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俺は魔法が使えない!!  作者: カリン・トウ
第二章 The Speckled Beryl / Get over it
105/111

第二章57 宵闇にだかれて⑤

 別の地平にはスライムと呼ばれる危険な生物がいる。

 見た目はゼリー状で色彩は個体によって違う。

 カタチは不定形で、液体と見紛うそのボディは、見た目通り、軟体動物よりも軟らかい。

 が、その軟らかそうな見た目と打って変わって、スライムは貪欲だ。

 スライムには、およそ知能と呼べるものはなく、『喰らう』本能しかない。

 そして、透明なその体内で、速やかに、捕食対象を分解してあらゆるものを抽出して、自身に取り込むのである。

 スライムのその本能にリミットはない。食欲にも限界はない。

 スライムはただ喰らい続ける。その行為に際限はない。

 とある世界では、大陸一つを丸呑みにした伝説すらある。

 まさしく、白痴の怪物だ。


 その怪物に成り果てた存在が、カリスでは【洗礼者】と呼ばれる存在が、燎祐の目の前にいる。


「ポゴ……ポゴオオオ……オオオ!!!」


 怪物の発するそれは、もう感情を叫ぶ声ではない。

 原初生物のように、ただ外的な刺激に反応しているだけの、空しい神経反射だった。

 そして、その怪物は、己の欲望のためのみに活動する。

 怪物は、燎祐を標的に選んだ。


「…………ゴポォ……ポォ……」


「なんだ!?」


 怪物の形が、だんだんと、燎祐の背格好に似てくる。

 怪物は、この土地に残留する生徒たちの思念に反応し、燎祐に擬態したのだった。

 その姿は、全校生徒の前で、レナンと一戦を交えたときの、全身に包帯を巻き付けた格好の燎祐。

 手には、獅子の貌を模した籠手まであった。とはいえ、カラーリングはなされていない。あくまでカタチだけだ。

 それにしても、以前レナンに化けていた個体と比しても、この怪物は、燎祐を細部まで再現しつくしていた。姿だけなら瓜二つといってもいい。


「オ……ゴ……ポォ……」


 けれど声だけは違う。

 それが声なのかも怪しいが、少なくとも内蔵らしい内臓がないのだから、呼吸音ともまた違うのだろう。


「ポ……ポ……ゴォ」


「どうしちまったんだよ稲木出……! お前……、相羽になにをされたんだよ!?」


 燎祐の叫びが建物に反響した。

 しかし、その声も空しく、燎祐に化けた怪物は、駆け出す寸前の獣のように身をギリギリまで低くし、そして、地面を脚で弾いた。

 打ち出された弾丸のごとく疾駆する様は、まさしく、燎祐がレナン戦で見せたそれだった。

 一瞬で詰まる距離。

 怪物がこれでもかと引き絞った拳を打ち出し、燎祐の顔面を激しく殴りつけた。


「あ、があッ!!!」 


 快音と呻吟が響いた。

 燎祐の身体が玩具のようにすっ飛び、木に衝突したところで止まった。

 そして燎祐の身体がズルリと滑り落ちるのと同時、クッションになった木がメキメキと音を立てながら、後ろ向きにへし折れた。

 尋常ならざる一撃だった。

 しかし、燎祐はほぼ無傷だった。

 防御や受け身を取っていたたわけではない。

 ヨーコの補助魔法(エンハンス)が、ダメージを貫通させなかったのである。

 ただし、その分、補助魔法の効果時間を消費していた。

 何とはなしに、燎祐もそのことは察していた。

 けれど、


「ち、ちくしょう……。身体が、動いて、くれねえ……」


 体中を這い回る怖気が、野太い蛇のように全身にからみついて離れない。

 燎祐を包む怖気は、精神も身体の自由さえも蝕んでいたのである。それは、もはや呪縛と言って差し支えなかった。


 だが、これは誰かが施した邪悪な魔法でもなければ、攻撃魔法でもない。燎祐自身の問題である。

 ヨーコの補助魔法(エンハンス)も、レナンがあつらえた外套も、燎祐の精神を救ってはくれない。己から、救われたいと願わない限り、まゆりが残した指輪も、燎祐の心を支えてはくれない。

 燎祐自身が、自ら救われない限り、この呪いが解けることはない。

 しかし、今の燎祐は、這い回る怖気に心底震え上がっていて、誰の目から見ても、戦える状態ではなくなっていた。

 

 だからなんだ、とでも言うように怪物は戦いを止めない。

 止めてくれない。

 止めはしないのだ。

 怪物だからゆえに。

 心を持たないからがゆえに。

 だから怪物は、怪物なのである。

 よって、一切の手心もなければ微塵の容赦もない。


「ポ……ゴオオオオオ……!!!」


 怪物が、燎祐に向かって風のように駆ける。

 そして、縦横無尽に拳を、脚を叩き込む。

 人間を打っているとは思えない酷い音が連続する。

 化物の豪腕が、研ぎ澄まされた鋼の如く、鋭くしなった。

 直後、乱打に埋もれていた燎祐の身体が、矢のように吹っ飛び、次々に木々をなぎ倒して飛んでいく。

 その姿に、怪物が一瞬で追いつき、さらに、さらに猛攻を繰り広げる。

 そして空宙を、地面を転がり続ける燎祐を、どこまでも追いかけ、執拗に攻撃を加え続けた。

 その様は、さながら不壊のサンドバッグを襲い続ける猛獣だった。


 燎祐の外套のポケットの中で、パキッと小さな音が連続した。

 止まらぬ怪物の猛攻によって、ヨーコから手渡されていた魔力のストックが消費されてしまったのだ。

 相羽戦まで温存しておくつもりだった燎祐には、大きな誤算であった。

 なおかつ、この場に縫い止められてしまっている始末。

 このままでは相羽を取り逃がしてしまう。挽回するなら一秒だった惜しい。

 が、未だ燎祐の心は、怖気に震え上がったままだ。

 それは目の前の怪物に対してではない。幻想のヒトリアルキにだった。

 燎祐の心が酷く動じているのは、目の前の怪物の影から浮き上がったそれが、未だに、眼の中に見えてしまっているからだった。

 燎祐は、いますぐ自分の目に手を突っ込んで、眼の中にチラつくコイツを消し去りたいとさえ思った。

 

 と、その時だった。

 馬乗りになって拳をぶん回していた怪物の攻撃が、突然、横に逸れ、燎祐の顔の真横の地面を深く抉った。

 怪物は、どういうわけか攻撃を止めた。そして、顔だけがぐるりと百八十度まわって、真後ろを向いた。

 燎祐は肘をついて、上半身を僅かに起こし、怪物と同じ方向を見た。

 一瞬、燎祐は息を呑んだ。

 木々の間から、影絵のように何かが浮き上がったからだった。


「クククク……、【洗礼】を与えてはやったはいいが、稲木出め、器ではなかったか」


「……あ、相羽ッ――――」


「――それよりもだ。さっきのは確かにイルルミの魔力だったはず。しかし、どうして貴様なのだ」


 相羽は不思議そうな顔を浮かべながら、怪物に馬乗りにされたままの燎祐に近づいていく。

 怪物の顔は、ヒマワリのように相羽の姿を追って、その顔が、およそ正面を向いた。

 相羽の顔が、真上から燎祐を見下ろしていた。その顔は能面のようなツラだった。

 およそ表情というものが読み取れない。

 なにより不気味だったのは眼。見下ろす眼には瞳がなく、眼窩に黒いボールでもはめ込んだかのように、眼球そのものが真っ黒だった。

 相羽は腕を組んだ(・・・・・)


「ククク、 そうかなるほど、貴様陽動に使われたな? イルルミを信じたばかりに哀れなヤツよ」


「……」


「体よく八和六合(シオノクニ)の外套なぞ渡されて、イルルミに切り捨てられたとも分からずに、この場に混じらされ、あまつさえ【洗礼者】の相手をさせられるなどとは、実に滑稽だなあ貴様」


「んなこたあどうでもいい!! お前っ、稲木出になにをした?!」


「言っただろう、【洗礼】を与えたと。稲木出が自ら望んだことだ。私はヤツの願いを叶えてやったに過ぎない」


「利用したの間違いだろ!」


「どちらも同じことだ。だが案ずるな、私の【洗礼】によって昇階を迎えた稲木出は、もはや以前の稲木出ではない。我が御業(ミワザ)を以て完全な認知を享受し、可視の透明人間ではなくなったのだ。稲木出の望みはここに成就し、己一人では届かぬ夢がようやく結実したのだ。もっとも、それを確認するための人間性は既に失われてしまっているようだがな、クククク」


「それを分かっていて、お前は……!」


「人間はな、己の欲望のためならば進んで自らを差し出すのだ。たとえその先に破滅が待っていようとも、な」


「誰が進んで破滅なんかするかよ!! お前が欺しただけだろうが! それを、さも助けたかのようにのたまいやがって!! この悪魔め!!」


「何とでも言うがいい。私は貴様の戯れ言に興味などない。それよりもイルルミだ。イルルミはどこに居る」


「……そんなに知りたきゃ吐かせてみやがれ」


「ククク。貴様は気づいてないだろうが、さっきっから声が上ずっているぞ。だが、その気概だ。吐けと言われて吐くタマでもあるまい」


「よく分かってんじゃねーか」


「で、あればだ、イルルミのことは、胴体と泣き別れたあとの貴様の首に、ゆっくりと聞くとしよう。案ずることはないぞ、忌々しい学校結界ならば既に消失している。東烽(ここ)にはもう死が当たり前に存在するのだ。そして貴様は、東烽高校の死者第一号になるのだ、嬉しかろう」


 相羽の真っ黒な眼が、光を反射してギラッとした。

 化物が、打ち付けていた拳を地面から引き抜き、手形(しゅけい)を抜き手に変え、限界まで振りかぶった。

 相羽が命令を下した。


「殺せ」


 化物の抜き手が燎祐の喉元を目がけ、宙を疾った。

 耳慣れない音が辺りに反響したのは、その直後のことだった。



****



「――いいかい。(ジン)の初歩はだね、堅忍と不抜さ」

 

 ポニーテールに結われた緑の黒髪が、陽光を眩しく反射している。

 どことなく嬉しそうに揺れるその髪が、少女の心境を表す尻尾のようだ。

 少女は教鞭を執った先生のように、うんうんと頷きながら、立てた右腕の人差し指を揺らす。その腕には、まだ取れて間もない包帯の跡が薄らと走っている。

 少女は、ふふん、鼻を鳴らして燎祐に振り向いた。


「堅忍とは、なにがあっても耐え抜く強さ。不抜とは、なにがあっても動じない心。つまりは、揺るぎない意志こそが(ジン)の基礎なんだ」


 ほう、と相づちを一つ打つ燎祐。満足そうに鼻を高くする少女。

 それは、レナンから初めて(ジン)の手解きを受けた日の記憶だった。


「ダーリンの我慢強さは並々ならぬものがあると私も認めるが、しかしどうにも精神が動じやすい嫌いがある。これは感受性が高い、と言い換えればいいのだろうか……? うーん……、まあそこは私も未熟な部分があるが、ダーリンの場合、その、打てば響くというか、響きすぎるというかだな、だいぶ心が揺さぶられすぎているように見えるんだ。そこが良くもあり、悪くもあるんだが……」


「それって善いのか悪いのか結局どっちなんだよ。ていうか、俺そんなに動じないぞ?」


 燎祐は、胸の前で手を振るように仰いで否定する。

 するとレナン、そうか、と思案気に言葉を呑み込むや、燎祐の真正面にてくてくと歩いて行く。

 頬で風を切り、まばたきする燎祐の目の前に迫り、そしてレナンは、ずいっと思い切り顔を近づけて、真顔で言い放った。


「――私はダーリンが好きだ!」

 

 唐突の直接爆撃である。

 燎祐はぎょっとして、首を仰け反らせて、思い切りたじろいだ。


「おまっ! いきなりなに言って――」


「――ほぉら動じた。お分かり頂けたかなダーリン?」


 レナンは、ふふふん、と勝ち誇ったようにつやのある笑いを浮かべ、燎祐の鼻先をツンとつつく。

 小突かれた燎祐は、その場にストンと落ちて、ドシンと尻餅をついた。


「……あ、あんなの急に言われたら誰だって動じるだろっ」


 燎祐は、歯切れ悪く吐き捨て、それを誤魔化すように、いてて、と尻をさすりながら立ち上がった。

 レナンはゆったりと腕を組んで、燎祐ににっこりと笑う。その笑みには、ほんの少し照れが混じっているように見えた。


「流石に今のは少し私も恥ずかしかったな」


 そう言ってレナンは、右手を右の頬にあて燎祐から視線を外す。

 ちょっと下を向いている加減が、なんとも恥じらう乙女らしく可憐に映り、燎祐はぎょっとした。


「お、おい!?」


「というのをこんな仕草で演じれば――――ふふ、予想以上の反応で嬉しいよ。可愛いなダーリン」


「っな!! おまえなぁっ!?」


「あはは、ダーリンは私が考えていたよりもずっと『不抜』が苦手かも知れないね。これは色々と世話が焼けそうだ」


 レナンは嬉しさを隠しきれない笑みを燎祐に向ける。その笑みには、持ち前の凜とした色の中に、確かな乙女らしさが同居していた。燎祐は、ちぇ、と拗ねたような顔になった。


「では不抜の訓練をはじめよう。なに、そう身構えなくてもいい。やることは簡単さ、ただ目をつぶって、暗闇の中で『観察』するだけさ」


「観察って、なにを観るんだ?」


「状況と自分自身を、だよ。俯瞰と言い換えた方が分かりやすかったかな」


「一歩退いた目線みたいな感じか」


 燎祐の解釈をレナンは「大味にいえば」と肯定し、話の続きを加えた。


「ダーリンは一つのことに意識を引っ張られすぎる嫌いがあるからね、先ずは不抜を訓練して、それを解消できるかやってみよう。さあダーリン、ここに立って。そう、楽な姿勢でいい。それと、無理は絶対に禁物だ。出来なかったらそれでいい。では、訓練を開始するよ、いいね?」


 その言葉に、燎祐は気っ風よく良く返事をし、意気込みが腹の内側から脳天に向かって駆け上がった直後――

 吹き付けた突風で、否、レナンの振るった拳の風圧で、燎祐の髪型が一瞬でオールバックになった。

 一弾指後、空を打った拳の音がやっと鳴った。

 かっぴらいた燎祐の目玉が鼻先の方に、吸い寄せられるように視線を投げた。

 すると、たった数ミリの先に、レナンの左拳が冴え冴えと留まっていた。

 寸止めである。

 レナンは当てるつもりもない。

 だが燎祐の身体は反応していた。拳と共に放たれていた、身を貫くほどの殺気に。


「ダーリンは敏感だな、本当に」


 その言葉の直後、レナンの前髪が横から吹き付けた風に流れた。

 燎祐が無意識に繰り出していた回し蹴りの風圧であった。

 その脚先は、レナンの側頭の僅か数センチ先に留まっていた。

 燎祐は、こめかみに冷やっとした汗を浮かべ、ハットした様子で脚を戻す。

 レナンが拳を退いたのもそれと同時だった。

 燎祐は慌てて釈明する。


「す、すまん! つい!」


「構わないよ。(ジン)の訓練は自然体でいることが大事なんだ」


「え!? けど、それじゃあまた反撃するかもしれないぞ!? いいのかよ?!」


「ダーリン、それを観察するのさ。どんな時、どんな反応をして、どんなことをするのか――――」


 レナンはそう言って、燎祐の両目を左手で覆った。顔が火照っているのかと錯覚するような暖かさだった。

 そして撫でるように、ゆっくりとまぶたを閉じさせた。

 

「――――自分というものを、この訓練を通して知るといい」



****





 怪物の手刀が異様な音を立てて宙に止まった。

 その手は噴き出す大量の体液に塗れていた。

 それは燎祐の血ではなかった。

 その手は、燎祐の首を取ったのではなかった。

 化物の手刀は、怪物の手首は、燎祐の両手に握り潰されていたのである。

 喩えようもない凶悪な殺気を前に、燎祐は、恐怖を振り切って反応したのだ。

 

「ポ……ゴオオオオ!!!」


「誰が殺されるか馬鹿野郎っ!!」


 飛び散った怪物の黒い体液が燎祐の頬をたっぷりと濡らす。

 燎祐は、両腕にありったけの力を込めて、怪物の手を絞った。

 怪物の手が、内側から弾けるように黒い体液を撒き散らした。


「ほう。まだやる気が残っていたか。だが貴様にそれは倒せんぞ」


 相羽の言葉通り、燎祐の手の中で、潰れた怪物の手が、暴れる蛇の如く奇妙な脈動を繰り返し、復元をはじめていた。

 手を離すと同時、燎祐は全力で怪物を突き飛ばした。

 怪物は宙でくるりと身を翻し、三メートルほど後方にストンと綺麗に着地。

 その隙に、立ち上がった燎祐。相羽と怪物を二正面に迎える位置につける。


「突こうが斬ろうが叩こうが、そんなものは【洗礼者】には通用せん。さあどうする、殴る蹴るしかできない無能者よ、クククク」


「ポゴォォォ……」 

 

「っ!」


 相羽の言うとおり、怪物を()つ手立ては燎祐にはない、かに思えた。

 だが、度重なる燎祐の猛攻を受けた結果、稲木出は自我を失って怪物と化した。


 もしも怪物の力を取り込んで完全に我が物としているなら、人間性を喪失することはないはずである。

 言い換えれば、稲木出が怪物化してしまった時点で、燎祐の攻撃は無意味ではなかったわけだ

 つまり、稲木出に、【洗礼者】にダメージは通っていた。

 しかし、それが恐ろしく判りにくいのだ。

 なにせ身体を復元し、無尽蔵のスタミナで襲ってくるのだから。

 

 だが実際は体を復元するたびに、稲木出は、怪物は体力を消耗をしていた。

 けれど、それが分かりやすいカタチで表面化しない。

 ゆえに【洗礼者】には攻撃が通用しないと思い込み、無敵の怪物の幻想ができあがってしまう。

 燎祐も、いままさにそのドツボに嵌まりつつあった。


 とはいえ、燎祐にこの怪物を消滅させられるだけの能力が無いのは事実のこと。

 たとえ怪物を追い詰めることが出来たとしても、倒しきることはできない。

 ゆえに、燎祐はその手立てを考えなければならないのだったが、それに思い至れるほど冷静でもなかった。

 完全に場に呑まれていた。流されていた。


「クククク、せいぜい怖気(おぞけ)に震える無様な脚で逃げ回るがいい。まあ貴様がイルルミのことを吐くなら、慈悲をくれてやらんこともない。どうだ無能、吐いて楽になってみるのは」


「誰が!」


「ならば譲歩はこれまでだ! さあ今度こそ殺してしまえ! 価値があるのは、そいつの頭蓋の中身だけだ! 首から上だけ残っていればよい!! あとはどうなろうと構わん!」


 相羽が棒状のものを勢いよく宙に放った。

 高速でヒュンヒュンと回転するそれが、怪物の足下に、キン!、と金属質の音を鳴らし突き立った。

 武装型補助魔導機(アーマメントデバイス)Mk3マチェットだった。


「ポゴォォオ」


 怪物が、山刀の柄を逆手に握り、地面から先端を引き抜く。

 刃についた砂利が真下に流れ落ち、煙のように空気に溶けた。超振動する刀身が砂利を粉微塵にしていのである。

 あれに不用意に触れれば真っ二つでは済まない。

 燎祐の頬にピリピリとした緊張が走った。


「来るっ!!」


「ポゴゴオオオオ!!!」


 化物が得物を手に燎祐に目がけ駆けた。否、水平に飛んだ。

 そして一瞬のうちに燎祐に肉薄するや、その首に向かって刀身を滑らせる。

 空を裂く先端が一際高く風鳴る。

 燎祐は瞬間的に軌道を見切り、回避行動に移る――

 その途端、金縛りにあったみたいに、身体が芯から固まった。


「しまっ……!」


「ポゴオオオオオゴ!!」


 超振動する山刀の刃が空を裂き、首元に迫る。

 切り取られた一瞬の中で、燎祐は、顔が真っ赤になるほど、ありったけの力を全身に込めて、動かぬ身体を必死に動かそうとする。

 だが動かない。指一本とてピクリともしない。

 砕けそうなほど歯を噛みしめても、神経が麻痺してしまったように全身が硬直している。

 燎祐は、全身を震わすほどの雄叫びを上げ、理性のタガを外した。

 瞬間、燎祐の世界が後方に揺れ、その真上を、鋼の刀身が真一文字に走った。

 燎祐は皮一枚のところで攻撃を躱した。

 窮地を脱した燎祐は、その場から直ぐに距離を取る。


「ダメだ……、まだ頭の中にヒトリアルキ(あいつ)がいる……! 俺が何かをしようとすれば、必ず幻影のヒトリアルキ(あいつ)が邪魔をしてくる……!」


 首筋に、在るはずのない気配を感じる。

 手が足が震え、指先が固まり、体中に太い刺痛が走る。

 心臓がデタラメな脈を刻んで、胸が締め付けられるように痛み出す。

 息をするたび過呼吸に陥ったかのように、頭の中が痺れて、思考がどんどんと真っ白になっていく。

 理性が焦燥に押し潰されていく。


 そんな自分の状態を、燎祐は、気づくと俯瞰して観ていた。

 否、観察している自分が居ることを知った。

 そして燎祐は、そう自覚した自分を、観察していた。

 

 その凝縮された一瞬の中、引きちぎれんばかりに腕をたわめた怪物が、次の一撃を以て撃滅せんとばかりに一足飛びで燎祐に肉薄してきていた。

 相羽は邪悪な笑みをたたえた顔を仰け反らせ、これから観られるであろう結末を見下ろそうとしていた。

 怪物の肩から先が闇の中でかっ消える。たわめられていた力が爆発したのだ。その先端である拳は既に燎祐の顔面を捉えている。

 一秒後には命運は決するであろう。


 燎祐は、目の前を覆う拳を、ぼうっと見つめていた。


 ――ああ、そうか。これがレナンの言っていた



 『不抜』か



「ポゴオオオオオオ!!!」


 怪物が奇声が夜天に轟く。

 怪物の拳が、一瞬の中で更に加速し、射線上にあった木々が土を巻き上げて吹っ飛んだ。その一撃は、竜巻の如き獰猛さであった。

 直撃でなくとも十分すぎる破壊力である。掠っただけでも致命傷になりかねない。

 真に、紛れもなく、跡形もなく、殺すためだけに振るわれた攻撃であった。

 その結末は、実に単純である。

 燎祐が立っていた場所は、爆発でもあったかのように地面が抉り飛んでおり、人間としての影も形も残っていない。屍体はおろか形跡そのものが消失してしまった、とでも言うべきか。


 ゆえに、生死を(あらた)めるまでもない。

 それは、もしも燎祐がレナンに(ジン)の教えを請うていなければ、の話であるが。

 

――自然体でいいって、そういうことだったんだな


 殺したはずの、消え去ったはずの人間の声がした。

 怪物はその声を確かに聞いた。

 耳許で。

 状況が理解できない怪物は、その声はもう聞こえないはずだ!、とでも言いたげに、弾かれたように声の方向に振り向く。

 が、誰もいない。殴りつけるように反対を向くが、やはり誰の姿もない。

 怪物は途端に疑心暗鬼になって、興奮気味に、あちらこちらに顔を向けだした。

 傍からすれば錯乱したようにしか見えなかった。

 引き返す途中だった相羽はその異変に足を止め、落ち着きを失った様子でいる怪物の方へと、ゆっくりと顔を向けた。


「どうした。なにをそんなに慌てている。あれだけの攻撃で仕留め損ねたなど、あるわけがなかろうて」


「ゴ……ポゴゴゴ……ポォ……!」


「フン、やはり急造の【洗礼者】は理智が足らぬか。まあいい、好きにしていろ。私は他に用がある」


 そうは言ったが頭の片隅には違和感が残った。

 しかし、相羽はその違和感を無視することに決めた。

 なぜならば、もっとも危惧すべきは八和六合(シオノクニ)の御庭番イルルミ・レナンであって、眼前の些事ではないからだ。

 相羽にとっての優先事項は計画の遂行であり、その最大の障害はレナンと舟山を置いて外になく――

 格闘能力だけしか持ち合わせていない常陸燎祐が状況に介入してきたところで、魔法が使えない時点で役回りは限られている。

 つまり、燎祐がどれだけ大立ち回りを繰り広げたところで計画の障害たりえず、今ので打ち損じていても問題にならないわけである。

 相羽は、少なくともそう認識している。


「イルルミめ、どこに潜伏しているかは知らんが、必ずこの場から排除してくれるぞ。今度こそ邪魔はさせん」


 相羽は、対面の闇に幻視したレナンの姿に向かって低く唸り、その場に背を向けた。

 邪悪な意志を両肩に満載にし、遠くの闇を向いてのしのしと歩いて行く様は、妄執に囚われた鬼のようであった。

 一方の怪物は、相羽の姿が闇に溶けていく間も、顔の周りをブンブンと飛び回る害虫にキレた子どものように、ヒステリックに周囲に眼を光らせては、その姿を見つけられず、ドシンドシンと地団駄を踏んでいた。


――やっとお前と向き合えそうだ


 怪物はまた声を聞いた。

 今度は頭上から、声が降ってきたような気がした。

 バネが弾けたように、グンッ!、と顔が仰け反って真上を向くが、また誰もいない。


 だが、何かがいた(・・)のは確かだった。


 その証拠に、怪物の顔面に砂の粒子がパラパラと降りかかった。

 怪物は、燎祐が生きていることを確信した。

 直上を向いていた顔面を、全速力で真正面に引き戻した。


 ドォオォオオン!!


 途端、怪物の顔面が爆発物に吹っ飛ばされたかのように、大きく後方に仰け反った。


「ポ……ポギョ!?」


 仰け反りきる前に、また頭部で爆発が起きた。怪物の背中が逆Uの字に折れ曲がって、後頭部が地面を打った。

 怪物の脚は真っ直ぐに立ったまま、身体は、頭部が地面にめり込むほど後屈していた。

 海外のカトゥーン・アニメみたいに冗談染みた光景だった。

 一瞬でそれができあがった。

 怪物は、自分なにが起こったのか理解できなかった。

 しかし、誰がこれをやったのかは分かっていた。


「ポゴポォ!!」


「お前が俺を認識している以上、相羽を追うには、お前を倒さなきゃいけないんだろうな。けど、この外套のもつ(ジン)の出力で間に合うとも思えない。まいったな」


 どこからともなく出現した燎祐は、靴の履き心地を確かめるように、トントンと右足のつま先で地面を叩いた。

 そして次の瞬間には、もといた場所から消えていた。それは怪物も同じだった。

 だが、その意味合いは大きく違っていた。

 自分から動に転じた燎祐と、燎祐に蹴り飛ばされ動に転じさせられた怪物。

 その動の中で、今まで受けた何十倍もの攻撃を怪物の全身に叩き込む燎祐。

 恐ろしい数の殴打を受けた怪物が、投げ捨てた空き缶のように地べたを転がる。


「ポ……ゴォ……」


 ボロ雑巾になった怪物の横に降り立った燎祐は、そのガラ空きのボディを軽く蹴って、さらに五メートルばかり転がした。

 形勢という言葉すら生ぬるいほどの圧倒。

 だが、決め手がない。

 

「ポゴオォオオォオオ……!!」 


 ふらつきながら立ち上がる、包帯だらけの燎祐を模した怪物。

 変化したときと比べ、造形がだいぶ崩れている。ダメージが、回復と復元を上回っているのだ。

 途端、怪物の身体が、びくんびくんと大きく波打った。

 次の瞬間、その顔面が、中心から左右にバグッと裂けた。

 顔の中心に大きく平らな口ができあがった。

 まるで食虫植物のハエトリグサだった。

 真横に開かれた口端から、夜の闇よりもなおドス黒い液体が、どろっと滴った。

 

 ジュ。

 

 地面から黒い煙があがった。

 ビックリするほどの悪臭がつんと燎祐の鼻腔をついた。

 けれど、燎祐は動じずにいた。


「この腐臭、ものを腐らせる体液か。それも瞬間的に。あれに触れるのは不味い」


 燎祐の読みは当たっていた。

 それは、触れれば死に至る泥と同じ成分だった。しかし、本体が弱っているためか、効力が数段下がっていた。

 とはいえ、危険なことに変わりはなく――

 もしこれを攻撃に転用されれば、燎祐に取れる行動は回避しかなくなる。

 だが怪物は当然そうする。なんでも武器にする。それが本能だからだ。


「ンギィィィ……」


 怪物は大きく開いた口の中に、めいっぱい黒い液体を溜め、そして首を振り回した。

 粘性を帯びた液体が、黒い糸を引きながら、辺り一面に飛び散った。

 火の海に水を撒いたかのように、そこら中から、ジュワーッ!、と黒い煙が上がった。

 燎祐は回避行動を取っていたが、飛び散った体液の幾つかが外套の裾を貫通していた。

 

「打撃ならともかく、こんな攻撃、障壁でもなきゃ防ぎきれるわけがないぜ。不味いな」


 燎祐は外套に出来た虫食い穴を見ながら言った。

 その言葉の通り、燎祐にはもう障壁がない。

 ヨーコの魔力結晶は、既に尽きていた。補助魔法も切れている。

 外套に蓄えられていたレナンの(ジン)も、纏火による消費で、いつ燃料切れを起こしてもおかしくない状況。


 残るは指輪の力だけ。

 だが指輪への願いは最後の切り札として、その時まで絶対に使わないと燎祐は決めていた。 

 これまでの戦闘で指輪がピクリとも反応しなかったのはその為だった。


「だが、後先考えていられる状況でもないか。もしあの液体に被弾しそうになったときは、迷わず使うしかない」


 燎祐はチラッと右手の指輪に視線を送り、頭の中で使用解禁の準備を始める。

 と、その時だった。

 何かに気づいた燎祐が、後方に大きく飛んだ。

 それと同時、ポォン、っと気の抜けるような音が連続して鳴り、その一拍後、怪物の足下で黄色い閃光が立て続けに爆ぜた。

 薄い白煙が立った向こうから、怪物の悲鳴と一緒に、巻き上げられた土が燎祐の耳許に降下してきた。


「なんだ今のは……。明らかに魔法じゃなかったぞ」


「グレネードの実体弾だ。半分はお前に当てるつもりで撃ったんだが、随分と勘が鋭いじゃないか、常陸燎祐」


 野太い中年の声だった。

 燎祐は、その声に聞き覚えはなかった。

 怪物の方から視線を外さないように、目端でそちらの様子を伺うと、闇と同化した集団が目に入った。

 燎祐を追いかけてきた黒服たちであった。

 それぞれが銃火器や長物を手にひっさげて、カチャカチャと金属質な音をあえて飾り鳴らしながら、燎祐の方に近づいていく。


黒服部隊(おれたち)を忘れちゃいないよなあ。この前の借り、キッチリ返してやるぜ」


「それ半分は俺じゃないんですけど」


「はっ、知ったことか! 黒服部隊(おれたち)の目的は、お前の確保で、化物へのお礼参りはそのついでよ!」


「だったら気をつけな。その化物からの返礼が来るぜ。直ぐに距離を取って障壁を張るこった!」


 言って直ぐに燎祐が後方へ思い切り跳び退った。

 一気に距離を離された黒服たちが、燎祐の方に向き直った瞬間、黒服の一人がバタリと、前のめりに倒れた。

 黒い粘性の液体が、グレネードが立てた白煙の向こうから飛んできたのである。

 倒れた隊員は、胸から上が腐り落ちて死んでいた。ほぼ即死の状態だった。


「なんだ、このネバネバした液体は……?」


 隊員の一人が、感触を確かめるように、付着した粘液を不思議そうになで上げた。

 すると粘液に触れた手首から先がボトリと腐り落ちて、地面の上でどろりと溶けた。

 隊員がそれが自分の手だと理解するのに数瞬掛かった。

 理解して、絶叫を上げた。

 が、その叫びは直ぐに止まった。

 否、終わった。

 手が腐り落ちた隊員の身体は、既に、内蔵という内蔵がドロドロに腐り出し、全身が汚物のような異臭を放っていたのである。

 原因は、飛び散った粘液が身体を完全に貫通せず、内側に留まってしまったことだった。なまじ強いボディーアーマーを身につけていたのが、この黒服隊員の悲劇であった。

 リーダー格の男は急に狼狽した。

 

「なんだ!? なにが起こっている!?」


 わけも分からぬうちに、二人死んだ。

 糞のような臭いに埋もれて、腐って死んだ。

 大の大人が動転するのも無理からぬことであった。


「おい、これはなんなんだ!? いったいなにをされたんだ?!」


「言ってる場合か! さっさと逃げろ! 仲間の屍体を増やしたいのか!」


 突き放すような燎祐の言葉に、リーダー格の男の頭には撤退の二文字が過った。

 意味不明な化物にむざむざと仲間を殺され、標的の燎祐からは「逃げろ」と諭され――

 攻撃の正体がまるで掴めていない以上、黒服の取り得る最善の行動は、やはり撤退しかなかった。

 撤退しかなかったが、ただでは引き下がらなかった。


「回収を急げ! 痕跡を残すな!」


 リーダー格の男が号令を飛ばす。四名の部下が走る。死んだ二人の仲間を回収するためにだ。

 部隊の掟といえばそうだろうし、人間らしいといえばそうなのだろう。だが、それが一番の仇であった。

 腐敗した仲間の身体は、それ自体が汚染源と成り果てていた。つまり、触れれば腐敗が伝染するのである。

 それと知らず屍体の回収に走った黒服たち。屍体に触れた途端、腐り落ちる両手、夜空に打ち上がる悲鳴。

 騒然とし、混乱の渦に叩き落とされた刹那、ハエトリグサのごとき怪物の頭部が四つ、豪っ!、白煙と切り裂き、両手をなくし泣き叫ぶ隊員の頭にがぶりと食らい付いた。

 四人同時にだ。


「こいつ、一匹だけじゃなかったのか!?」


「いいや一匹だ!」

 

 燎祐の言葉通り、白煙の晴れた向こうから顕れたのは、一匹の怪物だった。

 ただし、その頭部は、四つに枝分かれしていた。その一つ一つが、ギュンと首を伸ばし、隊員の頭を咥えているのである。

 もはや完璧なモンスターであった。


「イ……ギギギ……ィィ……」 


「う、うあ!! ああああああああああああ!!!」


 手のない腕を必死に振り回すも、二拍と待たないうちに、隊員たちの身体はピクリとも動かなくなった。

 怪物が大きな口を縦に開くと、そこにあった隊員らの頭は、白い骨だけになっていた。

 そして、大量の粘液を流し込まれた身体は一気に腐敗し、宙を滑って地面に転がり落ちるまでには、全身が白骨化していた。

 その屍体を見て、僅かに燎祐の眉が持ち上がった。記憶の片隅で、何かが疼いた気がしたのだ。


「俺は、いま、なにを思いだしかけていたんだ……」 


 この凄惨な場において、それは場違いな自問だった。

 けれど燎祐には、どうしても、この問いの答えが自分にとって必要に思えてならなかった。

 理由はもちろん分からない。勘である。

 だが、その答え探しは、いまは出来ない。この怪物が道を塞いでいる限り、こいつを倒さなければ、道は開けない。


「あいつらを回収し、撤退する! 俺に続け!」


「はい!!」


 最後まで残っていたリーダー格と、副官と思しき黒服が、骨となった仲間のもとへ走った。

 それが、二人の最後の姿であった。


「いくな馬鹿野郎!」


 その言葉が届くより先に、黒服の二人は死んでいた。

 大きく開いた四つの口が、二つの身体に食らい付いて、左右に引き千切っていたのである。


「……稲木出ぇぇぇ!!!」


 燎祐の中で、理性の綱がブチブチと音を立てる。

 身体の中に大きな力が撓んでいく。怒りである。

 引き換えに、『不抜』を保てなくなった。そして、外套に溜め込まれていた(ジン)も尽きた。

 燎祐を守るものは、指輪の外になにもない。


 だが、燎祐は、もう後先など考えていなかった。

 燎祐の駿足が唸ったのは、その直後のことである。




*****



 黒服の後を追っていた八間川と沢田は、東烽高校を前にして、ある異変に気づいた。


「おい沢田、学校結界切れてるよなこれ」


「ああ、切れてるな。どうなってんるんだ、張り替えの時期はまだ少し先だろう?」


 その筈だと言って、固有空間から取りだした専用ガジェットで重要予定を確認する八間川。

 どうだ、と問う沢田のアイコンタクトに、八間川は、間違いない、と返し、二人は夜の中に佇む東烽高校を睨んだ。

 その時だった。


「変だな」


「今度はどうした?」


「黒服に付けてたマーキングが消えたんだ。ありゃあ防衛省にゃ見破れない魔法の筈なんだが」


「気絶でもしてるんじゃねーか。さもなければ死んだか、だな」


「はは。どうせまた返り討ちにされたクチだろうな。しかし、これであの少年がここにいるので間違いない――」


 八間川が、一つの確信を言葉にしかけていると、校舎の向こう側から、男の悲鳴らしきものが聞こえた。


「今のはっ」


「分からん。だが、尋常ではなかった」


「行くか?」


「いいや、ここは応援を待とう。悲鳴が出た方角に、おかしな魔力反応が出ているし、学校結界が消失しているのも気になる。こんなの俺たち二人が出張ったところで、どうにかなる事態でもあるまい」


 八間川の判断に、沢田は「確かに」と頷いた。


「八間川、お前の言うとおりだ。俺たちの仕事は監視であって、戦闘じゃねえもんな。んで、この状況を安全に一望できる場所っつったら、やっぱり校舎の屋上…………ん?」


「どうした沢田」


「いま屋上に人影が見えた気がしたんだが……、いや、それよりも、あの赤いものは、なんだ……? 近づいてくるぞ?」


 沢田は、校舎の向こうの空を指さした。

 だが、八間川には特になにも見えなかった。

 実は沢田、常人と比べものにならないほど目がいいのである。

 ほどなくして、八間川の目にも、沢田の見つけたものが見えた。


「お、見えたぞ、あれだな……? おい、あれ魔力反応があるぞ。魔法だ、あれは。」


「なんて速さだ……、いったいどこからあんな魔法を飛ばしてきたんだ?!」


 二人の疑問が夜空に浮かび上がるのとは真逆に、夜空を飛翔してきたそれは、夜風を裂き、東烽高校のある一点に向かって、垂直に降下した。

 それは、紅蓮に煌めく紅い(おおとり)であった。



*****


 四つに分かたれた怪物の頭部が、燎祐に一斉に襲いかかる。

 伸縮自在の首が放つ攻撃は、まさしく怒濤。距離感などというセオリーがこれっぽっちも通用しない。

 だが、そんな攻撃を避けることなど、転移の鬼と八年間戦い続けた少年には通用しない。

 燎祐は、常人では見切れない間隙を縫い、一気に怪物に迫る。


 だが、攻撃できず離脱する。

 怪物の体表面が、黒い粘液に覆われているからである。


「ちぃっ! どこもヌメヌメしやがって! 殴っていい場所のひとつもないのかよ!」


 接近しては、攻撃できずに離脱、これを数度繰り返しているが、攻撃できそうな場所が見当たらない。

 黒服を捕食して力を付けたからだろうか、怪物の口からだけでなく、体中から粘液が出始めていた。打撃しか打つ手のない燎祐が、怪物と接触不能になるのも時間の問題である。


「どうすりゃいいんだ!」


 指輪の力を使おうと思ってはいた。

 しかし、燎祐は、魔法のことを知らなさすぎたために、どんな魔法を使えば良いのか、まったく分からないでいた。

 どれだけの魔力残量があるか分からない以上、この怪物に有効な魔法を探るなんて手段はとれない。使うなら一発勝負。


「この指輪で【ランタナ・ブリット】が使えればいいんだが……!」


 それは、まゆりが、対正体不明戦用に創った魔法。自動的に対象の弱点を割り出し、攻撃属性を決定する、自己完結型の攻撃。

 これならばいくら魔法の知識が無い燎祐でも、一撃必殺になりえる。

 だが、燎祐は感覚だけで、なんとなく分かっていた。

 あの魔法は、まゆりだから使えるのであって、代用品なんかでまかなえる次元のものではないと。

 よって、指輪の力をいまだ使えずにいた。


「このままじゃジリ貧になっちまうが……!」


 ただ攻撃を避けきるだけなら難しくもない。

 問題は粘液だ。攻撃のたびに四方八方に飛沫が飛び散る。

 既に燎祐の外套には、小さな穴が無数に空いている。辛うじて身体のどこにも付着してはないが、このまま粘液が出続ければ、いつまでも綺麗なままではいられないだろう。


「今は動きで掻き回すしかない!」


 燎祐が動く。釣られて怪物の顔が一斉に動く。面白いほど敏感に。


「イ……ギギ……」


 怪物は、振り回した顔の下で、首を幾重にももつれさせながも、燎祐を執拗に追う。

 ほどなく、首がツタのように絡み合い、四つの顔が横並んだ。怪物は派手に転倒して呻いた。


「ギギー!!!」


「これでちったあやりやすくなっ――」 


「ギィ」


 と、その時、耳の後ろで、怪物の声らしきものが聞こえた。

 燎祐が振り返ると、大きな口が、かぱあと開いていた。

 二匹に分裂していたのである。

 新たに出現した怪物の口端から、粘液が滴った。

 地面から蒸気の音と、黒煙が上がった。

 瞠目する燎祐。


「もう一匹……、いたのかよ」


「ギギィ」


 顔のない顔が、ニタァと笑ったような気がした。

 そして、怪物は、鳥類が獲物をついばむように、その口で燎祐に齧り付く。


「ギギギィ!!!」


「くそっ、こんなところでッ……!」


 燎祐が覚悟を決めた瞬間、視界の全てが、一瞬にして激しい炎に包まれた。

 炎の柱が空から降ってきた、そうとしか形容できない光景だった。

 それは炎の(おおとり)であった。

 舟山が、レナンを探すために放った、あの鳳凰だ。

 鳳凰は、燎祐の外套が発したレナンの(ジン)を感知し、山中を飛び立ち、いままさに、怪物の脳天に飛来したのである。

 この一撃で、怪物は一瞬で炭化した。そして炎の中でボロボロと崩れ去った。

 間一髪のところであった。


 していると、燃えさかっていた炎が収束して、もともとの鳳凰のような姿にまとまった。

 鳳凰が、ぴゅーっと宙空に舞い上がって、燎祐の頭上を旋回しだした。

 すると燎祐の周囲にだけ炎の雨が降ってきた。


「この炎、レナンの(ジン)と同じだ。外套に、炎の(ジン)が流れ込んでくる……!」


 燎祐が、確かめるようにぐっと手を握りしめると、その手首の辺りに鳳凰が降り立った。

 で、直後――


『イルルミさん?! 無事ですか!?』


 と、鳳凰が喋った。

 目とクチバシをカッと開いて。

 神々しかった姿が、一瞬でキモい生物に成り下がった。


「その声、舟山先生!? アンタ鬼のはずだろ!? なんで鳥類になってんだ!? 魔法か?!」


『え、どうして君が!? 鳳はイルルミさんのところへ飛んだはずでは?!』


「なるほどレナンか! それの事情は後で話す! いま結構やばい場面なんだ! 先生、できれば力を貸してくれ!」


『分かりました! 今すぐ有償プランをご用意します! 無料プランは声援のみです!』


「大概にしろよクソ教師!? はよこっちに転移しろや! こんな時に冗談やってる場合か!?」


『真面目な話、私はまだそちらに行くことは出来ませんが、君の大事なものならば送り込むことが出来ます。そのために私は東烽を離れていたのですから』


「それって……! もう使えるってことか!?」


『ええ。長らくお待たせしました――さあ、呼んで下さい、君の霊装の名を』


 いつとなくキリッとした舟山の声が夜を打った。

 むろん、それを発しているのは、目とクチバシをかっ開いたキモい鳥。鳳凰としての威厳を失った怪鳥である。

 燎祐は逡巡したあと、キモ・バードに向かって言った。


「転移させるなら呼ぶ必要なくね?」


『え、ちょ、せっかくキメたのに落とさないでくれます!? ていうか呼んで下さいよ!? なんかその方がカッコ良くないですか? ほら、絶叫しちゃいましょうよヒーローの必殺技みたいに!』


「いやだよ?!」


『そんなこと言わずに~! 一度だけ、一度だけでいいんで~! ね、ね? 一度だけやってみましょうよ~? ていうか、実は、それしないと転移してくれないんですよコイツ。くっそ気難しい霊装なんで』


「それ先に言えよ! ってか、やるしかねえのかよ!」


『ですです。つーわけで思いっきり叫んじゃって下さい! 今までお伝えしてこなかった貔貅(ヒキュウ)の使い方は、身につければ直ぐに分かるようになっていますんで!』


「言ってる意味はよく分からんけど、呼べばいんだろ、呼べば!! あーちくしょうー!!」


 そうこうしているうちに、怪物が立ち上がっていた。

 足下に転がっている三つの口から察するに、絡んでいた首の三本を引き千切ったらしい。相当な短気を起こしている。

 いつ飛びかかってくるとも分からない。

 すると、言うが早いか、怪物は身を低くし足を溜めた。

 ズドンと音がした瞬間、怪物は燎祐の目の前に出現していた。跳躍したのである。


「気の短いヤツめ!」


 燎祐は回避すると同時、拳を溜めながら距離を取った。

 攻撃を外し、着地する怪物。尋常でない慣性に引きずられて地面を抉りながら滑っていく。

 燎祐が霊装の名を叫び、怪物に向かって疾った。

 胸の前で(くがね)の光条が瞬いた。

 その光が帯状に解けて、燎祐の手に絡み、獅子の貌に収束する。

 怪物の慣性運動はまだ終わっていない。隙だらけである。


「初手から大技で行くぞ貔貅(ヒキュウ)!! またぶっ壊れんじゃないぞ!!」


 燎祐が拳を溜め、跳躍した。

 怪物が、燎祐の攻撃の気配を察知し、足のブレーキを目一杯効かせ全力で慣性に逆らう。


「!!!? イギギギギ!!!」


 それでも止まらない慣性に痺れを切らし、怪物は地面に両手両足を突っ込んだ。

 怪物の手足がはち切れんばかりに伸びる。

 ガクンと、大きく身体が前後した。滑走運動がとまった。

 瞬間、怪物は、迫り来る巨大なプレッシャーを本能的に察知し、地面に突っ込んだ両手両足をそのままに、あらぬスピードで顔を背に向けた。


「イギ!!」


 その時、怪物は、細切れにした刹那の中で、己に迫る死を直感した。

 そして、膨大な熱量を持った燎祐の拳を見た。


「ギ――――」


「いくぞ貔貅(ヒキュウ)!!」


 燎祐の拳が怪物を捉えた直後、紅蓮の閃光が辺り一帯を瞬く間に呑み込んだ――。


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