始めましょうか 1
「佐倉くん、だったっけ?」
突然見知らぬクラスメートに声をかけられたのは、一夜明けた火曜日の、丁度4限が終わった昼休みであった。
昨夜は遅くまで素振りとランニングに明け暮れ、睡眠不足を引きずっていた俺は、いきなりの数学の授業で理解することを早々に諦めて居眠りをしていた。なんとか4限が終わったと思ったものの、まだ寝足りないという欲求不満に勝てず、腕枕を構成した矢先、顔も名前も知らないクラスメートが机の真ん前に仁王立ちになったのだ。
「そうだけど」
顔を上げれば、見下ろしていたのは女子生徒である。蛍光灯の逆光で顔はよく見えないが、辛うじて黒縁眼鏡が見て取れた。ただでさえ冷たい雰囲気を醸し出しているのに加え、このアングルでは、何か怒られるのでは、と縮こまってしまう。弁明のつもりではないが、俺は女子生徒が怒るような何かをしでかした記憶は毛頭ない。
「あなたに用があるそうだけど。野球部主将の初又先輩」
なるほど、わざわざ来客を伝えに来てくれたらしい。確かに教室のドアの横に、首から上の途切れた背中が見える。
礼を言ってから、俺は席を立った。あまり待たせると悪い。なんせ3年生の教室は、ここから少しばかり距離があるのだ。
近寄ると、初又さんが何故か背伸びをしていた。呻き声から察するに、かなり必死になっているらしい。
「初又さん、何やってるんすか?」
「お? おお、一暢。いや、背伸びをしたら天井に頭がつくかどうか試していてな。あと、ほんの、ちょっと…なんだが…」
「変に目立つのでやめてください」
「変に目立つ? 普通に目立つのとどう違うんだ?」
「周囲の視線に変人を見る色があるかないかです」
「なるほど。じゃあ俺は今、普通に目立ってるわけだな」
彼の「普通」に関する価値観を共有するのが不可能であることは、長年の付き合いで重々承知である。
「それで用って何ですか」
「おお、そうだったそうだった。危うく本題を忘れるところだった」
「部長辞めた方がいいんじゃないですか?」
「何でだ?」
「何ででもです。それで、本題って?」
「監督がお前を呼んでんだ。1年の部活動は解禁前なのに、わざわざ野球部に来る物好きを見てみたいそうだ」
「すげー無遠慮な人ですね」
「いいから来いよ。月浦もお前を見てみたいって、わざわざ職員室で待ってんだから」
「人を珍獣みたく言うの、やめてくれませんか。自分の方がよっぽど珍しいってのに」
「あはは、サンキュ」
最早突っ込むのも面倒である。
「そんじゃとにかく、早く行って早く終わらせましょう。俺、昼飯まだなんで」
「でもさっき寝ようとしてたろ?」
どうでもいいところにはどうでもいいほど敏感な人である。答えるだけ労力の浪費だと、俺は先導を歩くことにした。