第二章55 宵闇にだかれて③
喫驚の瞬間から解き放たれて、燎祐と稲木出との間で炎の色が強く弾ける。
「今のはぁ驚かされたけどよぉおおお!! てめえ自身の魔力じゃあねえんだあああ!! そう何発も保つもんじゃああねえだろおおお!!」
稲木出は補助魔導機へ魔力を注ぎ、新たな氷の矢を継がんとする。魔法を連発で打ち込んで、精の防御を抜こうというのだ。
だが、そうはいっても魔法の形成は一瞬では完了しない。発生までに僅かな時間がある。
燎祐は、この隙を見逃しはしない。
「レナンの!! 炎の精の護りがあるならっ!!」
突進の勢いに前髪を煽られながら、燎祐が前に飛んだ。
一気に稲木出との距離が詰まる。
ヨーコの補助魔法が効いている今、燎祐の駿足は、普通の人間が、目で捉えられる範疇にない。稲木出の目に映るものも、もはやただの残像であって、燎祐の実像ではない。
直後、燎祐の身体が、稲木出の懐に矢の如く舞い込み、引き絞った左拳を最短距離で打ち込む。左腕の内にたわんでいた強烈な筋肉のバネの力が一気に伸展する。
「力を借りるぞ、レナン!!」
瞬間、炎の精が燎祐の拳を包んだ。
ピンポイントで纏火したのである。
その拳が稲木出の腹を障壁ごとぶち抜いた。文字通り、燎祐の拳が、稲木出の腹部を貫通して。
だが、燎祐の拳に、肉を打つ手応えはなかった。
「加減をしらねえヤツだぜえええ!」
腹に穿たれた拳大の穴から白煙をあげる稲木出。
が、なんの調子の狂いもなく、腹に手を突き込まれたままの姿勢から、燎祐に反撃した。
燎祐は、その攻撃の軌道を見切った。
瞬時に無駄のない動きで躱し、突き込んだ腕を引き戻して稲木出の攻撃圏から離脱。
しかし、戦闘の駆け引きなどまるで知らない稲木では、そのまま燎祐を深く追う。
「おぉおおらああああああああああ!!!」
「ちっ! セオリーの通じないやつめ!」
燎祐に肉薄し、破れかぶれに腕をぶん回す稲木出。
その攻撃は、なんの洗練もされていない無駄だらけの動きで、完全な素人モーションのそれだった。格闘経験など微塵も含まれていない。この程度、格闘に秀でる燎祐にとって避けるのも、いなすのも難しくはない。
――あいつが魔法を撃ってこないってなら、こっちのもんだ!
しかし、次の瞬間、燎祐はその思考を改めた。改めざるを得なかった。
なんと、虚空を走る稲木出の腕が、突如、ブルブルと波打ったのだ。
燎祐は、なんだ?!、と虚を突かれた。
それは、振動していたのではなかった。腕が振り回す勢いに耐えきれず、あらぬカタチに変形しはじめていたのである。そもそも、肉体が既に人間のそれではない以上、肉も骨もあるかは不明だが、身体の内部構造が崩れだしているのは疑いようがなかった。そして、それが、振り回す勢いによって、先端へ先端へと移動していく。
しかし、稲木出は止まらない。
獲物に食らい付く蛇のごとく、音速を破る鞭の如く、稲木出の腕が鋭くしなった。
ヒュパァァン!!
と、人間の腕が鳴らしているとは思えない風切り音が、燎祐の頬を擦過した。
首を捻り、すんでの所で直撃を躱したが、燎祐の頬には、赤い蚯蚓腫れができあがっていた。
燎祐は、深追い続ける稲木出から距離をとるべく、フェイントをおり混ぜて、隙を見て一気に間を突き放した。
「とんでもねえこと考えやがる……!」
「逃がさねえぞおおお常陸ぃぃぃぃいいい!!」
稲木出の一対の腕が、ヌンチャクのように回転し、風を切って夜に吼える。
その腕は、二の腕辺りから千切れそうなほど細く伸び、先端たる指先や手は風船の如く膨らんでいた。
まるで脳のリミッターが吹っ切れて、人間性を失ってしまったようだ。
そうでなくとも、壊れてしまっているのだ、稲木出は。
倫理なるものをかなぐり捨てた、終わりに向かってのみ走る特攻兵器のように。
手段のためなら目的を選ばない、破滅願望を抱いた狂信者のように。
稲木出は、コワレている。
「てめえがドコに行こうがぁあああ!! どこまでも追いかけてってやるぜええええ!!! おめええがあああ死ぬまでなあああ!!」
さらに勢いを増す稲木出。
けれど、こんなことで尻尾を巻いて逃げる燎祐ではない。
対峙した以上、すべきことは一つ、戦う、それのみである。
「追ってくる必要はないぜ稲木出、俺は、ここから逃げるつもりはない」
「言うじゃあねえかあああ!! だったらよおおお!! こっちからあああ、いくぜええええええッ!!」
稲木出が下手くそなボクシングのステップを踏みながら、燎祐に接近する。
その様は、素人でも数回ほど練習すれば、それよりもマシな動きになるだろうというくらい、出来の悪いステップだった。
動きは、である。
速さは、素人のそれではない。
動きと速さがあべこなそれは、化物そのものだった。
稲木出は、もう人間ではなかった。
「うりゃああああああああ!!」
稲木出の腕が、宙を駆ける一対の黒蛇となって燎祐を襲った。
肺の底から絞り出された胸声が、まるで蛇の鳴き声のようであった。
「なんて軌道だっ!」
燎祐は、弾く必要のある攻撃のみを見極めて捌く。
もし適当に弾けば、さっきのように、まったく見えない角度から手刀が飛んでくるからだ。
むろん、それも避けようと思えば避けられるが、不規則すぎる軌道にいつまでも即応できようはずもない。いつかは隙を晒すことになる。
いくら肉弾戦が素人レベルといえど、尋常でないいまの稲木出であれば、そのタイミングを逸しても、強引に押し込んでくるに違いないのだ。
だからこそ、極力隙を晒すべきではないと、燎祐はそう考えたのだ。
「おらあああ! 逃げてるだけかああああ!!」
稲木出の大振りの攻撃が来る。
ブォォン!
瞬間的に身を落とした燎祐の頭上を、稲木出の両腕が、虚空を切断するレーザービームのように宙を横に薙いだ。
思い切り空を切る稲木出の両腕。ブン回しすぎた勢いで、両腕が自分自身を抱きしめるように、ぐるんぐるんと身体に絡みつく。
燎祐は、身動きを自ら封じた稲木出に、そのコメカミに、容赦なく蹴撃を叩き込んだ。
スパァァァン!!
エグイ音が空まで響いた。
燎祐のつま先が稲木出のコメカミを打ち抜いていた。
稲木出の顔が、三回転半まわって、反対を向いた。
「ヒュ!」
燎祐は、上下左右の乱打で一気呵成に畳みかける。
無防備な稲木出の身体に、燎祐の拳が脚が次々に命中していく。
風切り音と打撃音が重層的に鳴った。そのたびに稲木出の身体が跳ねた。
「極めッ!!」
纏火した燎祐の右拳が唸った。
狙うは一つ、後頭部を向けている稲木出の頭。
直後――バチィィン!
水っぽいインパクト音を響かせながら、稲木出の頭部が胴体と泣き別れて、バスケットボールのように地面を跳ねた。
「しまっ! やりすぎたっ!?」
燎祐が、その光景に目を奪われた瞬間、首の取れた稲木出の身体が、大振りの蹴りを繰り出してきた。
「な!?」
咄嗟に膝を持ち上げブロックする。
ズン、と重たい衝撃が身体の芯にまで達した。
燎祐は、軽く、猪にでも突進されたような錯覚に襲われた。
素人とは思えない威力の蹴りだった。
「くっ! 頭がもげてもおかまいなしかよ……!」
別の意味でのタフさに、燎祐は驚愕の色を隠せなかった。
稲木出は、言ってしまえば隙だらけで、攻撃なんぞ当てようと思えばいくらでも当てられる。
現に、肉弾戦に限っては、燎祐に軍配が上がっている。
だが問題がある。
それは、燎祐の攻撃が、一見すると稲木出にまるで通じていないことだ。
少なくとも、表面的なダメージはまったく見受けられないし、それどころか手が取れようと首がもげようが活動を止めないし、痛がる素振りもない。おまけに、攻撃を受けている最中にだって平然と打ち返してくる。
さながら無敵のモンスターだ。
物理攻撃しかできない燎祐にとって、これほど相性の悪い手合いはない。
――どうしたらコイツにダメージを与えられる!? どうすれば!?
燎祐は、ここにきて、はじめて焦りを感じた。そして稲木出を脅威と感じた。
攻撃が通じない相手、手も足も出ない相手、己の身ひとつでは決して敵わない相手――
瞬間、背に怖気が走った。
ふいに燎祐の肩に、封鎖区画で覚えたあの日の悪夢がそっと手を回してきた。
その怖気に誘われて、地面に転がる稲木出の首の千切れ目からは、ガス状の紫がかった黒いものが漏れ出している。
そのガスが見せる幻なのだろうか。燎祐の目には、稲木出の足下にできあがっていた黒い影が、ひとりでに移動したように見えていた。
燎祐の両眼が、不自然にかっ開いた。
「な、なんで、アレが……ここに……」
それは、かつて封鎖区画で己を死の寸前まで追いやった禍刺――『ヒトリアルキ』。
もちろん幻影である。
だが燎祐の目に、禍刺が確かに見えていた。
そして燎祐は、そこにあるはずのない黒い影を凝視していた。
「どう、なってんだ……」
脳裏を鮮明に過る、串刺しの記憶。
強い怖気が、足先から頭の天辺まで電流のように走った。
体中の神経が、恐怖に侵食され、凍りはじめている。
呼吸が、動悸が、意図せず速くなる。
「くそ……、こんな時に、なんで……っ! なんでだよ……!!」
塞がっていた心の傷が、ばくっと裂けた気がした。
疲れ切った子どものように、体中の筋肉が、内側から萎えていく。全身の力が抜けていく。
歯を食いしばって堪えていなければ、気をしっかりと保たなければ、その場にへたり込んでしまいそうだった。
燎祐の心の奥底に刻みつけられた傷は、それほど深く、大きかった。
「……ビビってる場合じゃないだろ」
その言葉とは裏腹に、燎祐の顔は青い。
と、その時、地面に転がる稲木出の頭が――――
「どうしたああああ常陸ぃぃぃぃ、もももも、おおお、おしおしおし、ままままままま、いいいいい、かかかかかか……アアアア……アア――オ、オオオ……アア」
バグった。
稲木出の頭が、突然、制御を失ったラジコンのように、滅茶苦茶に転がりはじめた。
「?!」
「アア……アアア、アア……アア――――オオオオ……オアアア……ア」
嘔吐きにも似たなにかを垂れ流しながら、地面の上をゴリゴリと動き回る稲木出の頭部。
一方で、身体は、辺りをひとりでに、ぎこちなく動き回っていた。ロボットダンスにも見える動きだった。
そのうちに脚に頭がぶつかったが、手の時みたいに、身体を駆け上ってこなかった。
身体が、グリグリと動き回る頭をなんとか掴まえる。
頭部は、相変わらずわけの分からない言葉を発したまま、釣られたばかりの魚のように、手の中で暴れている。
どうやったって、もとの位置にはかえりそうにない。
「ヒ……ヒヒタタタ……チィィィチチチィイイ……ヒ……ヒヒヒヒ……タ、タタタア、チチチチィィィ」
「稲木出、お前……まさか、あの日からずっと取り憑かれて、いるのか、アレに……」
燎祐の目がこれでもかと開いて、無意識に一歩後ずさった。
未だ乗り越えられない絶望
何も出来ない恐怖
無力な自分
己に課せられた運命の三重苦が、いま再び、死という強烈なヴィジョンを伴って、燎祐の前に顕現する。
「アアア…………ア……シ……シシ……シシシシ……」
「…………や、やめろ……っ!」
燎祐の表情は、だんだんと血の気を失いつつあった。
戦々恐々といえばそうであった。
戦う覚悟をもっていたはずなのに、逃げたい、そう願う自分が、確かにいた。
隠れたい、そう想う自分が、確かにいた。投げ出したい、そうした自分が、ここにいた。
拭えぬトラウマの前に、その精神的負荷に、燎祐の心は、ひび割れはじめていた。
燎祐の心の傷は、自身が自覚している以上に深かった。
「く、くる……、な……」
「ヒヒヒヒヒ……タタタ――ヒタチィィィィィ!!」
後ずさる燎祐に、一歩、また一歩を近づいていく首の取れた稲木出。
と、その時。
バグっていた稲木出の声が、はっきりと、鮮明に叫んだ。
「俺はああああああ!! どんな手ぇええ使ってもよおおおお!! 俺はああああ!! 望みをおおお、ぜってええにいいいい、叶えてやるんだぜえええええ!! そのためだったらよおおお!! てめーの命なんざああああ、惜しくねえんだぜええええ!!」
「いな、きで……」
「お前はあああああ!! 違ったのかよおおおおおオオオオ!! オ……オオオ――オマ……エ、はアアアアアああア……ア!!! この、俺なんカニイイイイイ!! ブルってんじゃああねええぞおおおおおお!!」
叫んだ瞬間、稲木出の瞼が、痙攣したようにビクビクっと脈打った。
次の瞬間、稲木出の右目が、いっきに何倍もの大きさに膨れ上がった。
そして肥大化した右目は、薄い瞼を突き破って、外に飛び出した。
異様な光景だった。
その下で、ぴくぴくと引き攣っていた頬の肉が、ヘリウムを注いだ風船のようにぷくっと膨らんで、ゆっくりと上に持ち上がっていく。
まるで、空気を吸い込んだカエルのような顔だった。
だが、膨らんでいるのは顔だけではない。
首から下も、である。
手も足も、腹も背も、皮膚という皮膚がはちきれんばかりに、ぱんぱんに膨らんでいる。
それは、己の許容量を超えて生じた何かを、押さえきれずにいるかのようであった。
「ア……アアアア!!!」
声からもカタチからも『稲木出』というものが失われ、『別の何か』に成り代わっていく。
燎祐は、惨たらしいその転化から、目を離せずにいた。
やがて、破裂しそうなほど膨らんだ全身は、どこかに針で穴でも開けられたようにシューッと萎んでいった。
萎みきったとき、稲木出は、子どもが泥をこねて作ったような人型になっていた。
目立つような凹凸はない、なんとなく人の形をしているだけの、真っ黒い泥の塊であった。
よく見ると、体表面の上から下へ、とろっとした波を打っている。
泥が、頭頂部から、チョコレートファウンテンの如く噴水状にゆっくりと流れているのだ。
そして、流れ落ちる泥の中に浮かぶギョロッとした目が、さながらカメレオンの眼球のように、あべこに、ぐるりとまわって燎祐を見た。
「ゴゴ……ポゴォオオオ……オオオ……!」
のっぺりとした泥の顔が大きな口を開いて、吠え声を上げた。
戦いの緊張感を忘れさせるような、だらしのない声質だった。
雄叫びなのか威嚇なのかすらも判然としないが、その中に忍んでいる確かな敵意を、燎祐の耳は聞いていた。
「稲木出、なのか……」
燎祐は、呆然とした声を上げた。
恐れも戦きも、遠く過ぎ去ったような目であった。
その視線の先に、稲木出はもういない。
そこにいるのは、何かを叫び続ける、人間大に膨らんだ奇妙な黒い汚泥。
それは、かつてレナンと、仮称生徒Aが夜の学校で遭遇した、カリスの御業の一端。
屍体を食らい、血を啜り歩く、またの名を『亡骸を食らう泥』と言う、死の掃除屋――
カリスは、穢れや不浄を濯ぎ清めるものとして、これを【洗礼者】と呼んでいる。
もっとも、カリスの【洗礼者】とは【洗礼】によって自己を喪失したものに充てられる蔑称であるが。




