いいんじゃないか? 4
朝歩いた道を、暗闇の中で引き返す。この道は学校説明会と入試、そしてその結果発表の時にしか歩いたことのない、まだ慣れない道だ。ましてやこうして暗くなると、慣れぬとはいえ3度も通った道とは到底思えない。
須賀との勝負に負けた後、須賀はすぐにどこかへと姿を消した。そのお陰で敗北がその後の練習に差し支えることはなかったのだが、結局須賀は戻って来なかったし、チームメイトも「やっぱりか」と考えているようだった。
上級生たちはまだ練習を続けているが、俺は勝負の時に審判をしていた綾辻先輩に「君、まだ本入部してないだろう?」と帰されたのだ。なんでもこの時間が最終下校時刻になっているが、延長練習届けを出している野球部はまだ1時間の練習が許されているらしい。
しかしひとりとは味気ない。これからは上級生たちが練習を終えるまで校門前で筋トレでもしてようか…などと考えていると、後ろから誰かに呼び止められた。
振り返れば走ってきたのは、やはり初又さんだった。
「や、やっと追いついた……。お前歩くの速いなぁ」
「どうしたんすか、初又さん? 練習は?」
「抜けてきた。お前と少し話がしたかったんでな」
「大丈夫なんですか? 部長として?」
「大丈夫だ。綾辻に後は頼んだし、監督と月浦は練習試合の日程の打ち合わせで来ないだろうしな」
「テキトーっすね…。誰ですか、その月浦さんって?」
「マネージャーだよ。2年生はマネージャーが入らんかったから、今マネージャーしてるのはあいつ1人なんだよ」
「ひとりでマネージャー? しんどくないっすか?」
「しんどいだろうから、今年はマネージャーが9人は欲しいんだよな。マネージャーでもナインが出来る」
「いや、それは多過ぎます。そういえば初又さん。今日は結局、須賀はどこ行ってたんでしょうか?」
「ん? ああ、須賀か」
昔からそうだったから大丈夫だろうとは思ったが、案の定、初又さんは呼び捨てに気付いた様子はなかった。きちんと話は聞いてるのだが、いまいちそういうところには気付かない。やはりこの人は謎多き人物である。
「多分師匠、とかって奴のところだろうな」
「師匠?」
「ああ。いつだったか忘れたが、試合で負けた時のことだ。そのチームの奴に今日みたいな1打席勝負を挑んで、見事にやられたそうだ。けどあいつ、そいつとの勝負が楽しかったのか悔しかったのか、それ以来時々そいつの所に殴り込んでは、ガスガスに負けて帰るようになったんだよ」
擬音語の由来も須賀のやりたいことも全く分からない。
「で、須賀は何故か、そいつのことを師匠と呼んでんだ。まぁ多分、勝負の時に色々教わってんだろうな」
「誰なんです、その師匠って?」
「さぁな。華僑ナインの誰か、って聞いたことはあるけど」
「華僑ナイン、ですか」
中学野球界ではトップに君臨している華僑中学、そのエースの佐倉 俊希。これらは野球をしている人間なら誰もが知っていることだが、1人が上手いだけでは試合には勝てない。華僑中の全国連覇を支えた天才9人を、誰が呼び始めたのか、やっかみも込めて呼ぶようになったのが「華僑ナイン」である。俊希もその1人であり、全員が今年は2年生になる。
「はっきり言って、須賀にも勝てないお前じゃ、華僑ナインの足元にも及ばない」
黙り込んだのを何と思ったのか、初又さんは遠慮容赦のない一言を叩きつけてきた。
「それは分かってます。けど…」
語尾が意図せずフェードアウトしてしまう。
勝ちたいとは思う。だが、その実力を目の当たりにし、骨身にしみて理解しているのは、他ならぬ俺自身。須賀と勝負をするまでもない。今の実力では、誰にも勝てない。
「いいんじゃないか? 夢見て、努力をするだけなら」
思わぬ返事に、驚いて顔を上げる。さっきの言葉を言った後の今、現実を突きつけられる言葉が戻ってくると思っていた。
「夢ってのは、叶える為に持つもんだろ? 簡単に叶う夢じゃ面白くもなんともないぜ。それにその途方もない夢を宣言する姿勢、俺は清々しくて好きだけどなぁ」
ボールを握ったばかりの頃から厳しく指導をしてくれた、一番身近な野球選手。投げ方、捕り方、打ち方、時にはしょうもないことまで教えてくれた、人生の教師。そうだ。兄貴を好敵手と認識すると同時に、俺はこの人に憧れていたんだ。
そして今、俺の前に立つ憧れは、俺に夢を叶える努力をしろ、と言っている。
言われるまでもない。
「倒します。例え他の誰に負けようとも、俺は兄貴だけは倒します!」
前を歩く憧れはニコリと笑顔を見せてから、前方に向き直って答えた。
「一緒に倒そうぜ。俊希も、華僑ナインも」
「はい!」
天を仰げば、丸い月が煌々と輝いていた。
「そういえば、初又さんの夢は何ですか?」
「ん、俺か? 俺の夢はな…………」