぉ、驚いた驚いた? お姉さんと話せて嬉しーい? 私的には超嬉しくなーいっ!」
一瞬、は?、と呆気に取られた面々だったが、言葉の意味を飲み下したその直後、無防備の横っ面を突然ハンマーでぶっ叩かれたかのうな、強く烈しい動揺が相羽たちに走っていた。
実際、強面の顔面が驚きのあまりに、酷いことになっている。
まず逆立った眉毛の下で鼻毛と目玉がボンと飛び出している。顎関節もぶっ壊れたのか口も全開だ。顔芸もここまでくれば極まっている。
無論、内面も穏やかではない。いまにも身体の中心で大爆発しそうな心臓の音を胸骨の上からぐっと押さえ込んで、静まれ静まれと心で唸っている。
どうやら相羽にとって、いやカリスにとって、メイに関するすべては値千金であると同時に、その存在は最悪の禍殃といって差し支えないようだ。
「隠者風情が! なにゆえ他人の口を借りて出てきた!」
「ん~、私なりのぉ優しさでー。『まことに残念ながら今回もカリスの計画は破局を迎えしました~』って、送別の言葉をあげようかと? いまならリボンも付けちゃうよぉ?」
「「「い、一体どういう意味だそれはっっ! なにを、何をした貴様ぁぁ!!」」」
コツ……コツ……コツン
「――あはっ!」
甲高くヒールの音を鳴らして、艶っぽい声を聞かせるメイ。頭のネジが銃弾さながらにぶっ飛んでしまったかのような切り返しであった。
それ以上なにも発さないメイに相羽たちは混乱した。
驚嘆で塗り潰されていた顔の下から、今度は訝しみの色が溢れてくる。相羽の顔色はもうぐちゃぐちゃだ。
上位個体たちは、メイの声に完全に手玉に取られている。
「な、なにが破局だ!! 【破滅】はここにある! 我々の計画は今宵果たされるのだ!」
上位個体は荒い語気で気炎を上げてみせるが、メイの前ではハリボテの虚勢にしか聞こえない。無尽蔵に湧き上がっていた不遜極まりない態度がすっかり翳って見える。
然もあろう。相羽はメイの術に落ちたのだ。
メイは燎祐の口を通して喋っていたのではない。
燎祐の発声器官をスピーカーにして、術に嵌める打音を、しっかりと相羽に聴かせていたのである。
この打音をフィンガースナップや舌打ちで代用しなかったのは、不自然さを相羽に気取られないためだ。
それというのは、人間はインプットされた情報を記憶から割り出して理解しようとするからである。
例えば音だけが届く状況下において、耳慣れた音であった場合、それの発生源に検討がつく。
しかし、聞き慣れない音や検討がつかない音であった場合、人間はそれが何かを知ろうとしてその音を注意深く聞こうとする。頭の中で反芻して見当を付けようとする。そして、また同じ音がすればもっと傾注する。
これは靴音の時も同じだ。
人は、自然のうちに周囲の靴音を聞き分け、それが誰なのか検討をつけている。分からなかったときはさらに聞く。
一見なんの意味もなさそうな振る舞いの一つ一つは、メイが相手を嵌めるための手順。
だからメイはあえて聞かせるのだ。音を、癖のある言葉を。
「重ね重ねでアレなんだけどぉ、ほんっとご愁傷様でしたぁ! またお姉さんと愉しく追いかけっこできる日がくるといいねーぇ!」
もっとも、その手段や手法は状況における最適の解ではなく、むしろ迂遠であることが多く、彼女自身はそれを愉しんでいるようでさえあり――メイと名乗る本名不明の不気味な人物の行動原理は、解明の余地がなさそうに思われた。
「あれーぇ、もしかしてぇ、まだ挽回できるとか思っちゃってたりしますぅー?」
艶っぽい声でクスクスと嗤うメイに火を付けられて、燎祐の背を踏んでいる個体は、脚におもいきり体重を載せた。枯れ木が軋むような音がするも、今度はなんの興奮も覚えなかった。むしろ苛立たしさに顔を歪め、野生の獣みたく低く唸った。
「ほざけっ! 貴様がなにを言おうが【破滅】はここにあるのだ! この事実は曲がらぬ!」
言いながら、地団駄の如く燎祐の背をドシンドシンと足で踏みならし、鼻息を荒くした。
呼応した一体が同じく、燎祐を通じ語りかけてくるメイに向かって口を開く。
「貴様の【破滅】は、幻影の真朱に捧げる供物! そして我々は、この夜、到達限界境界線を越え、栄光が待つ過去へ発つ! 我々の新世界はすぐそこまできている!」
その一声は、メイの呪縛に抵抗する力となって廊下全体に響き渡った。
「「「そうだ、そうであった……! 我々の世界は、もう目前よ! 仇敵になど構っている場合ではない! いまは前に進むとき!」」」
「あはっ! 無駄だと思うけど超頑張ってねっ! それじゃーお姉さん、そろそろおいとまー! ほいじゃーあとよろー!」
「「「さっさと消え失せろ雌狐めがぁッ!」」」
怒気で我に返った他の三体の上位個体は、メイの声が消えるのと同時、燎祐が床に突き刺した【破滅】に向かって競うように手を伸ばした。
一瞬遅れて、燎祐を踏んでいた個体も手を伸ばした。
誰が手にしても同じことなのに、そうと分かっていながらも動かずにはいられなかったのだ。
ゴツゴツした四つの手が【破滅】を巡って宙を泳ぐ。さながら旗の奪取を競うビーチ・フラッグスである。
そして四つの指先が杖の柄に触れた瞬間――――四つの強面な顔は、ふやけたようにニヤついていた――【破滅】は、まったく別の方向から超高速で迫ってきた第五の手に掠め取られた。
「「な」」
「「に」」
一同の前に颶風の如く踊った孤影は、突撃の勢いを少しも緩めず、相羽たちの懐へ一気に飛び込むと、奪取した【破滅】でもって、世界を真一文字に切り裂かんばかりの強烈な一閃を放った。
刹那、視界がたわむほどの風圧が廊下を突き抜け、射線上に点在するガラスと蛍光灯が粉々に砕けた。
まともに攻撃を食らった上位個体たちは、例外なく体を上下に両断されて転がっていたが、どいつもこいつも普通に息があった。タフさも上位らしい。
それをやってのけた人物は、燎祐の傍に降り立ち、【破滅】をポンと肩に担いだ。
廊下の空気の中に、長い緑の黒髪がさあっと棚引いた。
一瞬の静寂のあと、振り返ったその人物は、燎祐に優しく笑いかけた。
全身包帯の上に衣類を纏っているような出で立ちで。
顔の左半分までもが包帯で覆われている有様で。
一体どれだけの無理を押してきたのか、白いはずの包帯はところどころが赤く、まだら模様になっている。
それでも、その少女は、優しそうな笑みとともに、燎祐に手を差し伸べるのだった。
「ダーリンお待たせ。いま戻ったよ」