プロローグ 約束と誓い
「りょー、きてー!」
よく晴れた日曜の昼下がり、二階の部屋の掃除をしていると、外からまゆりの声が聞こえてきた。
窓から顔を出して「どうしたー?」と適当に返事をすると、まゆりは「はやくー」と元気いっぱいの催促をしてきた。声はどうやら庭の方からで、姿は見えなかった。それにしても一体どうしたのだろう。
俺は部屋の掃除を放り出し、トットッ、と階段を降りて縁側から庭へ出るも、急に降り注いだ陽の光に思わず目がくらんだ。
手を庇の代わりにして、薄目を開けながら辺りを見回すと、そこには銀色の髪を揺らし、エメラルドの瞳を爛々と輝かせて、跳んだりはねたりくるくる回って無邪気にはしゃいでいる小さな女の子がいた。まゆりだ。
身に着けている真っ白なワンピースが太陽の光をきらきらと反射して、いっそう眩しく見える。よほど嬉しいことがあったのか、浮かれすぎていて、こちらの到着に気づいていない。
「きたぞ、まゆり」
「りょー、やっときたー!」
まゆりはパッと満開の笑みを浮かべ、勢いそのまま飛びつくように抱きついてきた。何時ものこととはいえ、急にくるとビックリする。
転ばないように何とか踏みとどまって、仰け反った体を前へと戻すが、相変わらずぎゅーっとくっ付いたまま離れない。こうなると、まゆりの気が済むまで待つしかない。
実はまゆりとは、一年と少し前から一緒に住んでいる。
出会ったばかりの頃はすっごく大人しくて、いつも下ばかり見ていたのに、今ではすっかりこの調子だ。その分俺が戸惑った。
ややあって満足いったらしく、まゆりの腕がスルッと解けた。
ようやく心身共に自由になったと溜息を付きかけたとき、今度はまゆりの顔が鼻先に迫っていた。
近っ、と思わず息を詰まらせていると、そんなことなどお構いなしに、
「んふふ! りょーにすごいの見せてあげる!」
そう言って、まゆりは横並びになった。そしてスッと両手を突きだして、少し離れた地面に向けた。これがどうしたのかと、まじまじと見つめる。
「ちゃんと見ててね!」
その声に促され、俺はまゆりの方を向く。
すると空気がピリッ電気を帯びたように感じた瞬間、まゆりの手の間から翡緑に光る綺麗な玉がヒュンと飛び出した。
地面に向けて飛んでいったそれは、土に触れた途端にドッと音を立てて弾け、その周辺をほんの少しだけ散らかした。
「魔法だ! まゆりすげー!」
俺の素直な反応に、まゆりは有頂天になって「やった!やった!」と飛び跳ねている。まゆりの笑みがとても眩しい。
「りょーにいちばんに見せたかったの!」
「俺がいちばんなのか?」
「うん!」
それを聞いてなんだかとっても誇らしくなった。
「これで私、りょーのおよめさんね!」
「そうなのかっ?!」
本日第二の驚きに、思わず、どひゃあと仰け反る。
訳を聞くと、初めて魔法を見せた相手と結婚できると母さんに吹き込まれたらしい。
それで最近妙にコソコソとしていたのかと思い至った。
どうやら、まゆりは魔法の練習をしていたらしい。
「まゆり、それ母さんのウソだぞ。ダマされんなって」
「え……」
俺の言葉を聞いた瞬間、まゆりの天真爛漫とした姿は消えた。代わりに顔を曇らせてしまって、今にも泣き出しそうだった。
こんな苦しそうな顔は、あの日から、一度も見たことがなかった。
「うそなの……? わたし、がんばったの……ぜんぶ、うそなの……?」
曇っていた顔は、今やスコールに見舞われていた。
拭っても拭っても、まゆりの落涙は止まらない。
「やだ………………やだぁ…………っ!!」
涙声を上げるまゆり。その周りで翡緑の雷が跳ね回った。
それがあちこちに当たって、もの凄い火花を散らした。
「りょーは、けっこんしてくれるって言ったもん……!! わたし、りょーとけっこんするんだもん……!! わたし、りょーのおよめさんになるんだもん!!」
まゆりは、まるで自分自身が雷になってしまったみたいに、全身から凄まじい光を放った。
俺は咄嗟にまゆりを抱きしめた。それが意味のある行動かは分からなかったが、とにかくそうしたかった。
そして、思いつく限りのことを言った。
「母さんは、まゆりにぜんぶ言わなかったんだ! ちゃんとおよめさんになるには、魔法はおたがいのを見せなきゃいけないんだっ!!」
「おたがいの……?」
「そーだよ! だからまゆり、俺の魔法をいつか見せてやる!! そしたら――――そのときは、俺のおよめさんになれ!! ぜったいに俺とけっこんしろ!!」
その瞬間、雷が止んだ。
そして胸の中には、見上げるエメラルドの瞳が、潤みの中で揺れていた。
「うん!」
雨上がりに虹が差し込むように、喜びに閉じたまゆりの瞳から、一筋の涙がキラキラと流れた。
それから「約束だ!」と言って指切りで誓った。
俺は、俺自身のことを何も知らずに。
「こらぁ~、アンタたち~。庭を散らかして何してくれちゃってんの~? 悪いことしてたんじゃないでしょうね~?」
その瞬間を、洗濯物を取り込みに来た母さんが見つけて声をかけてきた。
二人で顔を見合わせ「秘密!」と言って笑った。
母さんは子供のように「教えなさいよ~!」と迫ってきた。それをからかうように二人で手を繋いで逃げ回った。
そんな休日の暖かな一幕も、途中から目を血走らせ本気で追いかけてきてた母さんのせいで台無しになった。
それから月日は流れ――――。
俺は未だ、あの日の約束を、誓いを果たせずにいた。