副作用
これは作者のホームページ『飛空図書館』に掲載されているのと同じ作品です。
この作品はフィクションであり、実際の治療法とはいっさい関係はございません。
君たちは屈折矯正手術というものを知っているだろうか。
レーザーメスで角膜を削り、ピントを合わせ、正しい像を結べるようにさせる視力回復手術のことだ。
日本ではまだそれほどメジャーな手術ではなく、またモノが眼球だけに運が悪ければ失明の可能性がないというわけでもない。そのほか眼病治療のための切開手術が受けられなくなるなどといった弊害もある。
しかしそうした事情をすべて納得の上で手術を行えば、眼鏡やコンタクトを必要としない望みのままの視力を手にすることができるのだ。
私は二十歳のときに初めてこの視力回復手術を知った。
私は幼少時からかなり視力が悪く、いつだって眼鏡を欠かすことができなかった。裸眼だとあらゆるものがぼやけてしまいほとんど何も見えない。高校に進学してからはコンタクトをつけるようになったので、外見に関しては視力の良い人と区別がつかなかっただろう。しかし常にコンタクトや眼鏡が手放せない煩わしさというのは、同じ境遇の人ならばきっと分かってもらえるはずだ。
だからこの手術の事を知ったとき、私にはそれが非常に魅力的に映った。まったくの裸眼で鮮明に物を見ることができるなんて、とっくの昔に諦めていたことだからだ。
けれどこの手術はやはりそれなりに高額で、学生の身の上では気楽に行えるものではなかった。社会に出て手術費用を自分の都合でまかなえるようになった後も、視力を完璧に失ってしまう可能性が零では無いということでかなり悩んだ。
結局あれから五年の月日を経て、私はようやくすべての可能性を考慮に入れても自分の決心がけして揺るがないことを確信した。私はついにその手術に挑むことにしたのである。
病院で手術の時間を待つ間、私の心臓は早鐘のように鳴っていた。この手術の結果に対する期待感と、万が一失敗して最悪の結末が訪れた場合の恐怖心からだ。
手術の前に、この手術がどんな結果に終わろうとも構わないという旨の念書を書かされている。実際に手術を受けた人の話を聞き、本や雑誌などで情報を仕入れて自分なりに検討した結果、この手術を受けることを決めたのだ。だからその念書の内容はまさしく自分の本心に偽りないはずなのだが、それでも不安感は胸を突いてきた。
看護士が自分の名前を呼び、手術の準備が整った事を告げる。
もう後戻りはできない。
期待と緊張を胸に、私は自分の人生を一変させるかもしれない手術に望んだのだった。
手術は思った以上にあっさりと終わった。五年間もためらったわりに、手術にかかった時間は結局一時間もなかったというのはもはや笑い話でしかない。
もっとも意識を持ったまま行うため、実際の時間よりはだいぶ長く感じたのも確かである。
手術は今の段階ではひとまず成功と言えるらしい。実際に目で見てみないと本当のところは分からないが、それでも絶望的な結果が決まったわけでは無いという事で私はほっと胸を撫ぜ下ろした。
手術後から目に巻かれていた包帯がやっととれる。
私は再び光を得ると同時に、まったく新しい視界をも得ることができるのだ。否応無しに緊張が高まっていく。
医者によって徐々に包帯が外されていく。
私はゆっくりと目を開く。
少しずつ合っていくピント。
コンタクトも眼鏡もなしに、クリアな世界が私の目に飛び込んできた。
ああ。
私は感嘆の言葉を漏らす。
遂に望んでいた世界が私のものに――、
けれど、私の目に映ったのはそれだけではなかった。
視界に映し出された『異常』に私は迸るような悲鳴を上げた。
私の手術をした医者の背中には、恨みがましい目をした血まみれの女がおぶさるように圧し掛かっていた。
女性看護士の腰周りにはぴったりと、土気色の死人の肌をした赤ん坊が何人も張り付いている。
その他にも部屋のそこかしこには首無しの兵隊やら、下半身が焦げ付いている老人だとか、そこに居るはずがないものがはっきりと存在していた。
それなのに医者も看護士もそれに気が付いている様子がまったくない。
青ざめ戦慄いている私を不審に思ったのか、医者がどうかしたものかと顔を寄せてくる。もちろんその肩におぶさった女も近付く。
「視力に何か問題でも――、」
医者のすぐ横で女の血走った目が、私を覗き込んでにやりと笑った。その瞬間、彼女の口はべりっと耳まで裂けた。
私は悲鳴を上げると医者を突き飛ばして一目散に逃げ出した。
逃げた先でも私は怪異から逃れることができなかった。
次々と目に飛び込んでくる恐ろしい幻覚に、私は錯乱状態だった。
その時のことは良く覚えてないが、最終的に私は病院の片隅で保護されたらしい。
恐怖のあまり、自らの手で両目を抉り出そうとする寸前の事だったそうだ。
+ + + +
私の目には再び包帯が巻かれていた。
『見る』ということを私が何よりも怖がっていたからだ。
だけど私の見えるものに関しては、誰一人理解してはくれなかった。
もちろん私自身、自分の見えるものがなんなのか、どうしてそんなものが見えるようになってしまったのかはさっぱり分からない。
結局私は精神障害ということで、精神科医の元に連れて行かれることになった。
私の相手をする医者は穏やかな声の男だった。
もっとも私が精神科にかかるのはこれが初めてだから、もしかすると精神科医というのは皆こんな喋り方をするのかもしれない。
「つまり貴方は、恐ろしい幻覚が見えているということですね」
私は黙ってうなずいた。
もはや己が狂っているのかどうなのかさえ、自分では判断がつかなかった。
いや、私は半ば自分が狂っている事を覚悟していたと言ってもいいだろう。
むしろそれを認めることでこの異常な視界が治療できるのであれば、私は大喜びでそれを受け入れるつもりだった。
「それは貴方がレーザーによる視力回復手術を受けた直後のことだった、と」
医者の方からカサカサと紙の擦れる音がする。たぶんカルテでも見ているのだろう。
医者はしばらく黙った後、おもむろに私に言った。
「でしたらまず、それが本当に幻覚なのかどうか確かめてみましょう」
医者は私に包帯を外すように命じた。
私はためらいながらも恐るおそるそれを外し、思い切って目を開ける。
私の視界に、声の印象通り落ち着いた穏やかそうな外見の医者の姿が映りこんだ。そしてその背後にいる、存在するはずがない何人もの人間の姿も。
私は息を呑み思わず逃げ出しかける。椅子ががたりと音をたてた。
「どうしたのですか?」
医者が優しくたずねてくる。私ははっと我に返り、多大な労力をかけてなんとか椅子に座りなおした。
「もしかすると、私の背後に何か見えるのですか」
医者の言葉に私はびくっと肩を振るわせる。やはりどうしても私の目にはここに居るはずのない人間たちの、不気味な姿がはっきりと映ってしまうのだ。
「何が見えますか」
私は答える。
「生きているようには見えない、何人かの男女が」
ある者は首に紐を巻きつけ、ある者は両腕よりだらだらと血を流し続けながら、またある者はぱっくりと割れた頭蓋をさらし、そしてある者は腹から内臓を溢れさせている。
それらは見るもおぞましい、不気味な光景だった。
「では貴方の目には何人の人間が映っているのか、教えてもらえますか」
「五人……いや、」
私は視線を転じる。医者の背後に隠れるように、小さな子供が居た。その首には絞められた指のあとがはっきりと残っている。
「それと小さな子供の計六人」
「なるほど」
医者はかすかに目を伏せた。
「どうやら貴方は本物のようだ」
「本物の異常者ですか?」
私は自嘲気味にたずねる。しかし医者は首を振った。
「いいえ。本物の、――霊視者ということです」
たまに居るのですよ、と医者は言った。
「そこに居るはずのない、しかし幻覚でもないモノの姿を見たり感じたりしてしまう患者さんが来ることが」
「それは本当に幻覚じゃないのですか」
私はおずおずとたずねる。医者ははっきりと保証してくれた。
「貴方の目は幻覚を映しているようには見えない。それに貴方は私の後ろにいる方々の人数も当てたではないですか」
「もしかすると、先生もあれが見えるんですか?」
私は期待を込めてたずねたのだが、彼は首を振った。
「私には見えません。ですが、貴方と同じ症状を訴えて来る人の中で精神病を患っているように見えない方々は皆おなじ人数を答えていかれますので」
だから貴方も精神疾患ではないのでしょう、と医者は診断の結果を下す。しかしそれは私にとっての根本的な解決には為り得なかった。
「あの、これを見えなくするにはどうすればいいのでしょう……?」
私はすがるように彼にたずねるが、医者は残念そうに首を振った。
「それは私の管轄ではないですね。どうしても見えなくなるようにしたいというのなら、それこそ霊能者の類いをたずねるしかないと思いますよ。もっともそれが解決に結びつくかどうかは定かではありませんが」
私はがっかりした。これからこんな異常な世界で生きていく自信は、私にはまったくと言っていいほどなかった。
「ですがこれまで通りの生活を送るだけなら、貴方にとってはそれほど難しいことではないと思いますよ」
私はぎょっと顔をあげる。その途端後ろの人たちを見てしまい、私は慌ててうつむき直した。内心の動揺から、反射的に目と目の間に指を押しあてる。
その途端、私はやっと思い当たった。自分がこれらの異常なものを見るようになった理由に、ようやく気がついたのだ。
「気休めですが、とりあえず精神安定剤と睡眠導入剤を処方しておきましょう。眠っている間なら何も目にすることはないでしょうからね」
表情から、医者は私が言わんとした事に気がついたと察したのだろう。カルテにさらさらと診断の結果を記入していく。もっともそれが今明らかになった事実を正確に記載しているとは限らないわけだが。
「あの、ありがとうございます、先生。お世話になりました」
後ろのものを見ないよう私は視線を逸らし気味に礼を言い、診察室を後にしようとする。
扉を開ける直前、医者はついでのように私にこう告げた。
「五人とは私がこれまでに助けることができなかった患者さんの数です。そのうち一人は幼い自分の子供を道連れに、命を絶ちました」
私はとっさに後ろを振り返る。
「人はそれぞれ、色々な事情を持ち合わせています。貴方だけが特殊なのではないのです。どうかあまり気を病まないでくださいね」
六人の死者に囲まれて、医者はただ悲しそうに微笑んでいた。
――結局あれ以来、私は日常的にコンタクトをつけて生活している。コンタクトを外している時にだって、片時も眼鏡を手放さない。
私が思っていた通り、あれらの光景は裸眼の視界にだけ映るものだったのだ。
たぶん私は昔から、裸眼の時にはずっとあの世界が見えていたのだと思う。ただ極端に視力が悪かった私は、これまでそれに気付くことがなかったというだけだ。
視力回復手術を受けてクリアな視界を得たことで、私はあれらの怪異もはっきりと見えるようになってしまったわけである。
ならば解決方法はただひとつ、極力裸眼になる機会をなくせばいいだけのこと。
そうした生活は視力回復手術を受ける前と変わらぬ面倒なものだけれども、あんな恐ろしい光景を見続ける事を考えたら多少のわずらわしさを我慢する方がよっぽどマシだ。
だからもし私とおなじ手術を受けようと考えている人がいるのなら、私からひとつだけ忠告させてもらおう。
手術を受けるときは、起こり得る様々な弊害、副作用を覚悟した上でそれを決めること。
そしてその副作用の中には、ごく稀に私のような事例があることを覚悟しておくこと。
なにしろ人がどんな事情を持っているかなんて、他人はもちろん当の本人にだって分からないことが多いのだから――。
この作品はフィクションであり、実際の治療法とはいっさい関係はございません。