不知火
この作品は私が以前書いていたもので投稿するにあたり推敲してまとめたものです。以前は字数制限がある公募に出したのですがここに投稿するにあたって自由に書き足しました。読んで頂ければ嬉しく思います。
[美咲…あなたやっぱり東京に行くの?東京の私立の大学なんて、お母さん達やりきらんよ!]
階下から母智香子の大きな声が、二階の子供部屋まで響く。美咲はまたかとうんざりし、溜め息をつきながらこの前繰り返した母との口論を再開するのだった。
[奨学金貰えると思うから、それにアルバイトもする。出来るぶんだけ助けてくれればいい。お父さんだって賛成してくれたじゃない。何でお母さんもう決まったことをいつまでもうじうじ言うと?]
[だけど…]
まだ不満そうな口調の母に、美咲はたたみかけるように言葉を続けた。
[それに、私は一般入試じゃなくて推薦で入れる見込みなのよ。成績優秀なら授業料も全額か半額免除になる可能性は大いにあるって先生に言われたわ。娘がそれだけいい成績で英検も二級受かってて通訳になる夢があるならやってみるべきだって言われて、私もそう思って、東京に行きたいと思うのは当たり前じゃない!][だけど…]
智香子はそこで反論すべき言葉が見つからず口を閉ざす。そして決まって淋しげな表情を見せるのだ。
[そんな顔しないで…]
美咲はいつものことながら母のそんな表情を見るのが堪らなく嫌だったが、母智香子にとっては無理からぬことだった。実は美咲には美咲以上に優秀で、将来を嘱望されていた二つ年上の兄がいた。二年前の春隣県の国立大の学生となり、夢も希望もこれから大いに叶えていける筈だった彼は、突然交通事故に遭い無念にも命を奪われたのである。その朝いつものようにバイクで通学していた兄健介は、交差点で起きた多重衝突事故に巻き込まれ、巻き添えを食う形で一人だけ命を奪われたのだった。高校生になったばかりだった美咲は、両親、特に母の悲しむ様を具に見ていた。それだけに兄を亡くした悲しみがまだ癒えていない母を見るのが辛かったが、そんな美咲の背中を押してくれたのが父の悦司だった。東京の有名私立大学の英文科を出て通訳として働きたいという娘の夢を、父は最初から応援してくれた。勿論最愛の息子を不慮の事故で失った悲しみは、悦司の心にも深い傷を負わせていたが、それでも子供の人生は子供のもの親の思いで縛り付けるものではないという強い信念が、娘の夢を理解し応援するという、理想的な父親としての行動を悦司にとらせていた。父は娘が夢を叶える為に家を出ることを渋る妻を根気強く説得し、やっと承諾させた。そしてそんな父のお陰で、美咲は無事に受験の日を迎えることが出来たのだった。年が明けて1月の初旬、推薦入試を受ける為に上京した美咲は、満足のいく結果を出して帰郷することが出来た。だがほっとする間もなく、父から母智香子が祖母の秀子のことをかなり怒っているという思いがけない話を聞かされた。
[えっ…どういうこと?何を怒ってるの?実の親子なのに…あんなに仲良しなのに…]
試験について上々の出来だったと笑顔で父に報告した美咲だったが、悦司は娘の言葉には喜んだものの、母のことを話すその表情は暗く堅いものだった。
[うん…お祖母ちゃん変なこと言うんだって。美咲のお祖父ちゃんと健介がね、二人でお祖母ちゃんに会いにくるって…]
[えっ‥」
内容が内容なだけに言いよどむ父の姿に、美咲は驚くしかなかった。美咲の祖父であり智香子の父である勝彦は、もう何年も前に母の故郷で起きた自然災害によってその命を奪われていた。美咲は当時小学生だったが、その時の家族の動揺ぶりや母や祖母の慟哭する様をよく覚えていて、その強烈な記憶は今でも消し去ることはできなかった。祖父の勝彦は母の故郷である不知火町で漁師として働き、ずっと家族を支えてきた。やがて成長した夫婦の二人の娘は、一人は遠くに嫁ぎ、一人は同じ熊本の市内という近くで家庭を持ったのである。孫も生まれ、夫婦にはこのまま平穏な老後が訪れる筈だった。そんな矢先、思いも寄らない自然災害が祖父母が暮らすこの地を襲った。台風による荒波が満潮と重なり高潮が発生して、この地に未だかつてない規模の波が流れ込んだのだ。その結果数十名の命が奪われ、勝彦もその中の一人となった。あの日…波にもまれながら懸命に妻秀子を近くの屋根の上まで押し上げた彼は、夫のもとへ必死に手を伸ばす妻に向かって[俺のことはいいからそこでじっとしてろ!いいか!絶対動くんじゃないぞ!]と叫び続けていたという。そしてそのまま、勝彦は渦の中に消えていった。波が去った後勝彦の遺体は家の近くにあった鳥居の側で見つかったが、その死に顔は思いの外安らかなものだったという。だが秀子の悲しみは容易に癒えるものではなく、安らかな死に顔も祖母の悲しみを却って深める結果にしかならなかった。
[何でかねぇこぎゃんひどかこつ、今まで一度もなかったつに…私一人生き残ってあの人は逝ってしもうた…これで本当に良かったっだろうか…ねぇ…会いたか…幽霊でもよかけん会いに来てくれんね。]
当時まだ小学生だった美咲だが、祖母秀子が仏壇の前に座り勝彦の遺影を前にしてそう呟いていたのをよく覚えている。だがその祖母が、こともあろうに亡くなった勝彦と健介が揃って自分に会いに来るなどと、そんな事を娘である智香子に言うとは…絶句する美咲に悦司は慌てて気を取り直すように口を開いた。
[言うべきじゃなかったね、ごめんね、やっとテストを終えて帰って来たばかりだというのに、心配させるようなことを言って済まない。]
[ううん、お祖母ちゃんどうしちゃったのかしらね。でもお祖母ちゃんと同居する話もあるんでしょう?お祖母ちゃんも年だし…そんな…喧嘩なんかしたら…]
娘の不安な思いを察し父は優しく答える。
[同居の話には父さんは最初から賛成している。父さんは早くに親を亡くしてるからね。私はお祖母ちゃんを実の親のように思ってるんだ。だが母さんはそんなお祖母ちゃんの言葉に激高して、一緒に暮らすのは止めるとまで言ってる。]
[そんな…お祖母ちゃんは何て言ってるの?]
[お祖母ちゃんはお母さんを慰めるつもりであんな事を言ったんだろう。お母さんに済まないって謝ってた。傷付けるつもりはなかったって…その上で自分はまだまだ大丈夫、しっかり暮らしていくから心配しないでってそう言ってた…]
[うん…そうなんだ…]
その後何ともいえない複雑な思いを抱いて母に会った美咲だったが、いつもと変わらぬ表情で出迎えてくれた智香子の様子にひとまずほっとしたものの、不安はなかなか消し去ることが出来なかった。かといって智香子に祖母秀子のことを尋ねるのは何となく憚られた。今は受験に専念するべき時、そう自分に言い聞かせその後もう一度上京し二次試験を受けた美咲は、思い通り合格通知を一般の学生より早く受け取ることが出来た。[乾杯!]高校の友達や先生方に思いっ切り祝福された後、家族三人だけでグラスを傾け喜びを分かち合ったその夜、美咲は母から思いがけない話を聞かされた。
[えっ…お母さん今何て言ったの?]
美咲だけでなく、悦司も驚いた表情で妻を見つめている。そんな二人の視線に戸惑いつつも、智香子は以前から考えていたことだと前置きして口を開いた。
[何も今すぐってことじゃないのよ。でも…あと二年でお父さんも定年じゃない?そしたらこの家を売って東京の地方にでも小さなマンションを購入して私達も東京で暮らそうかとおもってるの。]
[東京に引っ越すってこと?そんな…いきなり…]
[いきなりじゃない、ずっと考えていたことよ。美咲は大学を出たら東京で働くことになるでしょうから、こっちには帰らないだろうし…お父さんだって、再就職の口なら東京の方があるかもしれない。退職金があるしそのうちに年金だって出るし、無理のない程度で働けばいいんだから。]
[でもそんな簡単にここを離れられるの?ここはお母さんの故郷なのよ!]
[だからよ!]
娘の言葉に堪らなくなったのか、智香子は感情を露わにして怒鳴るように答えた。
[健介の思い出が詰まったこの家から私は出たいの!この場所を離れて私はやり直したいのよ!]
[母さん…]
表面上は立ち直っているように見えた。しっかり自分を取り戻しているように思えて、悦司も美咲もある程度安心していた。だが、実際はそうではなかったのだ。息子健介を不慮の事故で失った母の心の傷は、何年経とうと癒えるものではなかった。智香子は戸惑う夫と娘に対し、どう反対されようと私の決意は変わらないと言い放ち、それからは東京行きについては自分の方から口を開こうとはしなかった。美咲と悦司はどう説得すべきか考えあぐねたが、今はまだそっとしておくべきかもしれないと思い、二人ともその話には触れなかった。そんなある日の午後、美咲が一人で留守番をしていると不意に一階の電話が鳴った。階下へ降りて受話器を取ると、そこからは幼い頃から慣れ親しんだ懐かしい声が聞こえてきた。
[はい、もしもし…里田ですが…]
[ああ、その声は美咲だね?元気しとるかい?]
[お祖母ちゃん、久し振り…ずっと電話なかったけん、心配しとったつよ。こっちから掛けても留守ばっかっだし。]
家ではあまり話さないのに、不思議と祖母との会話になると地元の方言が出る。
[いや、電話は何回かしたっだけどね。]
秀子は久し振りに孫娘の声を聞いて嬉しそうだったが、同時に美咲が出てくれてほっとした様子だった。
[うちに電話したつ?お母さん出てくれんの?]
[うん、私だとわかると、話すこつはなかちゅうて切られてしまうと。まだ、私んこつば怒っとるごた…]
[この前、お祖母ちゃんがお母さんに言うたこつで?そりゃお祖父ちゃんとお兄ちゃんが会いに来るなんて言われたら驚くだろうけど、でもお祖母ちゃんも何でそんな夢みたいなことを…]
美咲の問いかけに、秀子はしっかりした口調で答える。
[信じてくれんでも本当のこつだけん。怖いこつなんて全然なかつよ。二人ともいずれ生まれ変わって新しい人生を歩んでいくだけのこつ、今は私達んこつば見守ってくれとる。元気にならんと、却って二人ば心配さすっだけだけん。私はそれを智香子にわかって欲しかったつばってんまだまだ無理んごたね。]
[お祖母ちゃん…]
亡き祖父と兄が秀子に会いに来るという突拍子もない話を父から聞かされた時、さすがに美咲は驚いた。戸惑いつつも秀子は高齢だし、夢でそんな光景を見てそれが現実だと思い込んでしまったのかもしれないとそう思った。だが智香子の前では健介の話はタブー、実の母であってもしてはならないのだ。更に祖母の話は続く。
[お母さんにたいぎゃ怒られてね、私…父親と死んだ息子が会いに来るなんて言われて喜ぶ人間がどこにおるとって…それから私とは口利いてくれん…]
[お祖母ちゃん…]
[まあ、あたがお父さんが取りなしてくれらすばってん、まだそっとしといた方がよかて言わすけんね。そういえばお父さんが言いよらしたけど、あたは大学に合格したてね。]
[うん!4月から大学生だよ。3月には東京に行くけど、その前に色々せんばいかんこつがあっとたい。引っ越しの準備やら…]
さすがに4月からの学生生活については美咲も話が弾む。秀子は祝福してくれた上で、思いがけないことを口にするのだった。
[あたが東京に行くと、この先いつ会えるかわからんね…]
[お祖母ちゃん…]
[どう?まだ2月だけど、もう勉強はせんでよかっだろう?だったら不知火に来んね?大学合格のお祝いもしたいし、一緒にご飯でも食べようか。あたもこっちは久し振りだろう?]
[そう…そうね。]
電話では何度も言葉を交わしてきたが、美咲が秀子と直接会うのは兄健介の通夜、告別式の時以来…そして美咲が母の故郷である不知火を訪れたのは、健介が事故死する数ヶ月前、彼が大学に合格し、その報告をしに行った時だった。その後思いも寄らない悲劇が家族を襲うこととなる。健介の無言の帰宅となった通夜、そして告別式の夜、憔悴しきった娘を懸命に支えてくれた祖母秀子の姿を、美咲は今でもはっきり覚えている。だがさすがに、その思い出にはあまり触れたくはなかった。そして美咲は、祖母の誘いに静かに頷いて答えた。
「うん、行きたか‥お祖母ちゃんに会いたいし、不知火の海も見たい。」
だが海が見たいと言った後で、美咲は思わずはっとした。その海が牙をむいて、祖母から大切な人を奪ったのだ。その事実を忘れてはいなかったがつい‥海が見たいなどと言うべきではなかった。だが後悔する孫娘に秀子は優しく話しかけるのだった。
「いらん心配せんちゃよかよ。お祖父ちゃんはよく私の夢に出てこらすばってん、いつも笑っとらす。私もいつかあん人のとこにいくとだけん。いって、じかにあん人と話がでくるごつなっとだけん。」
「お祖母ちゃん‥」
「健介も夢に出てくるんよ。それがね、この前二人一緒に私の夢に出てこらしたもんだけん、たいぎゃびっくりしたつ。お祖母ちゃんね、二人が笑顔で会いに来てくれたこつが嬉しくて、お母さんにそんこつば言うたったい。そしたらお母さんにたいぎゃ怒られた‥」
「怒られた、?二人がお祖母ちゃんに会いに来たのって夢の中の話なのね。そうね、そうよね。でもお母さんもそんな怒らんでも。」
「お母さんはまだ、健介の死を受け入れられんとだろうね。でもそれは、天国にいる健介を心配させるだけなんだけどね。」
「お祖母ちゃん‥」
秀子の言葉には、娘を思う母としての心情が溢れていた。だが娘はそんな母との絆を断ちきらんばかりの勢いで、東京行きを真剣に考えているのだ。
(行こう、お母さんは反対するかもしれないけど、不知火に行こう。お祖母ちゃんと久し振りに会って色々話してみよう。)
美咲は堅く決意し、その夜の夕食時に祖母の家に二、三日泊まりに行きたいと早速両親に切り出したのだった。
「そうだね、東京に行けばお祖母ちゃんともなかなか会えなくなるだろうし、受験勉強が終わった今しかないだろう。わかった、会いに行っておいで。そしてのんびりしてくるといい。」
父の悦司は美咲の願いを快く受け止め、娘が母の故郷で数日間過ごすことを許してくれたのだが、やはり秀子に憤慨している智香子はあまりいい顔はしなかった。
「お祖母ちゃんに会いに行くのにわざわざ泊まりがけで行く必要ある?」
「おいおい、母さん‥」
「確かに東京に行ったらこれまで以上に会えなくなるだろうから、お祖母ちゃんに会いに行くことには反対ではないわ。でもせめて一泊でいいでしょう?あんたも東京行きの準備で忙しいんだから。」
母の言葉には棘があり、明らかに秀子への反発が込められていた。だが美咲は怯むことなく話を続ける。「私は、お祖母ちゃんとお母さんがこのままずっと口もきかないような状態は嫌だもん、安心して東京に行けん。だからお祖母ちゃんとしっかり話をしてくるつもりよ。その上でお母さんもお祖母ちゃんと話をしてみて、。」
[話をする必要はないわ。それにお祖母ちゃんのことなら大丈夫よ。]
[えっ…]
何が大丈夫なのだろう。訝しむ夫と娘に対し、智香子は表情を変えることなく淡々と続けた。
[神戸にいる知子姉さんに話したら、いざとなったらお祖母ちゃんはこっちで引き取ってもいいって言われたわ。あちらは義兄さんの御両親は他界されてて、子供達も独立して家を離れてるし、義兄さんもいいよって言ってくれたそうだから。]
[母さん…]
[そうはいっても、お義母さんが地元を離れたがらないだろう?何年も暮らしてきた故郷だよ。絶対に嫌がるんじゃないか?]
父の言葉は最もだった。強く頷く娘や夫を見ながら、智香子は溜め息をついて更に続ける。
[私が説得する。必ずうんと言わせてみせるわ。だって考えてみてよ。私達がここを離れたらどうなるの?母さんが一人でいる時にもし何かあったら、それこそ赤の他人に迷惑をかけることにもなりかねないのよ!]
[だから…ここを離れると決まった訳ではないし…]
[いいえ!]
智香子は不意に立ち上がると、一言一句はっきりと夫と娘に宣言するように言い放った。
[お父さんが定年になったら、私は一人でも東京に行きます。お願いわかって…ここにいる限り私は立ち直れない。どうしても健介のことを思ってしまう。]
[お母さん…]
[何度も忘れようとしたわ。気持ちを切り替えて新しく出発しようとした。でも…でも…]
あとは涙声になり言葉を詰まらせながら、智香子は美咲がこれまで幾度となく耳にしてきた言葉を繰り返すのだった。
[出来ないのよ、どうしても…不慮の事故ですって?確かにそうでしょう。でも悪いのは、注意すべき場所で無謀な運転をしたあの人達じゃない。だのに何で何の関係もない健介が、偶々そこを通りかかったってだけで巻き込まれて死ななきゃならないの?]
[お母さん…]
[智香子…]
涙ぐむ智香子を見つめて、美咲は父と静かに首を振って頷いた。今は何を言っても智香子には通じない。時間をかけてゆっくり説得するしかないだろう。美咲は今はとにかく祖母秀子に会って、亀裂を生じている母と娘の関係を修復することに力を尽くそうと誓った。父の悦司も同じ思いだったらしく、不知火へ旅立つ娘にお祖母ちゃんと心行くまで話してくるようにとそう言って美咲を送り出したのだった。母の故郷である不知火町では、神秘の火として知られる不知火が、年に一度八朔の頃海上にその姿を現す。美咲は子供の頃、二度ほどその光を家族で見に行ったことがあった。謎の光が現れるのは真夜中であり、美咲は眠い目をこすりながら暗い海に浮かぶその光を見ようと懸命に目を凝らしたのを覚えている。だが母の故郷であるである風光明媚なこの町は、同時に祖父勝彦が高潮という自然災害によって命を奪われた、悲しい記憶が残る場所でもあった。懐かしい場所だが忙しさもあって、祖父の死以来なかなか足が向かなかったこの町に、真冬の最中美咲は久し振りに訪れたのだった。数時間に一本というバスのダイヤのためやむなく最寄り駅からタクシーに乗った美咲は、懐かしい祖母の家が近づくと、やはり胸がわくわくするのを抑えることが出来なかった。家の前でタクシーを降りる。呼び鈴を鳴らす。真冬の海から吹き付ける冷たい風も、今の美咲には全く気にならなかった。
[美咲…よく来たね。]
[お祖母ちゃん…来たよ。]
幼い頃と変わらない優しい笑顔で迎えてくれた祖母秀子は、何故か子供の頃会っていた祖母と殆ど変わっていないように思えた。いや、却って若くなったというべきか…
[どうかしたつ?]
ぽかんとした表情の孫娘に、秀子は優しく問いかける。
[ううん、何かお祖母ちゃん昔とちっとん変わっとらんごた気がして。私少しびっくりしたと。元気だし…まぁそれはよかこつだけどお祖母ちゃん、本当は年とっとらんとじゃなかつ?魔女だったりして…]
[何を馬鹿なこつ言うとっと!ほら、上がって。あんたの好きなちらし寿司作って待っとったつよ。一緒に食べよう。]
[うん、食べる食べる!お腹すいた…]
美咲は子供の頃からよく知っている筈のこの家の居間で、子供の頃から大好きだった秀子手作りのちらし寿司を早速口にした。仏壇には祖父勝彦と兄健介の遺影が並んで置かれている。二人に手を合わせた後美咲は、久し振りに祖母の手料理を満喫しながら、何か違和感を感じていた。
(この家ってこんなに広かったかな…)
美咲が感じたのは、違和感というより言いようのない不思議な感覚…子供の頃から慣れ親しんだ場所の筈なのに、何か初めて足を踏み入れたようなそんな思いにとらわれていた。考えてみれば祖母秀子も、美咲が覚えている子供の頃からあまり年をとったという感じがしない。
[何考えよっと?]
不意に秀子に質問され、美咲はすぐに現実に引き戻された。
[いや、この大きな家に一人で住んでて、お祖母ちゃん怖いと思ったことないのかなと思って…]
何故そんなことを尋ねたのか自分でも理解出来ないまま、美咲は祖母秀子を見つめた。秀子は孫娘の視線に戸惑うことなく、家の中を見回しながら静かに答える。
[全然怖くはなかよ。お祖父ちゃんには夢でしょっちゅう会っとるけど、現実の世界じゃ会えんけん。]
[お祖母ちゃん…]
[お祖母ちゃんね、美咲が驚くかもしれんけど実は子供の頃から霊感があったつよ。だから昔は引っ込み思案で外に出るのを嫌がる暗い子供だった…だってやたらな所に行くと幽霊が見えちゃうんだもん。]
[えっ…本当なの?それ…]
驚く美咲をよそに秀子は更に続ける。
[本当よ。でも父…あたには曾祖父たいね、その父の知り合いに親切なお坊さんがいて、私に教えてくれたつよ。必要以上に怖がらんでいいから、見えても感じても知らん振りするごつ。それが一番大事なこつだって。どう対処すればいいか、そん人が私に一から教えてくれた…そして幼なじみだったお祖父ちゃんも、そんな私ば励ましてくれた…そのうちお祖父ちゃんと結婚して子供が出来たら、不思議なこつに霊感がなくなったつよ。まあ言われた通り気にしないようにしたから、お化けの方からいなくなったつかもしれんね。]
[うん…確かに霊感を持ってた人が、結婚して子供を生んだらその霊感がなくなったって話は聞いたこつあるけど、まさか…お祖母ちゃんがそうだったとは…びっくり!]
唯々驚く美咲だったが、秀子は祖父の遺影を目にして今度は少し淋しそうに語った。
[でも…お祖父ちゃんが亡くなった時は、昔の…霊感があった頃の自分に戻りたいて心からそう思った。幽霊でもいいから会いたかったから…でも…やっぱり会えなかった…出てきてくれたのかもしれんけど。]
[お祖母ちゃん…]
[智香子もお祖父ちゃんに死なれた時の私と同じ気持ちなんだろうね。私は何とか立ち直れた…お前達や周りの人達が随分助けてくれたからね。健介の為にも智香子には立ち直って欲しかばってんまだまだ無理なんだろうね。]
[お祖母ちゃん…]
祖母は、愛する息子を不慮の事故で失い、なかなか立ち直れないでいる娘を心から心配している。だが娘は、そんな母の気持ちを理解しようとせず、生まれ故郷から秀子を引き離そうとさえしているのだ。美咲はそんな現状が堪らず、智香子が健介の思い出から逃れるため、家を売ってまでしてこの地を離れようとしていることをつい口にしてしまった。夜少し落ち着いてから話そうと思っていたのだが、秀子の様子を見ていると黙っていることが出来なかったのだ。
[ごめんね、お祖母ちゃん…こんこつは夜、ゆっくりしとる時に話そうと思っとったつに、こんなに早く…久し振りに会えたつにお祖母ちゃんを心配させるようなこつ話して、本当にごめんね。]
[ううん、そぎゃんこつ全然心配せんちゃよかよ。智香子が本当にそうしたいと思い、あんたとお父さんが反対せんなら私が口を挟むこつじゃなかて思っとる。でも…]
[でも…?]
[気持ちの問題だろうけど、智香子が今立ち直れんならここを離れても同じこつじゃなかろうかって私は思うとたい。ここを離れたからちゅうて、健介のこつば忘れらるるもんでもなかろう。私は智香子に、健介が天国からいつも家族んこつば見守っとるけん忘るる必要はなかて、そう言うてやりたかったい。]
[お祖母ちゃん…]
[私は勿論、ここを離れるつもりはなかけどね。]
秀子の言葉は、祖母の娘を思う心情を余すところなく吐露するものだった。だがやはり、秀子には故郷を離れるつもりは微塵もないようだ。美咲はどうやって母の決心を翻させるか考えあぐねたが、祖母ののんびりとした様子にその夜はそのまま秀子と枕を並べて久し振りに床についた。そして、滅多に夢を見ない美咲なのだが、その夜は久し振りに夢を見た。夢に出てきたのは、まさしく子供の頃亡くなった祖父勝彦とそして事故死した兄健介と思しき人物だった。思しきというのは、その二人が朧気な輪郭で顔もよくわからなかったから。顔がよくわからないものの、二人は健介と勝彦だと美咲にはそうとしか思えなかった。二人は美咲に優しく微笑みかけているように感じられ、そこには懐かしくて切ない言いようのない雰囲気が漂っていた。
[お祖父ちゃん!お兄ちゃん!]
思わず美咲は夢の中で叫ぶ。だが二人の影は次第に薄れていき消えそうになる。
[お祖父ちゃん!お兄ちゃん!]
待って…夢でもいいから会いたい。会って話したいのに。と、その時だった。
[美咲、どうかしたつ?]
不意に秀子に揺り起こされて、美咲ははっとして飛び起きた。頬が濡れている。夢で二人を見て、思わず涙を流しながら二人の名を叫んでいたらしい。
[お祖父ちゃんとお兄ちゃんに会った…]
ぽつんと呟くように答える美咲に、秀子は[やっぱりね。]と謎の言葉を口にすると静かに頷いた。
[何がやっぱりなの?]
当然のように気になった美咲が問いかけると、秀子は思いがけない話を口にするのだった。
[何故か私と一緒に寝た人は、殆どといってよかぐらい死別した懐かしい人の夢をみると。全部が全部そうという訳じゃないけど、八割がたね。健介の葬儀の時こっちに帰って来とった知子もやっぱり二人の夢ば見たて言うとったし、老人会で旅行に行った時私の隣で眠った近所の多美子さんもそう…亡くなった旦那さんの夢ば見たて言うとらした。不思議でしょう?私が昔霊感があったこつともしかしたら関係あっとかもしれんね。]
[私も、お兄ちゃんの夢は今まで殆ど見なかったつに今日いきなり…お祖父ちゃんらしか人も一緒だった…お祖母ちゃんは…?二人の夢をよく見るんでしょう?]
[うん、よく見るよ。お祖父ちゃんだけだった頃から、今は二人一緒によう出てこらす。初めて二人一緒に会いにこらした時のこつは、あたにも話したじゃなかね。お祖母ちゃんね、魂は永遠だと思っとるけん二人とは天国で必ず会える。二人の魂は暫く天国で過ごした後、また新しい肉体を得てこの世に生まれ変わるてそう信じとるとたい。]
[二人の来世ってこと?]
[そう…勿論二人だけでなく、誰でも生まれ変わるもんたい。誰にでも前世があって今があってそして来世があっとよ。あんたにもね。だけん、智香子にはこれ以上悲しまんで欲しか…あん子もいつか天国に召されるだろうけど、それまで健介は生まれ変わらんできっと待っとってくれる…天国で必ず会える。決して悲惨な意味じゃなくてね。でも今のままじゃ、健介は天国でずっと母親んこつば心配しとかんばいかんとだけん…]
[お祖母ちゃん…」
秀子の言葉は不思議な響きで美咲の心に染み渡ってくる。美咲は自分でも驚く程、祖母の言葉で心が癒やされていくのを感じた。
[お兄ちゃん…]
意識しないまま涙が頬を伝う。幼い頃から子供扱いされて拗ねたこともあった。優秀な兄に嫉妬したのはしょっちゅうだった。それでも大好きな兄だった。健介が亡くなった時、母と同じように現実を受け入れられない自分がいた。そして受け入れられないまま、兄のことを考えようとしない自分がいた。それで立ち直ったつもりだった。いや、考えないようにしなければ実際に立ち直れなかったのだ。そんな美咲の様子を見て、秀子が優しく声をかける。
[美咲、あたも無理してきたみたいね。お兄ちゃんのこつば考えんごてしてきたんだろう?でもね、悲しか時はおもうさん泣いてよかつよ。我慢せんちゃよかっだけん。]
[お祖母ちゃん…]
祖母の優しい言葉に張り詰めていた心が一気に緩み、美咲は思わず声を上げて泣き始めた。思えば兄が事故死して以来、自分がしっかりしなければと涙を堪え続けてきた美咲だった。泣くのは両親の役目、自分は泣いたらいけないのだ。自分がしっかりしなければならないから、自分が両親を支えなければいけないのだからと懸命に自分に言い聞かせてきた。だが秀子の言葉は、そんな張り詰めていた美咲の心を確実に解きほぐし、深い安らぎの中に導いてくれた。秀子は優しく続ける。
[よかよか、泣いてよかよ。泣くだけ泣いたら明日はまた笑って過ごせる。ねぇ、そぎゃんだろう…?]
[うん…]
そして美咲は、涙を流すだけ流した後再び深い眠りについたのだった。その眠りに二人が再び姿を現すことはなかった。翌朝祖母と美味しく朝食を食べた後、美咲は秀子から海岸を散歩しないかと誘われた。
[私はいいけどお祖母ちゃん寒くなかつ?海辺は風があって寒いんじゃないかな。]
[大丈夫、そぎゃんこつ心配せんちゃよかよ。ここはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが生まれ育った町だけん、慣れとるけんね、冬の寒さも…私はあたにお祖父ちゃんとの思い出ば聞かせたかったい。二人で毎年のように家を抜け出して、不知火を見ながら語り明かしたこつなんかね。]
[不知火…?毎年不知火を見に行って、そこでデートしとったつ?でも不知火が見えるのは真夜中じゃない。そんな真夜中に二人でデートしてたなんて凄いね。お祖母ちゃん達もやるじゃない!]
驚く孫娘に秀子は少し照れながら、遠くを見るような眼差しで静かに話を続けた。
[いつから意識しだしたつかはわからんばってん、私は多分こん人の奥さんになるんだろうなって、ずっとそう思っとった。子供の頃から一緒だったからね。お祖父ちゃんとは。不知火を二人で見るようになったつは、確か十三歳ぐらいの年かな…どっちから言い出したつかははっきりせんけど、不知火の見える場所で八朔の日に会おうというこつになって、毎年のように待ち合わせては二人でたわいのない話ばしたたい。この後は歩きながら聞かすっね。さぁ出掛けよう!お祖母ちゃん準備すっけん、あんたもコート着ておいで。寒くなかごつ帽子やマフラーもね。]
[うん、わかった。]
祖母の言葉に頷いて身支度を整えた美咲は、厚手の丹前に年代物のショールを羽織った秀子と外へ出た。外はいい天気で風もなく、二月にしてはあまり寒さを感じないことに、美咲は心の中でほっとしたのだった。冬の長閑な日差しを浴びながら、やがて二人は勝彦と秀子が毎年のように不知火を見に来ていたという、永尾神社の境内を降りた場所までやって来た。そこまで来ると秀子は、感慨深げに海を見ながらゆっくり口を開いた。
[ここから見る景色は、昔とはすっかり変わってしもうた。まあ、当たり前んこつだけどね。昔はこんな立派な堤防はなかったし…私はまだ霊感があったから、そんな私が親の目を盗んで夜中にここまで来っとは本当大変なこつだったとよ。昔は今んごつ家はたくさんなかったし、夜は真っ暗で街灯なんてないから目を凝らしてからしか歩けんかった。それでも必ず来てた。会いたかったけん…二人だけで不知火見ながら話したかったけん…]
[お祖母ちゃん…]
[ここ永尾神社の鳥居だけは昔とちっとん変わっとらん。こん鳥居ば見ると、やっと来れたっていつもほっとしたもんだった。そしてこの先の海辺、その海辺でお祖父ちゃんの姿ば見つくっと私ね、ただ嬉しゅうて…][お祖母ちゃん、結構情熱的な女性だったんだ。驚きだな…でも家の人に見つかったことはなかったつ?それに不知火が見える夜なら他にも人がおらしたろうも?]
子供の頃から抱いてきた祖母の大人しくて物静かなイメージとはかけ離れた秀子の大胆な行動に、美咲はただ驚かされるばかりだった。すると秀子は今度は茶目っ気たっぷりに微笑みながら、楽しかった昔を振り返り更に美咲に意外なことを語って聞かせた。
[実はね…お祖父ちゃんとの結婚式ん時、みんなに言われたつよ。私とお祖父ちゃんの仲は村公認で、殆どの人は私達が付き合っているこつを知ってたんだって。勿論一緒になるもんだと思っとったて。不知火が見える夜に二人でデートしとるこつまで知ってた人がどのくらいいるかは恥ずかしくて聞いとらんけんわからんけど、案外みんな知っとらしたつかもしれんね。]
[親も…なの?]
[かもしれん、幼なじみですんなり夫婦になったからね、私達は…それでも戦前から戦中戦後にかけてはやっぱり大変だったわ。]
[終戦時、お祖母ちゃん達は十六…十七?]
[私は十六、お祖父ちゃんは十七だった…]
[戦争中に二人は青春時代を過ごしたのね。大変だったでしょう?それに引き換え私達は本当に恵まれてると思うわ。今は命の危険もなく、何不自由なく暮らしていけるから…まあ、お兄ちゃんみたいに不慮の事故や不治の病で亡くなる人は勿論いるけどね。]
美咲の言葉に秀子は静かに頷き、昔を振り返りながら懐かそうに亡き夫勝彦との思い出を孫娘に語り続けた。
[戦争があと一年長引けば、あん人は間違いなく戦争にいってた。終戦の年昭和二十年ね、町の方が空襲にあい多くの人が亡くなった翌日、私は初めてお祖父ちゃんに抱き締められた…そるも家ん前で…勿論人前でそんなこつすっと、なんば考えよっとかこん非常時にて怒鳴られる時代だった…それでも思い残すこつがなかごつてあん人は…そん時は戦争にいく覚悟しとったつよ、きっと…でも、その後すぐに戦争が終わった…あん人そんこつば知った時、一時抜け殻んごつなっとらした…ぼおっとして…あたは知っとるど?お祖父ちゃんのお兄さんにあたる昭彦さんて人が戦死しなはったと。]
[うん、確か南方の何とかという島で…遺骨も戻ってこなかったんでしょう?]
[そう…だから出征の時に残してあった髪の毛をお墓に入れたそうだけど、昭彦さんはお祖父ちゃんとは年が八つも離れてたから、兄どいうより親代わりみたいな人だった。私には義理の兄になるけど、結婚する前に亡くなんなはったけん、でもしっかりした人だったよ。お祖父ちゃんにも厳しかった。男とはこうあるべきだっていう信念を持った人…だからかな…戦死公報が届いても、お祖父ちゃん全然泣きなはらんだったとよ。それどころか今度は自分が兵隊になって戦争に行く。そしてお兄さんの仇を討つんだって、悲しいぐらいに思い詰めてた…]
[そんなことが…]
[ええ、でも戦争が…お祖父ちゃんにとってはほんなこついきなりだったんだろうね。終わってお祖父ちゃん、これから何をすれば良かかもわからんごつならして、毎日ぼおっとしとらした。張り詰めていた糸がぷつんと切れたごつして、なんばすればいいか分からんでおらしたけど、でも終戦の翌年の不知火の夜、あん人と二人でぼんやりその火ば見とった時、不意にお祖父ちゃんが言わしたつ。あの火は亡くなった兄貴の魂だって…やっとこの村に、自分達の所に帰ってきてくれたんだって…それから大声で泣いてた…]
[お祖父ちゃんが…]
[そうよ。まるでそれまで溜まっていた悲しみや悔しさば全て洗い流すごて、あん人はひとしきり泣きよらした。私はそん時初めて見たつよ。お祖父ちゃんが泣かすとば…その夜泣くだけ泣いた後、あん人はやっと立ち直ってくれらした。その後、私達は自然の成り行きのように夫婦になった。娘二人が生まれて、あん人は無骨だけど漁師としてひたすら真面目に働いて、そして…いきなり別れがきた…もうこの世にはおらっさんけどね。]
[お祖母ちゃん…]
自分を見つめる孫娘の眼差しに秀子は優しく頷き、今度はしっかりした口調で答える。
[大丈夫よ、お祖母ちゃんは一人でも十分大丈夫。お祖父ちゃんとはいつも夢の中で話しよるけん、思いが通じるていうか、私もいずれお祖父ちゃんと同じとこにいくけんね、死ぬのは全然怖くない。魂だけの存在になったらあん人と直に話せるし、生まれ変わるまで天国を楽しめばいいんだから。ううん、何て言うたらよかつかわからんけど、私は今人生を楽しんどるの。だから心配せんちゃよかよ。]
[お祖母ちゃん…]
[ここを離れるこつで立ち直るきっかけを得たかったら、そうすればよかて私は思っとる。智香子の悲しむ姿ば、悦司さんももう見たくなかろうけんね。勿論あたもそうだろう?でも忘るる必要はなかて、智香子にはそう言いたかったい。今生で会えないのは辛かろうけど、また絶対に会えるんだから…私がお祖父ちゃんに再び会えるように…]
[うん、そうね…そうだね、お祖母ちゃん。]
秀子の言葉は不思議な程美咲の心を癒やしてくれた。ただ、自分一人だけでは駄目なのだ。母が一緒にこの場所にいるべきで、祖母とも母が話すべきなのだ。秀子を見つめながら美咲はしみじみ思った。
(来て良かった…お祖母ちゃんと話せて良かった…お祖母ちゃん不思議なくらい変わってない、まるで本当にお祖父ちゃんと暮らしてるみたいに思える。お祖母ちゃんは大丈夫だわ。決めた…私が東京に旅立つ前にやるべきこと…必ず二人を会わせよう。実の親子なのにこのままずっと話もしないなんてそんなこと…第一お兄ちゃんが悲しむわ。)
祖母と母との和解を心から切望する美咲は、祖母の家から帰ると先ず父に連絡を取り、二人を会わせるための策略を練ることにしたのだった。
懐かしい祖母の家で数日間を過ごし身も心も癒やされて帰宅した美咲は、出迎えてくれた悦司に早速母の故郷で祖母秀子と三日間有意義に過ごせたことを伝えた。祖父母の思い出話をたくさん聞くことが出来て満足したことを話すと、父も喜んでくれた。その上で美咲は、秀子と智香子がもう一度会って話をし、心を通わせることが出来るように力を貸して欲しいと父に頼み込んだのだった。だが美咲の作戦を聞かされた時、さすがに父は戸惑いを隠せなかった。
[嘘…?お祖母ちゃんが倒れたって嘘つくの?さすがにそれは…]
二人を会わせることは大切なことだとわかっている悦司も、最初嘘をつくことにはさすがに消極的だった。それでも母と祖母を何としても和解させたい、そのためにも先ず会わせなければならないのだという美咲の堅い決意を聞かされ、結局その芝居に協力する事にしたのだった。その上で美咲は祖母の言葉を父に伝える。
[お祖母ちゃん、やっぱりあの場所から離れるつもりはないみたい。私お父さんが定年になったら、この家を売って東京に移住することまでお母さん考えてるって、お祖母ちゃんに話したの。]
[うん、そしたら何て?]
[ここを離れることで立ち直るきっかけが得たいのなら、お祖母ちゃんは別に反対はしない。でも、自分はここを離れるつもりはない。ただ…健介を忘れる必要はないんだけどねって、そう言ってた…]
[そうだね、その通りだよ。それにもう八十に近いのに、今更環境が変わるのはね。お祖母ちゃんが嫌がるのは当然だよ。]
[そうね、でも不思議だったわ…何かお祖母ちゃん昔とちっとも変わってなかった。]
[えっ、どういうこと?]
怪訝な表情を見せる父に、美咲は母の故郷である不知火で抱いた祖母への畏敬の念とも言うべき不思議な感じを伝えた。
[お祖母ちゃん、私が子供の頃とちっとも変わらなかったの。全然年とってなくて…だからすごく神秘的で…そして一緒に寝たら亡くなったお祖父ちゃんと兄貴がしっかり夢に出てきて…でもそれが当たり前みたいな雰囲気がお祖母ちゃんの周りにはあって…]
[へえ、でも年とってないなんて、それは美咲の思い過ごしじゃないか?二人が夢に出てきたのだって、きっと偶然だよ。]
父は娘の言葉に耳を傾けつつも、その感じ方にはやはり否定的だった。美咲はそんな父の言葉に納得出来ない思いで、首を振りながら話を続ける。
[そうかなあ…でもあの家やお祖母ちゃんの周りには、何か言葉で表現出来ないような不思議な雰囲気があったの。確かに年を重ね様々な経験をして人生の喜怒哀楽を味わってきたお年寄りなら、そんな雰囲気を醸し出すものかもしれないけど、お祖母ちゃんのは特別って感じがしたわ。]
[特別って…おいおい、お祖母ちゃんは仙人でも魔女でもないんだよ。]
[わかってる。でもね、お祖母ちゃん結婚するまで霊感があったんだよ。知ってた?子供を産んでから少しずつ霊感が無くなっちゃったんだって…それでかもしれないけど、毎日のようにお祖父ちゃんと兄貴の夢を見るって…二人に会えるって…]
[へえ、お祖母ちゃんに霊感があったなんて初耳だよ。それで?亡くなった二人のことや、お母さんについては何て言ってるの?]
悦司にとっても秀子に昔霊感があったとは意外だったようで、驚いた表情を見せながら娘の話に聞き入る。そんな父に美咲は静かに答えた。
[魂は永遠だってそう言ってた…肉体は死んでも魂は天国にいって、新しい体で生まれ変わるものだって…だから自分も天国で必ずお祖父ちゃんに会えるし、お母さんだって生涯を全うして天国にいったらお兄ちゃんにきっと会える。それまでお兄ちゃんもきっと生まれ変わらずに待っていてくれるから、毎日を悲しんで過ごすのはやめて欲しい。何よりも今のままじゃ、健介がずっと天国で母親のことを心配し続けなければいかんからって…]
[そう…]
しみじみとした口調で話す娘の言葉を聞く父の目には涙が浮かんでいるようで、美咲は思わずはっとした。その時だった。[わかった!]気持ちの整理がついたのか父は突然大きな声でそう言い放つと、嘘を口実に何とか二人を引き合わせようとする娘の作戦に、積極的に協力することを約束してくれたのだった。
[二人で口裏合わせたらいいんだろう?やるよ、その方があの二人の為になると父さんも信じるから。このままじゃ確かに健介が悲しむだろうからね。]
[有り難う。後で母さんの怒りを買うことになるかもしれないけど、私は後悔しない。父さんは私が巻き込んだと言うわ。実際そうなんだから。]
[そんなこと気にしないでいい。大丈夫、二人はきっと元の仲のいい親子に戻れるから。僕達がそう信じなきゃ…]
[そうよね、有り難う父さん。]
二人はお互いに顔を見合わせしっかり頷いた。そして次の週の土曜日の午前中、予定通りその作戦を決行したのだった。
[お母さん、大変よ!お祖母ちゃんが倒れたんだって!たった今近所の多美子さんから連絡があって、救急車で近くの病院に運ばれたって!]
買い物から帰ってきたばかりの母に、美咲が青ざめて訴える。[えっ…]娘の突然の知らせに確かに戸惑う母…そんな妻を悦司は、自分が運転するから早く車に乗るようにと切迫した声で急かすのだった。
[何をぐずぐずしてるんだ!僕が運転するから早く乗って!美咲も早く…]
[えっ、ええ…家の戸締まりは…]
[私がするから母さんは先に乗ってて!]
二人のてきぱきした行動に智香子は戸惑ったようだが、不信感は抱いていないように見えた。だがやはり、今まで会おうとしなかった母親にこんな形で会いに行くことになるとは思ってもみなかったらしく、その表情にはかなり動揺が見られた。
[お祖母ちゃんどうしちゃったのかしらね、この前会った時は元気そうだったのに…]
自分でも驚く程切迫感のある演技を見せた娘に父も合わせる。
[それで?容体は?]
[わからないの…多美子さん倒れて救急車で運ばれたとしか言ってなかったから…とにかく直ぐに行かなきゃと思って…]
父と娘の息の合った名演技に、最初は戸惑いの表情を浮かべていた智香子だが、次第にその表情には不安の色が濃くなっていった。そんな母を見て美咲は少し心が痛んだが、これも二人を合わせる為と自分に言い聞かせ、彼女はついこの間訪れた母の故郷へ、今度は父の協力のもと三人で向かうのだった。熊本市内から南下して宇土半島を巡る道路に入ると、次第に海が見え始める。祖母の家が近づくと、美咲は緊張して気持ちが高ぶるのをどうすることも出来なかった。祖母の家に着けば否が応でも嘘はばれる。それは勿論、悦司も美咲も覚悟していた。然し生まれ故郷である不知火の町に入ってからも、何故か智香子は一言も発しようとはしなかった。
(お母さん、感付いたかもしれないな。それにしても何故何も言わないんだろう…)
美咲は母の心が読めず、思わず父と不安げに顔を見合わせた。そして、ついこの前美咲が秀子と歩いた永尾神社にさしかかった時だった。外を見ていた智香子が、不意に[あっ!]と小さな叫び声を上げたのだった。[どうしたの?]
美咲が驚いて尋ねても、智香子は何も答えずただ無表情のまま車の外をじっと見つめている。
[お母さん?]
娘の問いにも反応せず、智香子は外を見つめたまま家が近づいても口を開こうとはしなかった。そして車は、計画通り祖母秀子の家の前で静かに止まった。
[どうしたの?病院に行くんじゃなかったの?]
二人の嘘に薄々気付いていたらしく、智香子の口から当然のようにその言葉がでたが、あまり迫力のある言い方ではなかった。智香子は更に意外な言葉を付け加える
[とでも言った方が良かった…?]
[智香子…]
[お母さん…]
[嘘なんでしょう?二人で私と母を会わせるために嘘ついたんでしょう?始めは本当かなと思って慌てたけど、途中から多分、否絶対そうなんだって思ってた…真に迫った演技だったけど、でも私にはわかった…家族だもの…それにしても…]
智香子は溜め息をつきながら夫を見つめると、感心したように話を続けた。
[まさかあなたまで、娘と一緒になって嘘をつくとはね…]
[お母さん?お父さんは悪くないの。私が無理に頼み込んだの…]
必死に父を庇う娘に、智香子は優しく微笑んで口を開いた。
「誤解しないで、私は怒ってる訳じゃないのよ。あなたは本当は嘘をつけない真面目ないい人だもの、そんなあなたが嘘をついてまで私を母と会わせようとした。相当な覚悟があってしたことだろうし、そこまで私と母のことを心配してくれてるのは有り難いと思う。」
「お母さん‥」
智香子は自分を見つめる夫と娘に妻として母として久し振りに穏やかな視線を送りながら、しみじみとした口調で話を続けた。
「私自身色々な意味で迷ってたの。だからどんな形であれ連れて来てくれて良かった。」
「お母さん‥」
「ここに来てやっと吹っ切れるような気がする‥今まで夢で何度も健介に会ったけど、あの子は私になかなか笑顔を見せてくれなかったのよ。それが‥ここに来る途中にね、久し振りに永尾神社を見たけどその鳥居の先で一瞬だけど健介を見たような気がしたの。」
「お兄ちゃんを‥?」
「ええ、あの子の幻‥かもしれない。多分そうだろうけど、私を見て確かに微笑んでた‥やっと私に笑顔を見せてくれたんだ‥私にはそう思えた。」
「お母さん‥」
「そしたらね、昔子供達を連れて不知火を見に来た時のことが思い出されて‥」
「不知火か‥確か二回程見に来たよね、みんなで‥見えるのは真夜中だから子供達を連れて行くのはどうかと思ったけど、絶対見たいとせがまれて‥」
「そうそう、美咲なんて最後には泣き出しちゃって‥駄目だって言っても聞かないのよね。それで根負けして渋々ね。でも見える頃には眠っちゃっててまあ子供なんだから当たり前なんだけど、不知火が見えたよって起こすの大変だったんだから。」」
「でも起こさないとなんで起こさなかったのって、後で文句言うだろうなって思った。だから何とか起こして四人で不知火を見たんだよね。それも必ず土曜日が八朔の夜に‥」
「当たり前じゃない、翌日が学校や会社だったら三人が無事に過ごせたかどうか、私が一日中不安に思ってなきゃいけないもの。それでも、そんな思いで見た不知火はとても綺麗だった‥」
「確かに、不思議な威厳みたいなものを感じたなあ‥でもそれも健介の思い出と繋がるからなあ、考えないようにしていたよ、いつしか‥」
健介を追想する悦司の言葉にそれまでの智香子なら暗い顔しか見せなかったが、今の彼女は違った。しっかりとした口調で自分の思いを語る。
「私もそう、だけど思ったの。健介は今の私を見てどう思ってるんだろうなって、。幻かもしれないけど、ここに来てやっとあの子が私に笑顔を見せてくれたのかもしれない。そんな気がする‥今はとにかく母さんと会うわ、落ち着いて話をしてみる。あなたと美咲も一緒に‥」
「智香子‥」
「お母さん‥」
頑なだった智香子の心は、生まれ故郷であるこの地に来ただけで確実にほぐれてきつつある。それを実感し、安堵する父と娘だった。その時だった。背後で秀子の声がした。
「おやおや今日は三人で来たつかい?賑やかなこったい。」
「お祖母ちゃん‥」
「お義母さん‥」
「そぎゃんとこじゃなんだけん、あがんなっせ。よう来たね‥智香子も‥来てくれて嬉しかよ。」
「母さん‥」
秀子は大して驚くことなく、この前と同じように今度は三人を温かく迎えてくれた。そして久し振りに会う娘にも、その態度は変わらなかった。
「さあさあ、座ってゆっくりしとって。丁度お昼の準備ばしとったとこたい。そうだ!あた達も手伝ってくれんね、四人分に増えたけんね。一緒にお昼食ぶっどたい?」
「えっええ‥」
秀子に請われるまま智香子は生まれ育った家に入ると、母と娘と三人で久し振りに実家の台所に立った。今までの空白の時間が嘘のように、しばし穏やかな時間が流れる。談笑しながらも食事の支度が進み、四人で食卓を囲む。そして仏壇の遺影に目をやりながら秀子が「さあ、久し振りに賑やかなお昼になったよ。お父さん、食べようか‥」と口にした時だった。美咲は母の目から大粒の涙が零れるのを見た。
「お母さん‥」
驚いて自分を見つめる夫や娘にも構わず、智香子は声を震わせて母に語りかけた。
「母さんごめんね、私んこつば心配しとってくれたんだよね、ずっと‥それなのに私は怒ってばっかりで‥意地張ってばかりで‥」
「母さん‥」
「智香子‥」
嘘をついてでも連れて来て良かった‥智香子の様子にしみじみとそう思い涙ぐみながら二人を見ていた美咲と悦司だが、秀子はそんな娘に対し仏壇にある勝彦と健介の遺影に目をやりながら、言い聞かせるようにしっかりと口を開くのだった。
「いい?智香子、私にはあたの悲しみはわかる。私も父さんば亡くしとるけんね、それも自分ば犠牲にして私ば助けてくれた‥私も一時は立ち直れんかった‥でも泣いてばかりで毎日を過ごしよった時の夢には、お父さんはなかなか出てくれんかったつよ。たまに出てくれても無表情のままだった‥」
「本当?」
「本当よ、でもそんな時思いがけなくかつて私を助けてくれた恩人の娘さんに会ったとよ。あたは知らんだろうけど、彼女に言われてね。魂は永遠だって‥死ぬっていうとは永遠の別れじゃなかて。肉体が死ぬだけで魂は永遠に生きている。そして新しく生まれ変わるんだって。必ず又会えるから。お父さんも健介も生まれ変わって新しい人生を歩むことになる。だけど私達が天国にいくまできっと待っててくれるからもう泣くんじゃなかよ。」
「母さん‥」
「今まで健介の夢ば見たろう?健介はどんな表情だった、?これまでのあたば見とったら、健介は決して笑ってなかったと思うよ。」
「うん‥うん‥」
「健介とあたが天国でしか再会することができんごつなったとは、確かに理不尽なこつだろう。健介は何事にも秀でた自慢の息子だったけん、あたが立ち直れんとも無理なかろうと思う。だけど健介の魂は天国で過ごした後、必ず生まれ変わる。天国であた達は再会できるけど、今のままのあたじゃ健介はそれまでずっと心配しとかんばいかんとよ。あたんこつば‥あたのお父さんと一緒に‥」
「うん‥」
「しっかりしなさい、あたには悦司さんと美咲がいるじゃなかね。優しい旦那さんと可愛い娘が‥二人はずっとあたのこつば心配しとったつよ。大切な家族にこれ以上心配かけちゃいかん、いいね?」
「うん‥」
母の叱咤激励を受けて、涙が頬を伝うままに子供のように泣きじゃくる娘‥その涙を拭いながら、秀子はほっとしたように母親らしい笑顔を見せるのだった。
(良かった‥嘘をついてまで連れて来た甲斐があった‥)
二人の姿を見ながら美咲は心からそう思った。父の悦司も満足そうな表情で母と娘を見つめている。そしてひとしきり涙を流し終えた後、昼食でお腹を満たした智香子は、帰宅する前に家族で不知火を一緒に見た永尾神社をもう一度訪れたいとみんなを誘った。
「母さんも行く?寒い中歩くの大変だから無理強いはしないけど‥」
「大丈夫、ここら辺は私にとって庭みたいなもんだけん。悦司さんもよかね?」
「はい、行きましょう‥お義母さん。」
美咲と秀子はついこの間通った道を、そして悦司と智香子は十年近く前に通った道を、それぞれが様々な思いを抱いて歩く。この前と同じような否、それ以上暖かな日だった。高齢の秀子に合わせるようにゆっくりした歩調で歩き永尾神社に着いた四人は、鳥居を潜ると海を臨む堤防の所までやって来た。すると智香子は不意に大きな声で「健介!」「父さん!」と二人の名前を海に向かって叫んだのだった。
「母さん‥」
母の思いがけない行動に驚く美咲とは違って、父と祖母は静かにそんな母を見つめている。やがて智香子は今までにない決意に満ちた表情でしっかり口を開いた。
「父さんが亡くなったあの高潮の災害の後、堤防が補強されたんだよね。それでも海はずっと変わりなくこの町を‥みんなの暮らしを見つめてきた。」
「智香子‥」
智香子は母に優しく頷くと、珍しく感慨に耽りながら亡き父の思い出を語り続けた。
「父さんは昔から無口な人だった‥だから怒る時は本当に怖くて、姉さんと逃げまわってた‥でも今ならわかる。取っつきにくい人で厳し過ぎると反発もしたけど父さんは家族を心から愛してた。母さんを助けることが出来て良かったと思ってる‥満足してるよ、きっと‥」
「そうかな?」
「そうよ。」
智香子は秀子の懐疑的な言葉を強く否定して更に穏やかな口調で続けた。
「私‥本当は自分を責めていたのかもしれない。健介を死なせたのは自分じゃないかって‥」
「えっ、どういうこと?」
母の意外な告白に美咲は驚いて訳を尋ねる。そんな娘を見ながら智香子はしみじみと続けた。
「健介は私の過度の期待をプレッシャーに感じてたの。あの子の遺品となった日記には、確かにそんな気持ちが綴られていた。あの子が地元の大学でなく他県の大学を選んだのは家を出たかったからじゃないか‥私のプレッシャーから逃れたかったからじゃないか‥健介の日記を読んで私そう思えて、だからかえって立ち直れなかったのかもしれない。私は自分が許せなくて‥」
「お母さん‥」
初めて聞かされた大学進学時の兄の真意を知り、美咲は驚いて父を見る。だが悦司は勿論知っていたらしく、娘にただ優しく頷くのだった。そんな二人を見ながら智香子は話を続けた。
「でも、ここに来てやっとわかったような気がする。あの子は親のプレッシャーなんかに負ける子じゃなかった‥自分の人生をしっかり歩もうとしていた‥私が自分を責める必要もないし、あの子に私の立ち直れない姿を見せるのは却って酷なことじゃないかって、やっとそう思えるようになったの。だって幻だったのかもしれないけど、やっと見ることが出来たんだもの、健介の笑顔を‥」
「幻じゃなかよ、本当に微笑んでくれたつよ。健介は‥そうでしょう?智香子。」
「母さん‥有り難う、故郷はやっぱり素敵な場所よ。これからのことはのんびり考えるわ。焦らずに‥」
美咲は母の言葉を嬉しく思い悦司と秀子を見る。その二人の目にも光るものがあった。美咲は思った。悲しみは癒えることはないだろうが、きっと皆で乗り越えていける。父と母と祖母‥自分にとってかけがえのない肉親であるこの三人は、自分がここを離れた後もしっかり地に足をつけて歩いていける。その手応えを十分感じていた。と同時に、美咲は不知火が見えるあの幻想的な夜をもう一度思い返していた。提灯の灯りを頼りに暗い境内を歩く。そこにはたとえ見えなくても健介も一緒にいる筈、もう一度みんなであの幻想的な夜を楽しみたいなと心からそう思う美咲だった。(了)
私の故郷の風物詩ともいえる不知火と傷ついた家族の再生を絡ませた人間ドラマを書いてみようと思いました。私は不知火を三度見に行きましたが、不知火の夜の幻想的な雰囲気がとても好きで、暗い中波の音を聞きながらそれが見えたという合図の爆竹を待つ時間がたまらないのです。この作品は勿論私が考えて書いたものですが、作品に出てくる高潮による自然災害は数十年前現実に起きたことです。私は当時地元にいませんでしたが、故郷で起きた悲劇に心を痛めたのを覚えています。人は悲しみにどう立ち向かいどう立ち直ればいいのか‥私だけでなく誰でも模索していることだと思いますが、この作品を読んで少しでも手がかりを見つけそしてこの作品で癒されて欲しいと思います。