いいんじゃないか? 3
踏むと砂埃を上げるグラウンドの砂。記憶にしていたより少し重いヘルメット。何もかもが懐かしい。
柄にもなく感傷に浸っていると、マウンドに上がった刈り上げ上級生が響く大声で喚いた。
「おい新入り!」
「なんだよ、うっせーな…」
「俺が勝った時の条件がないと不平等だからな! 負けたらテメェ、これから1ヶ月の間、毎日棒アイス奢りやがれ!」
「何だよそれ聞いてねえぞ!」
「当たり前だろうが、今初めて言ったんだから! まさか勝つ自信ないからって逃げるんじゃねーだろうな!?」
「なっ……いーぜやってやる!テメェの腹が壊れるまで毎日棒アイスをその口の中に突っ込んでやるから覚悟しやがれ!」
「腹が壊れるまで毎日棒アイスか。どんぐらい買わなきゃいけないんだろうな、綾辻」
「そこよりもルーキーの口の利き方の方を気にした方がいいんじゃないですか、部長?」
「口の利き方……? あ、一暢の奴、敬語使ってない!」
「今まで何聞いてたんですか?」
キャッチャーの初又さんと審判を務める上級生の間の抜けた会話を聞き流しながら、俺はバットを構えた。ブランクの受験生期間の間は何もしていなかったとはいえ、合格が決まってから今日までの半月間、素振りを欠かしたことは1日としてなかった。いかに相手が高校生だからといっても、シングルヒット程度になら打てるはずだ。
「3球で終わらせてやる。テメェの高校生活最初の屈辱の3球を思う存分味わいやがれ!」
「前置き長いんだよ、早く投げろ!」
刈り上げ上級生が振りかぶり、滑らかな投球フォームに入る。その右手に意識を集中させる、その直前。やはり間の抜けた後ろの2人の会話が勝手に耳に入り込んできた。
「なぁ綾辻、須賀ってピッチャー出来たっけ?」
「部長が今更何言ってるんですか。あいつのポジションはセカンドですよ」
「いや、知ってるからおかしいなー、と思ってたんだよ」
……なぬ。
マウンド上の刈り上げに問い詰めようとするが、振りかぶったピッチャーが動きを止めるわけもない。その右手から放たれたボールは瞬く間に眼前を通過し、ミットに叩きつけられた。
速い。
しばらくマウンドから放たれるボールを見ていないからか、感覚が鈍っている。だが今の投球、恐らく125キロ近く出ていた。実戦でも充分使えるレベルだ。
「なんだぁ、バットも振れねえのか? 親切にど真ん中に投げてやったってのによ?」
「うるせーな、いいから次投げろよ」
言いながらバットを構え直す。
どうやら考えが甘かったらしい。ポジションがセカンドだろうが、高校球児なのだ。そこらの中学ピッチャーよりも速いボールを投げれてもおかしくない。だがあれだけの啖呵を切っておいて逃げるわけにも負けるわけにもいかない。長く息を吐いてから、刈り上げ上級生を睨みつける。
集中しろ。
自らに言い聞かせながら、息を吐き終える。
後ろの2人の声が聞こえるということは、集中し切れていない証拠だ。しばらくこうして投手と対峙することがなかったせいで鈍っているのだろう。感覚を取り戻せ。
須賀が再び振りかぶる。左脚が地面から離れ、靴底から砂がパラパラと落ちる。
まだ集中し切れていない。周りの音が雑音として聞こえている。対決を見ている上級生たちの話し声、サッカー部の歓声、ハンド部が流しているラジオ体操。集中しろ、集中しろ。
ザッ、と小気味のいい音とともに左脚が踏み出され、右腕が鮮やかなアーチを描く。そしてその指先から、ボールが勢いよく射出される。
やっぱり速い。でも、見える!
ボールがストライクゾーンの真上を通過すると同時に、俺は躊躇いなくバットを振り切った。
カキィィン!
懐かしい金属音が響き、腕に心地よい振動が反射する。ボールはバットの芯を僅かに外し、一塁側のネットへと吸い込まれていった。
「ファール。今のはいいスイングだったな、一暢」
キャッチャーマスクの向こうからの声に、俺は落ち着き払って答えた。
「タイミングが少し遅かったです。思ったより速かった上に、また球速が上がりましたので。次は打ちます」
「いい心がけだ。腕も落ちてないし、もしかしたら本当にすぐレギュラーになれるかもな」
「煽てないで下さい」
バットを構え直し、マウンドの刈り上げを見やる。案の定打たれるとは思ってなかったらしい須賀は、しかし笑っていた。
「いいじゃねえか。そうこないと面白くねぇ。次はもっと速いのを放るぜ!」
「宣言してんじゃねぇよ」
須賀には聞こえない程度の小声でごちると、初又さんが「その通りだな」と苦笑した。
三度、須賀が振りかぶった。
まだだ。まだ集中出来ていない。ボールをよく見ろ、そして捉えろ。
幾度となく自分に言い聞かせる。
久々のヘルメットが思ったより暑い。滴る汗が少し邪魔だ。ダメだ、集中集中。
ボールが放たれる。2球目の残像が映る。そう、さっきより速いなら話が早い。トドのつまり、もっと早くに振ればいい……!
ぶんっ!
空気を激しく切り裂く音。ボールはさっきとは打って変わって、情けないポスッ、と音とともにミットに収まる。
3球目はスローボールだった。