第二章54 宵闇にだかれて②
ヨーコと別れてほどなく、燎祐は、学校の校門に面する最後の直線を走っていた。
東烽高校到着までは、もうすぐである。
しかし、その道が、一向に終わらない。どれだけ脚を継いでも、学校の姿が見えてこない。
いまの燎祐の脚なら、その場所から学校の校門までは十秒と掛からないはずなのに。
だが、燎祐は、それを疑問に思うことが出来なかった。
気が急いていたからではない。
走ることしか頭になかったのだ。
だから、事態がおかしなことになっていても、走るのを止めなかったし、止められなかった。
理由は分からなかった。
ただ、走らなければと、心中はそれのみであった。
「ッ!!」
その時、右手の薬指に、チクリ、と痛みが走った。
刺すような痛みだった。
けれど、燎祐は止まらなかった。
また痛みが走る。
その痛みは、燎祐が足を継ぐたびに、大きくなった。
やがて、ガラスの割れるような音が、燎祐の頭の中に響いてきた。
右手の薬指が、千切れそうなほど熱を上げて痛み出した。
その痛みに、燎祐は、とうとう足を止めた。
「……また、やられたのか」
それは、まゆりが残した指輪が発した、覚醒を促す痛みだった。
燎祐が辺りを見回すと、世界は色を失ったように灰色だった。
周囲に動くものは何もなく、なのにゴミが宙に浮いていたり、風景が素人の描いた絵のようにのっぺりしていたり、見えている世界が、あまりに不出来な有様だった。
燎祐は、その世界の中を、胡乱げな顔付きで歩く。
しかし、なにも進まない。なにも動かない。世界が止まっている。頭の中の感覚では、確かに移動しているはずなのに、身体が動いていない。
意に反して身体が動いていないのではなく、意に沿って身体を動かした感覚だけがあって、現実が伴っていない。
つまり、頭だけが「動いている」と思い込んでいるのだ。首から下は、まったく動いてすらいない。
幻術だった。
レベルで言えば、並以下の、補助魔導機頼みの幻術だった。
「なんでだろうな……、覚えはないのに、この術に落ちたのは初めてって感じがしないぜ」
燎祐は、一度目を閉じて深呼吸をし、吐き出す呼吸と共に、ヨーコの言葉を思い出していた。
『以前のアンタは、瞬間記憶って言うのかな、どんなものも完璧に言い当てるくらい、記憶力が良かったの』
燎祐に、そうであった記憶はない。
むしろ、忘れっぽさが目立っていて、まゆりの機嫌を損ねていた記憶ばかりしかない。
――どこまでが、本当のことなんだろうな
まゆり程の魔法使いであれば、記憶を作り出すことも、書き換えることも自在だろう。
何せ、ヨーコに「そんな魔法はない」と言わしめる人体の完全復元をやってのけたのだから、想像する以上のことが出来たって、なにも不思議なことではない。
まゆりが、過去に、燎祐に何かをやったことは間違いない。
しかし、それが意図したものか、やむを得ずそうなったのか、燎祐には分からなかった。
「……もし本当に、俺が何でも記憶できたにしたって、意識がないところまでは覚えてるわけがないもんな」
背の上に、重く暗いものが伸し掛かったように、燎祐の肩が下がった。
本当のことを知りたいと思う気持ちと同じくらい、知りたくないという気持ちがあった。
けれど、自分に何かあったと知ってしまった以上、目を背けるわけにもいかない。見たくないものと向き合わなくてはいけない。
ジレンマといえばそうである。
「この件は、まゆりが帰ってくるまでお預けだ……」
燎祐は、すぅ、と息を吸い込む。
パチっと、意識の切り替わる音が、頭の中でする。
吐く息と一緒に、燎祐の思考は、幻術の方に向いた。
「だが、一つだけ預けていられんこともある。この幻術だ。やっぱり、いまの俺の記憶にはないが――でも、もし、この幻術を過去に経験しているなら……きっと思い出せるはずだっ!」
むろん、燎祐一人の力では叶わない。指輪の力があって、ようやく可能性があるという程度の話で、しかもそれは『幻術にかかった記憶』ありきが大前提だ。やってみる価値をゼロとまでは言わないにしても、思い出せる保証がないことに指輪の力を浪費するのは、無謀である。
それでもし、燎祐が何も思い出さなかったなら、これ以上ない無駄だ。しかも、守護という本来目的から大きく外れたこの願いが、指輪の力をどれだけ削ぐことになるかわからない。
リスクの方が圧倒的に勝っている。
少なくとも、なにも覚えていない燎祐には。
「あの子は、沢山お願いをするなと言っていたけれど、ここはわがままを通させて貰うぜっ」
燎祐は眉間に力を込め、強く念じた。
――あってくれよ俺の記憶! この幻術を思い出せ!!
ピリっとした痛みが右手に走った。
直後、指輪が発光し、燎祐の右手から頭に向かって強い電流が駆け上った。
目の前が爆ぜたように激しくスパークして、世界がせわしなく明滅を繰り返す。
意識が身体の外に投げ出されてしまいそうな衝撃だった。
あまりのショックに心臓も呼吸が止まりそうだった。
その瞬間に、燎祐は、瞼の裏に不思議なものを見ていた。
大小様々な光が点々と瞬いている、プラネタリウムのようなものだった。
その一つ一つが、いまの燎祐が忘れている記憶だった。
中でも強く光を放っているものがある。
燎祐がそこに意識を向けると、途端に、周囲が映画館風の景色に切り替わって、燎祐はその客席に座っていた。
ふと右隣を見ると、三席分あけたところに、誰かが座っている。
トレンチコートにハットという風体から、なんとなく歳のいった男を連想した。
顔は立てたコートの襟と、ハットの影に隠れて見えなかった。
その男は、燎祐のことを凝と見ているようであったし、まったく見ていないような気もした。
とにかく妙なプレッシャーを放っていた。
していると、幕が上がって、白いスクリーンが顔を出した。
開演のブザーが聞こえ、パッと灯りが落ちる。
スクリーンに光りが灯ったのは、次の瞬間だった。
それは、投影された記憶の光であった。
燎祐は呆然とした様子でそれを眺めていた――――
――――――
――――
――
それを見終わった時、燎祐は目の前の現実に立ち返っていた。
全ては一瞬のうちの出来事であった。
****
一瞬の涅槃から醒め、我に返った燎祐は、強い視線を持って、その注意を前方の空間に向けた。
「たしか、空間式の暗示による強烈な思い込みを誘発させる幻術、および催眠の複合型魔法、だったか」
「はははははああああ。そいつは忘れたんじゃなかったのかぁ、常陸ぃ」
声が聞こえた。男の声だ。
しかし姿はどこにもない。声だけがした。
その時、燎祐が立っている場所より数メートル先の空間が、風に吹かれた木の葉のように揺らめいた。
「まあ、お前がなにもかも思い出したところでよぉおお、全部今さらだぜえ!」
怒気を孕んだ稲木出の声ががなる。
瞬間、燎祐は攻撃を予感し、右手の指輪に願った。
――幻術よ、解けろっ!
指輪が燎祐の願いに反応し、すみれ色の光が灯った。
直後、すみれ色の光線が、指輪から全方位に向かって放たれる。
光線が走り抜けた幻の世界が、蒸気のように霧散する。
その薄靄を切り裂いて、拳を引き絞った何者かの影が、燎祐の真正面に踊る。
目の置き所からして、狙いは、間違いなく燎祐の眉間。
「――ッ!!」
燎祐は、瞬間的にグッと歯を食いしばり、突き込まれてきた拳に、頭突きを合わせた。
衝撃の瞬間、燎祐の目が、カッと開く。
鈍い衝音が燎祐の額の上で弾けた。
「ッらあ!!」
燎祐が額を振り抜く。
競り負けた稲木出が、後方に吹っ飛び、押し潰された拳を押さえながら蹈鞴を踏んだ。
燎祐は、レナンの時と同様、攻めすぎたかと思って、追い打ちを仕掛けるのを躊躇った。
が、その表情は一瞬にして強張る。
稲木出の拳が、ボトッと地面に転がったのを見たからだ。
だが、燎祐が驚いたのはそのことではなかった。
取れた稲木出の手が、足下で、ビチビチと、釣り上げた魚のように跳ね回っていたのだ。
その手が、意志を持ったように跳ね起きて、指を立てて地面を這い回って――それから稲木出の足をよじ登り、もとの位置に戻った。
むろん、ダメージでの変形も綺麗に戻っている。
もはや人間の所業ではなかった。
「お前、その身体……」
燎祐の視線の先で、稲木出は、くっついた手の指先を、わきわきと蠢かしてみせる。
「あっはははははあああ! これが【洗礼】の力かああああ!! はははははあああああ!!」
稲木出が、空に向かって両腕を広げ、これ以上ないほど愉快そうに笑う。
「相羽に何をされた、答えろ稲木出!」
偽りの世界がゆるく解けた先で、燎祐の声が建物に反響した。
そこは、東烽高校の体育館裏だった。
そこは、はじめて稲木出と激突したあの日と同じ場所で、同じ立ち位置で。
ここまでのことは、あの日の繰り返しだった。
燎祐が頭突きをして、稲木出がたたらを踏む処までは。
しかし、そこから先は、あの日と同じではない。
決定的に違っている。
稲木出の意図したこの演出にもし意味があるのなら、きっとそれは決別に由来するのだろう――
あの日との――永遠の別れを。
「知っているか常陸ぃ、どうして俺が忘れられちまうのかあああ、どうして忘れられなくなっちまったのかよおおお」
稲木出は、燎祐の言葉には答えず、月のない夜空を見上げながらケタケタと笑い続ける。
「俺はよおお、ある連中のおおおお、実験に使われたぁモルモットだったんだってよおおお!! 世界の記憶に干渉する実験のよおおお!!」
「!?」
燎祐は瞠目した。
稲木出の言葉は、相変わらず突拍子もない。
だが、『実験』という言葉が、燎祐の頭の中で、すみれ色の瞳と髪をした小さな女の子とリンクしてしまって、無視できなかった。
ついでに言えば、レナンがいま身を置いているのは、まさしく、実験施設と呼んで差し支えない既に放棄された場所。
偶然と片付けてしまうには、引っかかる。
考えすぎと言われても、関係性を疑ってしまう。
稲木出は、そんな燎祐の驚き顔をご馳走にして、饒舌に口を滑らせる。
「記憶干渉って禁忌をよおおお、魔法としてじゃあなくてよおおお、人間そのものに持たせようとしていたんだぜえええ!! つまりよおおお、禁忌と人間を混ぜたんだぜえええええ!! すげえこと考えるよなあああ!! もう分かんだろおおおお!? 禁忌を混ぜて作られたああああ、合成人間ってのが誰なのかよおおおおおお!!! あっっはああああああ!!」
空を見上げていた稲木出の身体が、ギュンと引き戻って、燎祐の方を向く。
「俺だよお常陸ぃ。実験の成果物になりそこなった、出来損ないの代謝物ってのはよぉ」
稲木出の目が、攻撃的な赤い光を帯びている。
放っている殺気といい、以前の稲木出とは、まるで別人だった。
「禁忌は催奇性が強すぎてよお、人間の形を保ったままでいられたのはぁ、俺だけだったんだよお。けどよぉ、それだけだったんだぜえぇ? 実験はよぉ、成功しなかったんだぜえ。できあがった成果っつーのはよお、誰にも記憶されねえだけだったんだあああ。それだけじゃあねええ。俺を拉致って実験に使った連中もよおお、それ自体をまるごと忘れやがってよおおおお、お笑いだろおぉ?」
稲木出は、左手で引っ掻くように右の目元をぐいっと押さえて、己の半生を自ら嗤った。
嗤って、そして哭いた。
「あの日からぁああ……! あの日から俺は誰にも記憶されないぃ!! だから世界に記録されないぃ!! 俺はぁ、もうこの世界に存在してねえんだよぉ!! 分かるか常陸ぃ!! そんな俺を見つけ続けてくれた人間が!!! たった一人の存在がぁぁ!! 突然いなくなっちまう絶望がよおおお!!!」
稲木出の目が、燎祐を、貫くほど強く見ている。
言葉の意味する相手が燎祐自身であることは、もう疑いようもない。
稲木出が燎祐に固執していたのも、逆恨みしていたのも、そのためだった。
けれど、燎祐には一つ分からないことがあった。
ヨーコは燎祐に言っていた。燎祐は記憶力が普通ではなかったと。
その言葉に縋って、ついさっき、指輪の力を使って過去を強引に思い出した。
燎祐が取り戻したこの記憶には、ここには居ない、もう一人の登場人物がいた。久瀬まゆりだ。
まゆりは、稲木出と会ったことがないと言っていた。
稲木出の記憶がないのだ。少なくとも、教室で相羽に連れてこられた日以降の記憶しか。
だが、燎祐は、封鎖区画で戦って以降、稲木出のことを忘れていなかった。
そして、誰にも記憶されないはずの稲木出を、忘れていた過去からも思い出すことができた――――つまり燎祐は、ヨーコが言っていた通り、確かに、なんでも簡単に記憶することができたのであろう。
もっとも、その記憶力がどうして損なわれていたのかは不明だが――――だからこそ、燎祐には分からなかった。
どうして、誰にも記憶されないはずの存在を、自分だけが稲木出を記憶し、思い出すことが出来るのか。
なぜ自分だけが忘れずにいられるのか。
その事実が、燎祐には分からない。
――何故
しかし、いまはそれを追求するだけの余裕は燎祐にはない。
知りたい真実を押しのけてでも、今は急がなくてはいけない理由がある。
さもなければ、相羽は目的を果たして逃げ去ってしまうだろう。
律儀に待っていてはくれまい。
これは戦いなのだから。
その戦いは、もう始まっているのだから。
腹をくくった燎祐は、稲木出の視線を上書きするほどの強い目つきで、一睨みする。
「お前の、絶望か――――」
燎祐は胸いっぱいに空気を吸い込み、
「知るかッ、そんなもん!!」
稲木出の絶望を、たった一言で片付けた。
「なっ!! 知るかってなんだあああ!! 俺は真面目にいいい――――」
「――こっちだってなあ、いきなり記憶を消されたり、書き換えられたり、あーーとにかくマジで意味わかんねーくらい記憶がトビまくってて、超絶困ってんだよ! 人間不信になる寸前だっつーの!! かと思えば、お前の絶望とやらの責任まで押っ被せられて!! よく分からん内に、こんな事件にまで発展しちまって!! 一体何なんだっつーんだよ!!」
吼えていたはずの稲木出が、逆に吼え返されて戸惑った。
さもあろう、同情的なコメントならまだしも、逆ギレはされない。
「おい常陸ぃいいいい! 俺の言ってる意味分かってんのかあ、あああん!! 全部はてめーが原因だろうがよおおお!! もっと他に言葉ぁああねえのかよおおおお!!」
「ないっ!! 断固として!! が、強いて言うならな、こまけーコトをいちいち気にしてんじゃねーってんだよ!! 一匹の野郎ならデンと構えとけってんだ!!」
「このクソッタレがああああ!! ちったあ人の話を真面目に聞けやあああ!!」
「うるせえ!! 変に覚えられるより、忘れて貰えて有り難えくれーに構えとけってんだ!! それにな、こちとら身内がいなくなったり倒れたり、色々ありすぎて、テメーのことに構ってる暇なんかないんだよ! つーかお前、誰にも覚えて貰えないとかいっておきながら、どーせ相羽とかは覚えてた感じじゃねーか! でけーホラ吹きやがってからに、この野郎ッ!」
「加護だの第二種魔法の一部は何故か防げんだよおおおお!! あと亜人にぁ効かねええええええ!」
「なんだよ抜け道あるんじゃねーか!! それにしちゃあ随分と中途半端だな!」
「だから失敗作なんだろうがよおおおおおお! わっかんねえヤツだなお前はあああああ!!」
燎祐のツッコミに我を忘れ発狂する稲木出だった。
が、コホン、と咳払いを一つ。
二人の間の空気がピタッと止まった。
稲木出は落ち着き払った様子で、燎祐の方に視線を戻した。
そして余裕のある笑みを浮かべ、こう口を開いた。
「まあ俺自身、出自を思い出したのは、つい最近になってだがなああぁぁ。俺も、記憶をいじられてたみたいでよぉおお、まったく覚えてなかったんだぜええ!」
くっくっく、と高笑いをする稲木出。なぜか妙に上から目線だった。
燎祐は真顔だった。
聞き流すには重たすぎる内容ではあったが、じゃあ何か気の利いたことを言ってやれるかといえば、特に何も思い浮かばず、ただ一言、そうか、としか言いようがなかった。
「どうだ常陸ぃ、俺の苦悩が、絶望が、痛みが分かったかあああああ?」
「まあ……。同意は……しかねるがな」
若干の呆れの混じった声で反応する燎祐。
その声が一端沈んで、燎祐の目が稲木出を真っ直ぐに見た。
「けど、お前の苦しみが何かは分かったと思う」
「なにぃぃ?」
「お前は、忘れられることよりも、覚えてくれた相手を失うことが一番苦しかったんだな。その苦しみに負け、人の道を外れ、外道に身をやつしてしまうほどに」
「知った風な口を利くじゃあねえかああああ常陸ぃぃいいい!」
「もう一度聞く。相羽に何をされた。どうしてお前は九人もいる、答えろ」
ヨーコの携帯に来た連絡は八件あった。
その、どれにも、この場所は該当していない。
つまり、燎祐の前にいるのは九人目の稲木出である。
燎祐のキッとした視線が差し向けられた先で、稲木出の闘気が、魔力が、身体の内で一気に膨れ上がった。
「さあてなぁぁぁああ!! そんなに知りたきゃああ、力尽くで吐かせてみなあああ!!」
「どの道お前には聞きたい話があったんだ、手間が省けて結構だぜ」
「一人じゃああ魔法ひとつ使えないお前がああああ、俺によおおお! 勝てるつもりかあああああ!」
稲木出の語気が赤く弾けた。
瞬間、燎祐に向かって、無数の氷の刃が飛んだ。
燎祐は咄嗟の動きでそれを躱す。
ヨーコの補助魔法の効果もあって、稲木出の攻撃魔法は、まったく避けられないスピードではなかった。
――だが、そのコンマ数秒後。
後方に飛び去ったかと思われた氷の刃が突然方向を変え、再び燎祐目がけ飛来した。
稲木出の口許がニッと吊り上がったのを見た燎祐は、その意味を本能的に察知して、瞬時にその場を飛び退いた。
一弾指の後、燎祐の横っ面を、一瞬、冷やっとした風が撫でた。氷の刃が虚空を貫いたのである。
その刃は、燎祐から幾らか離れた宙空にピタリと停止する。
そして、白く光る氷の先端が、方位磁石のN極の如く一斉に燎祐に向き、直後に虚空を発った。
「こいつっ、追尾してくるのかッ!?」
「くっくっく! 打ち落とさねえ限りよぉおお、どこまでも追いかけるぜそいつはよおおお!! 金ピカがないお前に、この魔法がどうにかできるかよおおお!!」
「ちっ!!」
稲木出の言うとおり、貔貅がないいま、魔法の輪郭に触れることが出来ない燎祐に、この魔法を捌く手立てはない。攻撃魔法だけが燎祐に一方的に触れることが出来るのである。
魔法とはそういうものだ。魔力をもたない生身の人間が、素手でどうこうできる代物ではない。燎祐にとって、魔法とは、斯くも理不尽なものなのである。
――くそっ! どうすりゃあいい!!
避けても避けても飛来する氷の刃。
飛んでくる氷の刃を避けること自体は、それほど難しくはない。
しかし、できるのはそれだけで、攻め手に繋がらない。
負けはしないが勝てもしない、これ以上ない時間稼ぎである。
と、その時、稲木出が叫んだ。
「常陸ぃぃぃぃこいつはオマケだぜえええ!!!」
稲木出の背後に、更に数を増した氷の刃が滞空していた。
同じ魔法を、数セット分追加したのである。
その数は、燎祐の全方位を囲ってあまりあるほどだ。
途端、稲木出に、凶の気配が、強く浮かび上がった。
「一本残らずとっときなああああ!!」
氷の刃が、海中を舞う魚群のように宙空を飛翔し、一瞬にして燎祐の周囲を取り囲む。
その動きが、停止ボタンを押したみたく、一斉に止まり、その先端が一斉に燎祐に向く。
氷の刃が放たれたのは、次の瞬間であった。
ヒュオオオオ!!
飛来する刃は、迫る一瞬の中で加速し、燎祐を穿たんとする。
その様は、氷の壁が迫ってくるかのようであった。
――もう指輪を使うしか!
燎祐が切り札を頭に思い描き、そして稲木出が仕留めたと思った刹那――
純白の外套を切り裂くと思われた、氷の白刃は――
ジュ!!
ジョワァアアアー……!
蒸発した。
外套に突き立つ寸前にだ。
どれもこれも先端から激しく気泡をぶち上げ、一本残らず、虚空に溶けて消えてしまった。
何が起こったのかと、稲木出と共に燎祐が硬直した目をしばたかせていると、純白の外套から、空気を焦がすほどの強烈な熱波が、周囲に向けて放出された。
稲木出は、覚えず顔を腕で覆った。
「な、なんだああああ、この熱はあああああ!?」
「これ炎の精か?! じゃあ、ヨーコが言ってた外套のコーティングって、レナンの?!」
二つの喫驚が交わった。
その時、二人の居る場所とは違うところで、別の喫驚が起きていることなど知る由もなかった。
****
その瞬間――一つ目の喫驚が、とある山中から起こった。
それはダラハの秘密の工房だった。
声を上げたのは舟山である。
「今のは!?」
舟山は、空に放っていた鳳凰のごとき赤い鳥が、上空を漂っていただけの鳥が、突然、最高速度で飛び立ったのを感じたのだ。
すなわち、鳥がレナンの魔力――炎の精を見つけたのを舟山も察知したのだ。
しかし、それだけである。
赤い鳥が向かった座標、それがどこなのかは分からなかった。
ゆえに、鳥がレナンの元に到着するまで、静観しているほかなかった。
「イルルミさん、常陸くん……私が戻るまで、どうか無事でいてください」
二つ目の喫驚は、国魔連の庁舎からだった。
尾藤の命令で、臨時の現場責任者となっている五六は、作戦本部の最奥のデスクに座し、稲木出が発生した八方の現場に指示を配っていたのであるが、ある瞬間に飛び込んできた信じがたいデータを目にし、いまは頭を抱えていた。
それは、ほんの数分前のことだった。
魔法台の観測データに、リアルタイム検索をかけていたレナンの魔力が、ほんの一瞬だけヒットしたのである。
五六は、その瞬間を、デスクのモニターで偶然目にし、席からガタッと立ち上がった。
本来ならば、それだけで万々歳だったのだが、しかし次の瞬間には、眉を潜めていた。
それは、本来であったら、発生自体を捉えられない場所だったのだ。
「なんで東烽高校から魔力が探知されてるの……。だってあそこには、外部を完全に遮断する学校結界があるはずでしょ? いったいこの街でなにが起こってるの……っ!?」
場所を変え、幾つもの驚きが同時に交錯した。
この新月の夜は、まだ始まったばかり。
****
黄金の風が、湾岸地区の電柱の上に颯爽と吹いた。
ヨーコが、最初のポイントに到着したのだ。
見下ろした現場には既に、派手に争った形跡がいくつもあった。
「これはまた随分とまあ……」
特に目立ったのは道路の傷で、巨人の鉈でも振り下ろしたように路面がぱっくりと割れている。
周辺には、それを避けようとしてガードレールに突っ込んだ車や、玉突き事故に見舞われた車が複数見受けられた。
しかし、車中は無人だった。
察するに、凶悪犯罪に巻き込まれて、車を置いて逃げたのであろうか。
それにしては、誰かしらいたって不思議じゃないのに、辺りの建物まで誰も居ない。人っ子一人だ。
この近辺、どうも普通の様子ではない。
そうした感じが、ひしひしと伝わってくるようであった。
「で、稲木出ってのはドコ行ったんだか。さっきのメールによると、私より先に現着したのがいるって話だけど」
誰かが応戦しているならば、どこかしらで反応がするものだが、周囲はしんと静まっている。
もう戦闘が終わってしまったかのような静寂である。
それの意味する決着が、どちらかなのかといえば、分かりきっている。
まだ携帯に連絡は来ていない。そして歓喜や安堵がないのだから、見いだせる答えは一つだ。
けれど、屍体はおろか、血の一滴すら見当たらないのは妙だった。
そのことから、ヨーコは、ある推測を立てて、そのおぞましさにゴクリと唾を呑んだ。
「まさか、ね……」
ヨーコは、電柱から飛び降りて、風の魔法でクッションを効かせ、ふわっと地面に降り立った。
それと同じタイミングで、遠くのほうから、大きな音が聞こえた。
事故の音だった。
加速した車が、何かに突っ込んだような衝撃音だった。
ヨーコは、風の如きはやさで、ささくれ立った路面を駆け抜けて、音源に向かった。
途中、電線の切れた傾いた電柱を幾つも見つけた。
そして、音源に近づくにつれ、街路樹が倒木となって、あちこちに覆い被さっていた。
中には、太い原木に伸し掛かられて脳天から潰れている車もあった。中に人が居れば無残なことになっているだろう。
そうではないことを願いながら、ヨーコは先を急ぐ。
ほどなく、視界前方に、ビルに突っ込んで炎上している車と、交差点の真ん中で、背中合わせになっている二人の男を捉えた。
ヨーコはいったん、近くのビルの屋上へ駆け上って、二人の様子を見下ろした。
男二人は、互いに周囲を警戒している感じだ。
「補助魔導機出してあたり、巻き込まれた一般人って感じじゃあないか」
とすると、国魔連から呼び出しを受けた誰某かと思った。
その予想は当たっていたらしく、男たちの補助魔導機に魔法の光が灯った。どうやら二人は戦闘のまっただ中だったらしい。
発動の兆候からして、一人は火炎系の、もう一人は風を使った斬撃系の魔法らしいことが、ヨーコには読み取れていた。
「稲木出ってやつの出方も見たいし、ここひとつ、お手並み拝見といこうかな」
謙遜癖のあるヨーコは、この練度の魔法士が二人もいれば自分は邪魔だなとしか思っていなかった。
なので、この時ヨーコは、少しだけ様子を見たら、ここは現着している処理係に任せて、自分は次の場所に向かった方がいい、という判断を下しかけていた。
しかし、その判断はすぐに訂正せざるを得なくなった。
男たちが吠え声を上げ、魔法を放った。
別々の方向に、である。
ヨーコは一瞬目を疑った。
そもそも、男が二人、背中合わせであった意味も、今になって、なんでだろうと思い始めていた。
最初は、稲木出を見失ったのだと思っていたが、どうも様子がおかしい。
なぜ、これだけの練度の男二人が背中合わせで、その場に釘付けにされているのか――
その答えは、数瞬後に勝手に訪れた。
ボォォン!!
ザシュッ!!
男たちの魔法が、交差点の向こう側に吸い込まれ、炸裂した。
ビルの谷間に衝撃音が反響し、周囲の空気がビリビリと振動した。
ヨーコの位置からは全てを見て取れなかったが、かなりの威力であった。
これだけの火力をもってすれば、いくら障壁で防御したところで、ひとたまりもない。
だが、魔法を放った男たちの顔は、信じられないものを見たように戦慄していた。
その時、男たちの視線の向こう側から、真っ黒い人影が、ぬっと現れた。
それぞれの方向から一体ずつ。否、二体、三体、四体と続いてくる。
「……ご、ろく……なな……、え……、八体いる!? 嘘でしょ!? なんで全員集合しちゃってんの!?」
ヨーコは驚きを隠せなかった。
その稲木出たちが、ナメクジが行進しているかのような、のろのろとした動きで、男たちに迫っていく。
歩いてだってその場から離脱できる速度だ。スリリングさの欠片もない。
けれど、男たちの顔には凶相が張り付いている。
その温度差が言い得ぬ緊張感となって、水飴のようにねっとりと、肌に纏わり付いてくるようだった。
「畜生っ、なんでこいつら魔法が効かないんだ!」
右側の男が、杖型の補助魔導機に風の魔法を溜める。
「バカ! 撃つなっ! や、止めろ!」
その制止も空しく、右側の男の補助魔導機が強く発光し、魔法の大暴風が発生した。
それはギガロ・ストライクと呼ばれる、強烈な風魔の一撃を叩き込む高位魔法だった。
対人制限を解除した補助魔導機で、かつ熟練者が使えば、凡人など一撃でミンチに変えてしまう恐ろしい魔法だ。
「くらぁえぇぇ!!!」
直後、ギガロ・ストライクが、道路を抉り飛ばしながら、片側の稲木出の群れを突っ切った。
四体の稲木出は、フードプロセッサーにかけられたゼリーの如く、液体と固体が混ざり合ったような中間的な物質に細分化されて、激しく宙を舞った。
風の一撃が食い破った後には、なぎ倒された街路樹と、ぺしゃんこになった車と、飛び散ったガラス片が散在していた。
そこに至って、ようやく道路がパックリと大口を開けている理由に結論が着いた。
数拍後、道路の上に黒い雨のようなものが降った。細切れになった稲木出だった。
「はは、やった! やったぞ! 今度こそ!」
歓喜の声が上がる。
だが、その歓喜は、瞬く間に寒気へと変わった。
男は凍り付いた。
言葉を失った。
降り注いだ稲木出の断片が、時間を巻き戻すように集合していく。
そして、腐敗した獲物にたかる害虫のように、その辺に転がっている『何か』にたかった。
ヨーコの位置からは見えなかったが、それは人間の屍体だった。
集まった稲木出の断片は、捕食と、そして集合と分裂を繰り返し、ほどなく八体の黒い人型となって立ち上がった。
四体、増えていた。
「あ……あぁ! なんでだよ! なんなんだよ!! なんでええ!!」
「落ち着け!」
「これが落ち着いていられるか! なにも効かないんだぞ! やってられるかよ、こんなものお!!」
「お、おい待て! 行くな! あぁ、くそ、畜生っ! 置いていくなっ!」
男たちは逃げ出した。
全力で。
その場から一目散に。
それが運の尽きだった。
稲木出の内の一体が、空に飛び上がって、ボンッ、と爆発した。
丁度、逃げ惑っている男たちの上空でだ。
男たちの肌に、黒い雨が落ちてきた。
「な、なんだこれ?!」
「知るか! 逃げるんだよお!」
構わずに走り続ける男たち。しかし、脚が止まる。
降ってきたのは、稲木出だった。
その一粒一粒が、意志を持ったように、男たちの肌を這い回り、鼻の穴から、耳の穴から、口の穴から、尻の穴から、それこそ穴という穴から、体内に侵入した。
「「ア”……ア”ア”ア”ア”……」」
男たちの身体が小刻みに震えだした。
首が、腕が、脚が、可動域を越えて、骨をへし折りながら、あらぬ方向にひとりでに動き出した。
「う”……ぎゃ”……あ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”……」
「た”す”け”て”く”れ”え”え”え”え”え”え”え”え”え”え”」
怪物が哭いているような声だった。
ほどなく、男たちの身体の内側から、バキバキっと、枯れ木の折れるような音がした。
直後、身体が逆くの字に折れ曲がっていた。
叫声を上げていた男たちの声が止んで、宙に垂れ下がった腕と首が、ビクビクビクっと波打った。
何度か波打ったあと、完全に静かになった。
男たちは、屍体のオブジェになった。
そのオブジェに向かって、稲木出たちが一斉に動いた。
飛びついた。
食いついた。
あっという間の出来事だった。
群がっていた稲木出たちが退いたあとには、男たちの姿は何一つ残っていなかった。
その代わりに、稲木出の数が増えていた。
「……やっぱり、そういうことだったわけ」
誰も居ないのではない、居なくなったのでもない、そこら辺にいた人間はみな、稲木出に食われていたのだ。
どうして周りに誰も居ないのか――ヨーコの予感は的中していた。
そして、稲木出は、捕食のたびに増えているらしかった。
いま眼下にいるのは、少なくとも十八体。
周りにいた人間を食い尽くしているのだとすれば、その数はどうなるものか。
ヨーコは、その全部を、たった一人で相手しなくてはいけない。
生ぬるい風が、ビルの上に吹いた。
ヨーコの頬に冷たい汗が一筋流れた。
「悪いリョウ、アンタの応援には行ってやれそうにないや」




