9. 予兆
鞘に納めた短剣を手に、アルディスは剣を構えたままの二人の騎士をそれぞれ一瞥すると、立ち尽くすアムリアナへと目を向けその短剣を差し出した。アムリアナは口を開きかけたが、何の音も紡がれはしなかった。
「持って行け、お前の物だ」
黒鞘と柄に金で繊細な装飾の施された華奢な短剣、アムリアナの守り刀であった。メインデルトが陥落した日にアムリアナの手元から奪われ、自害の為にとアルディスから手渡され、そして又すぐに手放す事を余儀なくされた一振りであった。
アムリアナは、その短剣に目を向け、そしてアルディスと瞳を合わせる。彼女は再度、身を引き裂かれる思いで運命を呪った。アルディスの意図が、悲しい程に明確であったからだ。彼はアムリアナを、彼に剣を振るったメインデルト騎士等を、弾劾するつもりなど無いのだ。
ルデラントが、この帝国の皇子を警戒しつつも構えていた剣を下ろした。
アルディスは、身動き一つせずに見詰めて来るアムリアナの側へゆっくりと近寄ると、彼女の手を取り、そっと短剣を握らせた。
「ユーリ.....」
その優しい手付きと木の実色の瞳の鈍い輝きに、思わずその名を呟き、震える唇を噛んだ。そして己の手に戻った短剣を握りしめたまま、彼の胸に飛び込み、その背をきつく抱きしめた。
アムリアナは形容し難い悲しみを覚え、アルディスは形容し難い愛情を覚えアムリアナを強く抱きしめると、その顔を手繰り寄せ、ふっくらとした唇に口付けた。驚きに目を見張る二人の騎士など、気にもならなかった。
ルデラントはどうすべきかも分からずに肩を落とすと、小さく溜息を漏らし、手にしたままであった剣を腰の鞘に納めた。
「すまない」
唇を離した時、アルディスはそう囁いた。
「俺には、この場を見逃す事位しか、お前にしてやれる事が無い」
アムリアナは、瞳を潤ませながら首を横に振った。金色の髪が揺れた。アルディスは、まるで壊れ物にでも触れるかの様な優しい手付きで、彼女の髪を幾度か撫でた。
「せめて、お前の為に祈っている。さあ、行け」
アルディスを見詰めるアムリアナの、震える唇が確かに言葉を紡いだ。
「愛しているわ.....」
その掠れた囁きを辛うじて聞き取ったアルディスの瞳に、暗い影が落ちる。答える事など出来なかった。帝国を裏切っても良いと思える程に彼女を愛しているというのに.....。彼は両手でアムリアナの頬を挟み、答える代わりにその唇をもう一度だけ塞いだ。そしてその背をルデラントの方へと押した。
アルディスと、そしてルデラントの警戒と敵意も露な視線がぶつかる。
「見なかった事にする。早く行け」
そう促すと、アルディスは彼らに背を向けた。
「何故...?」
ルデラントの問いに、アルディスは背を向けたまま低く答えた。
「彼女の為だ」と。
その言葉にルデラントは、それ以上の長居は無用とアルディスに会釈し、アムリアナの元へ足早に歩み寄るとその手を取って彼女を促した。
二人の騎士と共にアムリアナが去った後、一人残されたアルディスは、暫くの間身動き一つせず立ち尽くした。
部屋から連れ出されたアムリアナは、ルデラントと共に足音を忍ばせながら足早に進んだ。もう片方の騎士は、扉の外に倒れていた仲間達の元に留まったまま付いて来てはいなかった。
アムリアナには最早運命を呪い悲しんでいる暇など無かった。彼女にはメインデルト王女として、帝国から国を取り戻す義務があるのだ。脳裏から無理矢理アルディスへの想いを拭い去ったアムリアナは、王女としての表情を取り戻した。尤も、目に映る異常な光景の為に、アムリアナの表情も厳しくならざるを得ない。驚いた事に衛兵達が回廊の端々に座り込んでいるのだ。
「あれは、貴方方の仕業なの?エイドリアン」
アムリアナが小声で尋ねると、エイドリアン・ルデラントは首肯した。
「食事に薬を盛りました。この状況下です。姑息な手段とて使わざるを得ません。今頃は、クルトニア兵の大半が眠っている筈です。こちらへ、姫」
そう言って示された行く手に、アムリアナはクルトニア兵の姿を認め息を飲んだ。
「我らの手の者です。ご安心を」
その言葉にほっと息を漏らし、敵の鎧を着込んだ兵へと目を向けると、彼はアムリアナに目礼を寄越した。
「部屋で第五皇子と遭遇した。コーヘンを残して来ている」
すれ違い様、ルデラントが仲間にそう告げると、彼は後ろを仰ぎ片手を上げて他の仲間に合図を送った。そしてアムリアナ達がやって来た方向へと足早に去った。その後を何処からとも無く現れた同じ衛兵姿の仲間が、足を止める事無くアムリアナに目礼を送ると追って行った。
「彼らは、何処へ?」
尋ねるまでも無い事を、アムリアナは尋ねていた。
「第五皇子の捕獲に向かいました」
「彼は、私達を見逃してくれたのに.....」
「ですが彼は、帝国の皇子です。敵です。信用すべきではありません」
ルデラントの口調は静かな物であったが、アムリアナへ向ける瞳には憤りが見え隠れしている。
「....敵である前に、彼は私の幼い日の大切な友人だったわ...」
「.......」
ルデラントは無言のまま、俯くアムリアナをこの城内にある隠し通路の一つへと導き、石の扉を閉め、その通路を外部から隠した。尤も隠したところで、城内に無数にある隠し通路の総ては、クルトニアに通じたデギナン公と、そして恐らくエドキスの知る処であったが、時間稼ぎにはなるであろう。
内部は真の暗闇であり灯り一つ灯されてはいない。片手をルデラントに取られ、もう片方の手で凍える程に冷たい壁を伝いながら、彼女は戸惑いもせずに進んだ。
「姫......」
暫くの沈黙の後、ルデラントが口を開いた。だがその後の言葉は続かなかった。
「ごめんなさい.....、感傷に浸っている場合じゃない事くらい分かってる」
言いよどむルデラントに、アムリアナは詫びた。彼が何を言いたいのかなど、分かっていた。
「.....」
「己の立場は、痛い程理解しているわ、エイドリアン」
「.....信じてよろしいのですね?」
「ええ」
それはルデラントの知る、気の強い姫君のしっかりとした声であった。後は沈黙を守ったまま、彼らは狭くじめついた隠し通路を進んで行った。
アルディス付きの小姓レイクは、言いつけられた熱い葡萄酒の乗った銀盆を手に、主の私室へ向かう道すがら奇妙な事に気付いた。つい先程まで目を開けて立っていた衛兵が、いびきをかいて眠り込んでいるのだ。
「やれやれ、しょうがないなあ。こんなとこ誰かに見られたら、首が飛ぶぞ」
少年は葡萄酒の乗った盆を脇に置くと、その兵を揺さぶって起こしてやろうとした。
「おいっ!起きろよ!おいっ!おいってば!」
だが兵は、すんとも言わずに眠りこけている。レイクは溜息と共に立ち上がった。
「だめだこりゃ....。知らないぞ、職を失っても。僕は取りあえず起こしてやろうとしたんだからな」
眠りこけている兵に向かってそう言うと、レイクは葡萄酒の盆を手にその場を後にした。そして...、少年は再び床で眠りこけている衛兵達を見付ける事となったのだ。そこにも...、あそこにも.....。
唯事では無かった。レイクの胸の内に不安が過った。つい先程までは、眠たそうな顔をしてはいたが、きちんと起きていた兵達である。
(アルディス殿下に知らせなきゃ)
レイクは駆け出した。その拍子に杯の中の熱い液体が、勢い良く撥ね出して少年の手にかかった。彼は盆を取り落とし、下々の兵達から聞き覚えた罵りの言葉を吐いた。床に落ちた銀本と杯がけたたましい音をたてたが、兵達の誰一人として目を醒す者は無かった。少年の胸に更に不安が押し寄せ、手に負った火傷にもかまわずに、彼は一目散に駆け出していた。
エドキスとブラコフ候は、何時に無く今宵は深酒をしていた。ブラコフがエドキスにそろそろ休む様にと勧めたちょうどその時、広間の扉が勢い良く開く音がした。二人は同時にそちらを振り返った。案内も無しに、息を切らせながら二人の前へ足早に進み出て来たのは、アルディス付きの小姓レイクであった。
「どうした?坊主」
エドキスが小姓の息を切らしている様を見て、面白い物を見るかの様な笑顔を見せた。しかしその瞳は笑ってはいない。
「ご無礼をお許し下さい、エドキス殿下、ブラコフ候殿」
レイクは呼吸を無理にでも整えようとしていた。彼はアルディスの姿を求めて走り、次にブラコフ候の姿を求めて彼の私室へと走り、そしてこの広間まで階段を駆け上がり、駆け下がりして飛び込んで来たのである。
「何かあったのか?レイク。アルディス殿下に何か?」
ブラコフは、やや厳しい表情で尋ねた。
「城内の様子が変です。衛兵や従者達が皆、眠り込んでいるのです」
エドキスとブラコフは顔を見合わせた。
「こちらの従者殿も、幕の向こうで眠っています」
「何?真か?先程姿を見たばかりだぞ」
驚くブラコフに、少年は神妙に頷いた。
「アルディスはどうした?」
エドキスは素早く身を起こし、少年を見据えて尋ねた。少年の顔が青ざめた。
「それが..、お姿が見えないのです。先程、外を散歩なさった後、もう休むと仰せられて、私に熱い葡萄酒をお言いつけになられてから、部屋へお戻りになられた筈なのですが...」
「いなかったんだな?」
エドキスの問いに、レイクは緊張の面持ちのまま頷く。
「まあ、己の身位、己で面倒見られる奴だ。アルディスの事は心配あるまいが......」
エドキスは立ち上がると、傍らに立てかけておいた剣を佩いた。
「見に行こう」
既に立ち上がっていたブラコフに言うと、エドキスは早い足取りで部屋を出た。深酒をしていたのが、嘘の様であった。
歩廊の衛兵達の体たらくを確かめたエドキスの眉間には、今や深々と皺が刻まれていた。尋常では無い。
「レイク、皆を叩き起こせ。短剣で傷を負わせてでも起こせ」
レイクは強ばった表情で返事を返すと、即座に命令に従った。