6. 哀絶
「お前がエスニアへ人質として出されていた頃、確かメインデルトも人質を差し出していたな......。それがアムリアナだったってわけか?」
エドキスは、二つの銀製の杯に葡萄酒を注ぎながら尋ねた。アルディスはエドキスの差し出す杯を受け取りつつ、素気無く答えた。
「だから何だ」
エドキスがにやりと笑いながら、布張りの長椅子に腰を下ろした。
「おかしいと思ったぞ、実際....。今のお前に人に歌を教えるなんて、そんな芸当が出来るわけ無いだろうからな。......殊に、あの歌を誰かに歌って聴かせるなんてな.....」
室内には他に人の姿も無く、双方が口を噤めば静けさが辺りを支配する。音といえば、せいぜい炉の中で燃える炎が時折爆ぜる位なものであった。夜も更けている。
「あの歌は.....、どうしてもシルキアの姫を、お前の母を思い起こさせる......。初めて見かけた時も、姫はあの歌を歌っていた....、今日のアムリアナの様に....。気が触れて、お前と私の見分けがつかなくなっても、あの歌だけは忘れなかったものな、あの薄情な姫は......」
エドキスは杯の中身を見詰めながら、ぽつりぽつりと呟き、やがて自嘲的な笑みを浮かべると杯を口にした。アルディスは聞いているのかいないのか、長椅子に足を投げ出して横たわったまま、天井を仰いでいた。
「それで?人質同士仲良くなったってわけか?」
エドキスは弟に視線を向け、唐突に話を元に戻した。アルディスは何も言わない。
「良くエスニア側が許したな。いかな子供同士とはいえ、帝国では考えられんぞ、人質同士の接触なんぞ」
「エスニアだって、同じだったさ」
「ほう?」
エドキスは興味深気に片方の眉を上げて見せた。
「人目を忍んだわけか?ガキ同士のロマンスって奴か」
からかう様に言うと、エドキスは声を上げて笑い出した。
「お前にも、そんな美しい思い出が一つはあるものなんだな、アルディス」
「そんなんじゃ無い。ほんの幾度か顔を合わせた事があっただけだ」
アルディスは、エドキスを睨みつけながら忌々し気に答えた。
「だがあの歌を教えてやったんだろう?」
「覚えていない」
アルディスは上体を起こし杯を飲み干すと、立ち上がって足早に出て行った。
「相変わらず、嘘の吐けない奴だな.....」
エドキスは皮肉気に独り言ち、不機嫌な弟の背を見送った。
雪の積もった中を、アルディスは目的も無く歩いていた。ここ数日、雪は降ったり止んだりであったが、今日の空は蒼く晴れ渡り、太陽がその顔を見せている。
ここ数日、アルディスはアムリアナの顔を見ていなかった。エドキスから彼女を後見する事を命じられた手前、一応様子を伺いに部屋へは足を運んでいたが、侍女達からの報告を受けるのみにとどめ、彼女の前に姿を見せる事はしなかった。
アムリアナがエスニアでのあの幼かった日々の想い出を、今まで大切にしてきた事を知ってしまった以上、アルディスは彼女に対し、単に征服した側の者として義務的に接する事が出来そうに無くなった事に気付いた。再会してから彼の胸につかえていた何かは、あの日を境に苦痛以外の何物でもなくなった。彼にとっても、エスニアで人目を忍び彼女と過ごした時は、人質という危うく不自由な立場に置かれていたにも拘らず、美しい日々であったのだ。
そのエスニアという王国も、シルキア同様帝国の一部となり、もはや無い。
何かが足元に飛んで来た。物思いに耽っていたアルディスは我に返り、屈んでそれを拾い上げた。布切れを継ぎ合わせて作られた、粗末な毬のような物であった。
ふと気付くと、木陰に小さな子供が二人、こっそりとこちらを伺っている。どうやらすぐそこは、下働きの者達の仕事場のようであった。おそらく洗濯小屋か何かであろう。人々の立ち働く様子が、小屋の開け放たれた扉口から遠目にも見て取れた。
城内の使用人達は、数日前にすでに解放されていた。クルトニア軍の手に落ちたこの城を、去ろうという勇気を持ち合わせていた使用人はいたのであろうか.....。アルディスは、そんな事を思った。実際、この冬の季節に職を捨てて城を去った愛国心に溢れた者は皆無であった。平民達にとっては、命と給金さえ保証されれば、支配者が変わろうとも、そんな事には容易く目を瞑れるのである。
「お前達のか?」
アルディスが毬を掲げて尋ねると、子供の一人がこくりと頷いた。アルディスは、その粗末な毬を片手で軽く抛りながら木の下の子供達の前まで来ると、その前に屈んだ。「ほら」と言って毬を差し出すと、二人の少女は嬉しそうに破顔してそれを受け取った。
「一度会った事があるな、お前達」
アルディスは微笑んだ。彼は以前、寒さに震えていた彼女達に自分のマントを与えた。二人の少女も、にこにこしながら頷いた。今日は二人とも、粗末ながらも厚地のマントをきちんと着込み、毛糸の帽子で小さな頭をすっぽりと被っていた。
「名は何という?」
「私はマリーで、この子はエリン」
大きい方の少女が、はにかみながら答えた。
「おうじさまは?」
小さい方の少女が、無邪気に尋ね返した。
「俺か?俺はアルディスだ」
「アルディスおうじさま?」
幼い方の少女は、小首を傾げている。初めて会った時のアムリアナは、ちょうどこれ位の年だったなと、アルディスは思った。
「皇子様は、クルトニアの皇子様でしょう?」
「ああ」
「じゃあ、アムリアナ姫様の事を知っていらっしゃる?」
年嵩のマリーが、ぎこちない口調で尋ねた。
「ああ」
「王女様は、死んじゃったの?」
少女達は、悲し気な表情を見せた。
「まさか、王女は生きておいでだぞ」
「ほんとうに?」
「ご病気なんかじゃない?」
「ああ、王女は健やかだ......」
アルディスの顔から、俄に笑みが消えた。アムリアナは生きている。だが彼女が健やかである筈が無い。心身ともに深く傷付いているというのに......。
少女達が不安げな顔でアルディスを見詰めていた。小さい方の少女が泣き出しそうな顔になった。アルディスははっとし、再び微笑んだ。
「王女は、健やかだ、案ずるな」
アルディスは優しく言った。
「さあ、もう行け。あれはお前達の母だろう?」
アルディスが小屋の扉口に立ってこちらを不安気に眺めている女を示しすと、少女達はにっこりと頷いた。アルディスも微笑み、二人の頭に軽く手を置くと立ち上がった。
「又な」
「さよなら、アルディス皇子様」
「さよなら、アルディスおうじさま」
少女達は競う様に挨拶をすると、踏み固められた雪の上を、危なげに母親の方へと駆けて行った。
踵を巡らせたアルディスの足は、自然とアムリアナの部屋の方向へと動いた。歩廊の辺りをうろうろとしていたらしき少年が、アルディスの姿を認めるや一目散に駆けて来た。小姓のお仕着せを身に纏っている。
「殿下、表へお出でだったのですか?」
「ああ」
「先程、ブラコフ候殿が殿下を捜しておられました」
小姓は、仔犬の様にアルディスの後に付いて歩きながら報告をした。
「そうか...、で、ブラコフは何処にいる?」
「アムリアナ殿下に謁見しておられます」
「わかった」
アルディスが歩きながらマントを脱ぐと、小姓は素早くそれを受け取った。
アルディスがアムリアナの部屋を訪れると、ブラコフ候が彼女に、数々の式典の大まかな段取りなどを説明している最中であった。
「これは殿下」
アルディスの入室に気付いたブラコフが話を中断し、傍らの候の側近が、アルディスに対し慇懃に頭を下げた。
「邪魔をする気は無い。続けろ、ブラコフ」
「されば...」
ブラコフ候は、書状を片手に話を続行した。そのブラコフ候に半ば背を向ける様にして肘掛け椅子に座っていたアムリアナが、顔を上げてアルディスを見た。アルディスも又、彼女を見詰めた。アムリアナの顔の痣は今では殆ど消えており、やつれた白い顔の大きな瞳の色だけが、やけに蒼く目立った。昔彼が見た、南の海の色の様に鮮やかな蒼であった。アムリアナはやがてアルディスから哀し気に瞳を逸らした。ブラコフが話し終えるまで、物音を立てる者は無かった。
明後日に執り行われるメインデルト王と王妃並びに王太子の葬儀の後、左程の日を待たずして戴冠の儀と婚礼の儀が早々に執り行われる事となっていた。アムリアナは無表情のまま、ブラコフ候の話を聞いていた。
「ご質問はございますか、アムリアナ殿下?」
話の最後にブラコフが尋ねる。
「いいえ、ありません」
アムリアナは身動きする事も無く答えた。ブラコフは頷くとアルディスへと向き直った。窓辺によりかかり腕を組んでいたアルディスが口を開く。
「俺を捜していたそうだな?」
「いかにも。夕餉の後にでも、私に時間を下さいます様に。殿下にはアムリアナ様の後見者として式典での役目もございます故、それについて耳に入れて頂かねばならぬ事もございます」
「分かった」
「なれば私共はこれにて」
ブラコフとその側近は、頭を下げると部屋を去った。室内に沈黙が流れる。無言のまま顔を上げたアムリアナの蒼い瞳は、アルディスの木の実色の瞳とぶつかった。
「顔の痣が消えたな」
アルディスがぽつりと言った。
「心の痣は、生涯消えないわ」
「だろうな....」
アルディスは、アムリアナの傍らへ歩み寄った。
「外へ出ないか?空は晴れてる」
アムリアナが物憂気に窓枠に切り取られた空へと目を向けた。
「いいの?あのエドキスは私にここを出る事を禁じたわ」
「かまうもんか、女一人に何が出来る?」
その言葉に、アムリアナはかっとして立ち上がると、アルディスの頬目掛けて右手を振り上げた。その腕をアルディスは難無く掴んだ。彼女はアルディスを睨み、やがて肩を落とすと力無く口を開く。
「...変わってしまったわね....、貴方も...私も......」
「.....人間なんて、変わって行くもんだろう。もしも生まれたままの心を持ち続けている様な奴がいたなら、是非ともお目にかかりたいもんだ」
「ユーリ......」
アムリアナの唇から洩れたその名は、アルディスの心を抉った。彼を見詰め揺れる蒼い瞳が、アルディスの心を締め付けた。
「何故...貴方がユーリなの?.....何故ユーリが、クルトニアの皇子でなければならないの.....何故...」
アムリアナは声を詰まらせ、大きく揺れる瞳からぽろりと涙を零した。アルディスは思わず彼女の髪をくしゃっと優しく掴んでいた。そうだ、何故自分達はこんな形で再会しなければならなかったのか.....、何故、運命の女神はこんなに残酷な仕打ちを自分達にするのか.......、何故.......。
「すまない......」
幾多の苦悩と悲しみが、一言の謝罪の言葉に変えられ囁かれた。唇を震わせながらアルディスを見詰めるアムリアナの手が、己の髪に触れていた彼の手にそっと重ねられた。透明な滴は、ほろほろと落ちる。アルディスのもう片方の手がアムリアナの頬にそっと触れ、涙の作った筋をなぞると、そのままそっと彼女を自らの胸に抱き寄せた。そして幼かった日々にしてやった様に、その金色の髪にそっと口付けを落とした。アムリアナは抗う替わりに、アルディスの胸に縋り付いて激しく泣き出した。アルディスは、アムリアナの髪をその背を優しく撫で、やがて彼女を強く抱きしめた。突如、言いようも無い程の憎悪の念が沸き上がった。近い内に彼女はエドキスのものとなってしまう。否、彼女はすでにエドキスの手のうちに落ちているではないか。誰あろうアルディス自身があの時立ちあっているのだ。
(何故止めなかった?エドキスと刺し違えてでも、何故彼女を救わなかった?)
残酷なやり口で、アムリアナを精神的にも肉体的にも酷く傷付けたエドキスを、アルディスは今すぐにでも飛んで行って刺し殺してやりたい衝動にかられた。そして自分自身の胸をも、短剣で切り裂きたい衝動にかられた。彼女を救わなかった己とて同罪なのだと、分かっていた。どう足掻いたところで、己とてクルトニアの人間、彼女にしてみれば侵略者なのだと.....。
「貴方と、もっと別の形で再会出来ていたなら、どんなに良かっただろう.....、ユーリ.....」
アムリアナが泣きながら呟く。そして涙で乱れた顔を上げた。その真っすぐに見詰めてくる濡れた瞳の、何と悲しく且つ扇情的であった事か。胸の奥に鋭い痛みが走った。まるで何かに貫かれたかの様であった。そんな痛みは、嘗て味わった事が無い。そして胸を重く締め付けるその感情を何と呼んで良いのか、アルディスには分からなかった。だが一つ理解する事が出来たのは、己の腕の中にいるアムリアナを離したくないという気持ちであった。
どれ程の間、そうして見詰め合った後の事であったか、アルディスは引き寄せられるかの様にゆっくりと背を屈めた。見詰め合う瞳の距離が狭まり、互いの息が感じられ、唇が今にも触れそうな程に近付いた。だが、悲しい事に寸でのところでアルディスは理性を取り戻し、彼女から苦し気に顔を背け、大きく息を吐いた。
(これ以上事態を悪化させてどうするんだ、俺は、一体どうしようっていうんだ....)
アルディスは己を詰りながら心の隅で運命を呪い、アムリアナは苦し気に息を震わせながら、今一度涙を零した。