始めましょうか 2
職員室があるのは5階の教室から程々遠い2階であった。近過ぎると先生がうるさいし、遠過ぎると用があるときに不便である。そういう意味では程々遠い、というのが適切だろう。
「いたいた、津倉先生」
初又さんが声をかけたのは、職員室の前にいる年齢不詳の男である。上はきっちりスーツを着ているのに、何故か下はラフな黒いジャージときている。それだけでも不自然なのに、野球帽を目深に被ったその男は、明らかに教師ではない異彩を放っていた。
「どーも初又さん、思ったより早かったっすね」
「こんにちは、津倉先生。こちら噂の佐倉 一暢です」
自己紹介の仕方が少々おかしい気がする。大体「噂の」とは何の噂だ。そして何故ジャージと野球帽に突っ込まない。
一体どういう態度で臨めばいいのかが分からない。助け舟を求めたいところではあるが、津倉先生の隣で読書をしている女子生徒が顔を上げる気配はない。恐らくマネージャーの月浦さんなのだろうが、果たして本当に俺を見てみたいなどと問題発言をしたのだろうか。
「初めまして佐倉さん。私が野球部監督の津倉っす。いやー、お兄さんにそっくりだ。瓜二つ、とはこのことっすねぇ」
突然さらりと兄貴を引き出すあたり、もしかしたら曲者かもしれない。
「それからこっちがマネージャーの月浦 咲織だ」
初又さんの紹介にチラリと顔を上げ、「どうも」と一言。そして目線は本へと戻る。何故野球部にはこんな変人しかいないのだ。
「初めまして、佐倉です」
取り敢えずぺこりと会釈をすると、月浦先輩はこちらを一瞥してから、また本に目を戻してポロリと言った。
「どうしてジャージなんですか?」
さらりと尋ねてくるあたり、この教師の扱い方をよく知っているのだろう。変ではあるが、この人から教わらなければならないことは沢山ありそうだ。
「どうして、って、楽だからに決まってるじゃないですか」
「明らかにマッチしてません。以後やめてください」
「冷たいなぁ月浦さんは。それじゃ、今日だけで」
「…………今日だけですよ」
妥協した。
明らかに面倒くさがったのだろう。気持ちは分かるが妥協だけはしてほしくなかった。
「それより初又さん、練習試合の相手、決まりましたよ」
「おー、もう決まったのか。新入生の本入部期間に入ってからだから、再来週だな。相手は?」
「烏丸高校です」
烏丸高校といえば、京都代表として幾度も甲子園出場校にその名を連ねる名門校だ。そんな高校がどうしてまた。
「烏丸か……。ま、嬉しい相手だな。この間まで中学生だった連中では荷が重いだろうけど」
思わず耳を疑う言葉が平然と登場した気がする。この間まで中学生だった連中?
「ま、待って下さい。それって1年生のことですか?」
「流石佐倉さん、話が早くて助かります」
こんな監督に褒められても嬉しくない。
「む、無理でしょ? あの烏丸相手に1年だけなんて! ボコボコにやられるに決まってるじゃないですか! てか第一、まだ1年生が何人入るかも分かってないのに!」
「そっすね。まぁ、試合が出来る分には揃えましょう」
「揃えましょうって…もし揃わなかったらどうするんですか?」
「勿論、上級生を使います。甲子園目指して練習してる人たちに練習試合申し込んで、揃わないからと中止するのも無礼っすから」
1年だけで挑むのも充分無礼である。
「君たちはこれから甲子園目指して選抜大会を戦うことになるんすよ? 烏丸レベルの相手だって、それこそ山のように出てくるのは間違いない。なのに戦う前からビビるような人間が役に立つと、本気で思いますか」
やや強引に思えるが、そう言われると反論できない。黙ってしまったのを見越していたように、初又さんがからりと笑った。
「まぁ、何でこんな事をするのかは、今日の練習の時にでも分かるさ。お前らがするのは、ただがむしゃらについてくること。お前の得意分野だろ?」
勝手に得意分野を決めつけられるのは納得いかないが、仕方ない。2人の上級生と監督を前に、俺は頷くしかなかった。