演罪
「嘘、ついたのか?」
俺があいつにそう尋ねた時、純白のレースのカーテンが風に靡いた。窓から対面の白壁に光が射して、部屋に音のしない雷のような閃光が走った。
眩んだ目が治ると、あいつは依然ベッドに腰を下ろしたまま首を持ち上げて天井を見ていた。天井には、ベッドの脚の上部に取り付けられた装飾のガラスがカーテンの隙間から漏れ入る光を受け、楕円形の光の玉を写していた。
「俺が嘘を憎んでるの、知ってるだろ」
「だって、言ったら殺すって脅されてたんだもん」
そう言うと、あいつは俺に同情を誘うようにちらりと横目を向けた。
「本当に殺すわけないだろ」
あいつは正面の壁を見つめてしばらく沈黙した。俺にはあいつが何を考えているのかさっぱりわからなかったが、やがて口を開いてこう言った。
「大丈夫だよ、院長先生ならすぐに気付くから。あの子が一部の男の子たちにいじめられてるって」
「そういう問題じゃない」
俺は即答した。
「じゃあどういう問題?」
「お前が、俺がお前と付き合うために出した条件を破った問題だ」
あいつは思い出したように目を丸くした。すぐに肩をすぼめてしゅんとした様子を見せる。
「……ごめんなさい」
俺はあいつの謝罪を聞いたところで部屋を退出した。あいつは自分の部屋――あの申し訳程度に片隅に観葉植物が置かれただけの、白が全てを埋め尽くす部屋に取り残される瞬間、小さな声で俺の背に問いかけてきた。
「別れたいの?」
俺はドアを閉めかけていた手を止めた。
「……俺は別れたくないよ」
38号室のドアを閉めた俺は、凝った肩を回しながら自分の部屋へと廊下を歩き出した。嘘をつくと肩が凝る。
あいつの部屋のある廊下が最初に別の通路と繋がる十字路に出たところで、すぐ真横ににこやかな笑みを浮かべて立つ人物に気付いて足を止めた。
院長先生は俺の横顔に尋ねた。
「彼女の様子はどうだったかね?」
一体この人はどのくらいこの場所で俺を待っていたのか、少しだけ気になった。
二年ほど前のことだった。
「――さんから君が告白されたって別の子から聞いたんだけど、それは本当なのかい?」
院長先生は白衣の人間を数人連れてわざわざ俺の部屋を訪ねてくるなり、開口一番にそう訊いた。
「あー、でももう断りましたよ」
いい年した大人が大挙して子供たちの恋愛事情を訊きにくるその異様さが、当時の俺には空恐ろしく感じた。実際、大人たちの目的はそんな稚拙な好奇心などではまったくなかった。
院長先生は俺の言葉を無視するように続けざまに質問した。
「――さんとは普段から話す仲かい?」
「君に告白した時の彼女の様子はどんな感じだったかね?」
「告白した時の言葉は覚えている?」
俺が各質問に答えると、大人たちは後ろでひそひそと言葉を交わした。大人たちの眉間に刻まれたしわが、子供たちの恋愛事情に興味をもってここへ来たわけじゃないことを悟らせた。
そして院長先生は言った。
「やっぱり、彼女の告白にオーケーしてくれないかな」
院長先生の唐突な言葉に、俺は寸の間魚のような顔になっていたと思う。
「でも、もう断って――」
院長先生は俺の片方の耳に顔を近付けた。
「ここにいる子たちは、君も含めて社会に出るための真っ当な素養を身につける必要がある」
院長先生のごつごつとした指が、俺の手首に取り付けられた重苦しい鈍色の金属に触れた。ここへ連れてこられて最初にこれを――手錠の代替品とでも言いたげな腕輪を取り付けられた。
「これはいわば、君が社会性を学ぶ一つの機会でもあるんだよ」
「社会性……?」
「君が私たちの頼みを聞いてくれれば、それは協調性がある――つまり人に合わせる能力があると判断できる。君たちがここを退院するための条件の中に、それがあるんだよ」
俺は大して明晰でない頭脳で必死に考えを巡らした。
「つまり、院長先生の言う通りにしたら早く退院できるってこと?」
院長先生は微笑んだ。
「もちろん、君が他にイケないことをしなければ、の話だけどね」
「わかりました」
俺はさっそく返事を取り消してこようと部屋を出ようとした。
「そうそう、オーケーするのに一つ条件を出してほしいんだ」
そして院長先生は、俺にあいつの前でのみ、一つの性格をもって接するように言った。
いつもの時間、いつもの場所に、あいつはいた。
中庭には天蓋がなく、吹き抜けの空が顔を覗かせていた。風は青々とした芝生を撫でて鼻孔をくすぐり、いわばそこは俺たちの憩いの場所だった。無菌室のような白塗りの部屋で生活させられる俺たちにとっては。
俺があいつの座るベンチに近付くと、あいつは萎んだ目でこちらを見ずに「隣、空いてるよ」と言った。
俺は素直に相手の要求に従った。
少し間を置いてタイミングを見計らってから「ごめん……」と俺は言った。肩が力む。
「努力はしたんだ。でもやっぱり、嘘をついた奴を好きにはなれないよ」
「そっか……じゃあ今日までだね、私たち」
あいつはそう言った後も、しばらく名残惜しそうにベンチの縁を手で握っていた。初めてあいつにしおらしさのようなものを感じた気がした。
やがて、あいつは意を決したように立ち上がった。
「じゃあね、今までありがと。付き合わせてごめんね」
「いや……」
口ごもった俺の声は聞こえたのか聞こえてないのか、気付いた時にはあいつの姿は消えていた。
ようやく俺の緊張は解かれた。院長にもすでに別れてもいいと許可をもらっていた。
嘘つきが「嘘つきを好きにはなれない」と嘘をつく。これほど馬鹿らしいこともないように思えて、肩の荷が下りたばかりの俺は盛大に笑い出した。
「何がおかしいの?」
耳元で妖艶な女が囁いた。首筋には冷たい感触。脳の思考が瞬間的に凍結するのを感じた。
そう言えば聞き覚えのある声だったと気付いた頃、背後に立っているのがあいつで、首筋にあてがわれているものがナイフであることを俺は理解した。理解できなかったのは、食事の際にも出てこない金属のナイフをどうやって手に入れたのか、そしてなぜあいつがこんなことをしているのか。だが後者に関しては、思い出すことがあった。あいつが『両親を殺してここに送られたらしい』という噂。
噂は真実だったのだと、俺はナイフをあてがわれた今確信した。
「何で……こんな……」
喉を動かすと、ナイフの刃先が食い込んで死の冷たい恐怖が一層近くに感じた。
「『何で』?」
あいつは俺のあごを腕で引いて天を仰がせた。青空のあるべき場所に、上下逆さまのあいつの顔があった。見たことのない表情をしていた。簡単に人を殺せそうな、情味のかけらもない表情だった。
「嘘つきは憎まれて当然なんでしょ?」
全部ばれてる、俺は血の気が引く感覚と共にそう悟った。そして口調からは、最初から――告白してきた時からあいつが俺のことを好きではなかったことを知った。そんな嘘をついて何が楽しいのか、俺には今後一生かけてもわかる気がしなかった。
「さすがにあの時の嘘は、笑うのを堪えるのが大変だったんだよ? 『嘘つきを憎む』はずのあなたは、本当に殺すわけがないのに殺すと嘘をついた人にはまるで反応しないで、私が嘘をついたことにだけ取って付けたような過敏な反応をしたでしょ。素人でももうちょっと注意できるって。まあ、今までも数えればあくびが出ちゃうくらいのボロがあったんだけどね」
どうやら、嘘をつく相手を間違えたようだった。
「ご、ごめん……ゆ、許して……」
声が上ずった。
「涙まで流しちゃって。この分じゃもうすぐ漏らしちゃう?」
あいつの表情が楽しそうなものから一変した。
あいつは俺に尋ねた。
「助けてほしい?」
拷問にかけられる前の敵国の捕虜になった気分だった。
俺は微かに首を縦に振った。それ以上強く振るとナイフに首を裂かれそうだった。
「それじゃあ、私に関して院長先生に頼まれたこと、全部話して」
「お、俺が院長先生に頼まれたのは……」
俺は院長先生という単語で、院長先生から渡されたものが自分のズボンのポケットに入っていることを思い出した。
次いで、自分の愚かしさに気付いた。首に触れる冷たい感触のおかげで、目の前の女が嘘つきであることを忘れていた。瞬き一つせず、口を真一文字に結んでじっと見つめるあいつの顔が心を圧迫してくる。
「院長先生に頼まれたのは?」
あいつはナイフを首に強く食い込ませて急かした。あいつの顔に疑念の色が生じ、俺はあいつが勘づき始めたことを悟ってズボンの上からポケットの中のスイッチを押した。
次の瞬間、身体に強烈な電気が走った。俺はしばらく動くことができなかった。ようやく身体が動かせるようになってベンチの裏を見ると、あいつが芝生の上に倒れていた。強烈な電気はあいつの腕輪を伝って俺にも流れたようだった。
ナイフが落ちていた。見つけると同時に俺はそれを拾っていた。拾った覚えはない。
だがあいつは俺を殺そうとした。ナイフを握った状態でそう思うと、突然血液が煮えくり返るように怒りが身体を満たし始めた。身体が熱くなり、思考が成立しなくなり、やがて苛立ちは絶頂を迎えた。熱く滾る全身の血液が、あいつを殺さなければならないという使命感で俺を満たした。
俺はすぐさまあいつの上にまたがってナイフを振り上げた。近くの建物のドアが勢いよく開いた。
出てきた白衣の男は俺を見るなり慌ててポケットに手を突っ込んだ。俺の身体には再び強烈な電気が流れた。
院内の廊下を院長と数名の白衣の大人たちが早足で歩く。
「彼がスイッチを押したということは、彼女によって彼の命が危険にさらされたということです。やはり彼女に関しては我々のみで対処した方が……」
男の強い懸念は眉に表れていた。
だが院長は冷静にそれをいなした。
「それは現実的でないとすでに判断したはずだ。実際は彼には怪我一つなかった。今度こそ凶器の排除を徹底し、監視を伴って彼女の観察を続行する」
別の男が言う。
「やはり彼への告白も、彼女の虚言癖の一部だったようですね」
「問題はそこだ」
今の院長に柔和な面持ちはなかった。
「彼女は嘘で安心や快感を得ているわけではない。理性で嘘をついている。つまり、そこには何らかの目的がある」
「でも、両親を殺してないって主張を通すために、とにかくでたらめに嘘をついていたのが、そのまま癖になったという可能性も」
院長はさらに顔をしかめた。
「確かにその可能性もある。だが私には、彼女の本性はもっと賢い気がしてならないんだ……」
やがて彼と彼女の入院する病室に到着し、院長はいつもの温和な笑みを作ってドアを開けた。
また二年前の夢だった。きっとこの悪夢が、私の脳のストレスを緩和してくれているのだろう。
何度も思い返し、何度も夢に見たあの夜の光景。
リビングには、血まみれで横たわる両親。そして血の海の上で、真っ赤に濡らした包丁を握ったまま直立する、当時まだ9歳の弟。その顔に人間の情緒の面影は微塵もなかった。
私は弟がこうなるまで何もできなかった。私はそれを私の罪とし、この命が尽きるまで弟を守り抜くことを、その罰とした。
何度目か知れない問いに、私は何度目か知れない同じ答えを返す。
「私は殺していません」