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07:残り香の一夜

 夜会が終わる頃には、館の廊下には酒と香水と煙草、それにさっき大広間に漂っていたハーブの匂いが薄く残っていた。その香りを胸の奥に押し込むようにして歩みを進め、ゼノは赤いドレスの女と並んで客室へ行く。扉を閉めた時には、外のざわめきもすっかり遠くなっていた。


 部屋に入るなり、ゼノは女をベッドに押し倒した。上等な服も靴も、気付けば床に散らばっている。灯りを落とした室内で、乱れたシーツだけが、二人の素肌をかろうじて隠していた。

 女はゼノの胸に頬を預ける。彼女の指先が、胸元から腹へと、意味もなく往復する。触れるというより、そこにいることを確かめているような手つきだった。


「ねぇ、さっきの子……。キアラ・ファリーナ嬢って言ってたわよね?」


 ゼノは女の頭を片手で抱き寄せながら、「よく覚えてるな」と苦笑した。


「久し振りに会えたのに、あんなに冷たくして良かったの?」

「特に話すこともないし」

「でもあの子、怒っていたんじゃない?」


 そう言ってから、女は何かを思い出したように、くすくすと笑い出した。


「すごかったわよね、飴投げられたの初めてよ」


 女が上体を起こし、ベッド脇の小さな卓に手を伸ばした。

 銀の燭台のそばに、色とりどりの包み紙が転がっている。そのうちの一つを摘み上げ、ゼノの胸の上にぽとりと落とした。ゼノは指先でそれをつまみ、何とはなしに裏側を返した。くすんだ金色の印刷で、小さな文字が並んでいる。


「……サンタ・ヒルデガルド?」


 思わず、声に出ていた。女がゼノの手元を覗き込む。


「あら。私、その店、知ってるわ。サン・ミケーレ教会の近くよ。小さなお店なんだけどね、ただの薬屋じゃないの。具合の悪い所だけじゃなくて、体質や、暮らしぶりなんかも聞いて、その人に合う薬草を選んでくれるって評判よ。お年寄りとか、疲れが抜けない人とか、眠れない人なんかが、身体と一緒に心も軽くしてもらいに通ってるわ」

「へぇ」

「気にならないの?」

「ああ……」


 それ以上の言葉が出ない。ゼノは、包み紙を指先で鳴らしながら、わざと興味のない調子で返した。口の中に、わずかな苦味が広がる。


 よりによって、と思う。


 よりによって、この夜、この場所で、キアラに再会するとは想像していなかった。

 彼女は自分にとって一番出会ってはいけない人間だと、その一言が、頭の中で形になりかけて、ゼノはそこで思考を切った。そこから先を辿ると、余計な所までほどけてしまう。


「あの子、あなたの事が好きなんじゃないの? 泣きそうな顔していたわよ。飴までぶつけるなんて、よっぽどよ」


 女の言葉をゼノは肯定も否定も返さず、曖昧なままやり過ごした。

 好き、という音は、この部屋の空気には似合わない。煙草と汗と香水の匂いが絡み合う中で、その一語だけが、どうにも浮いてしまう。

 彼女は気にした様子も見せず、今度はゼノの左手をとる。手の甲をゆっくりとなぞり、薬指のところで指を止めた。


「それとも……。あなたは、奥さんの事を想っているの?」


 ゼノの左手の薬指には、幅のある銀の指輪がはまっている。地金そのものの光沢が、灯りを受けて鈍く光った。


「そうだな……」


 ゼノは左手を掲げ、指輪を光に透かしながら端的に言う。


 その矢先、銀の輪が内側から締め付けを強めたように、指先の感覚が遠のいた。


 遅れて、視界の端がわずかにぼやけた。蝋燭の輪郭が柔らかくほどけ、壁の影が一瞬だけ二重になる。息を吸い込み、吐き出すまでの間を、ほんの少しだけ長く取ると、揺らぎは何事もなかったかのように引いていき、天井の木目も元通りの形を取り戻した。指をわずかに曲げて痺れを散らし、何事もなかったように手を下ろした。


「その事、あの女の子に言ってあげた方が良………っ」


 女の言葉が途中でとぎれる。最後まで言わせるつもりはなかった。ゼノは身を寄せ、彼女の唇を無理矢理ふさぐ。舌の上で、女の息が小さく跳ねる。押しつけた唇の下から、くぐもった声が漏れた。

 左手には、まだ痺れの名残が絡みついている。銀の輪から滲み出た冷たさは、掌にこびりついて離れない。


「ん……いきなり、ね」


 抗議とも甘えともつかない息が、喉の奥で震えた。ゼノはそこに言葉を差し込まず、肩口へ指を滑らせる。触れ合った肌の下で、女の身体が震えた。


 ()()()()は強い刺激を重ねてやれば、しばらくは収まる。

 情事が続く間だけは、痛みだか痺れだか分からないものが、熱の中に溶けていく。


 シーツが音を立ててよじれる。女の指がゼノの背にしがみついた。名前を呼ぶ声が耳元でほどけると、熱が下腹へと集まっていくのが分かった。


 だが唐突に、キアラの顔が脳裏に浮かんだ。


 十年ぶりに再会した少女は、あの頃の面影を残していた。ストロベリーブロンドの髪も、よく動く表情も、かつての屈託のなさ、そのままだった。そんな彼女が、怒りに満ちた顔で、それでもどこか泣き出しそうな顔で「ゼノのばか」と叫んだ。あれは裏切られた痛みがそのままこぼれたものだった。


 彼女を泣かせたい訳じゃない。あの子には笑顔がよく似合う。だからこそ、その笑顔を守りたいなら、これ以上近寄るべきではなかった。汚辱に染まったこの手で、あの子まで穢す訳にはいかない。


「……どうしたの?」


 耳元でそう囁かれて、胸の内側にまで入り込んでいたキアラの姿を、ひとまずそこから押し出すように、ゆっくりと息を吐く。女の潤んだ瞳を見つめたまま、もう一度深く口づけた。


「ゼノ……」


 女は縋り付くように名前を囁く。ゼノは彼女を抱き寄せる腕に力をこめ、逃がさないようにその体を受け止める。彼女の身体から伝わる鼓動が、こちらの脈と揃って速くなっていった。

 深く沈み込むと、女は頤をのけぞらせて喘いだ。律動の合間に、ふと、まるで別の場所から差し込むように懐かしい光景が脳裏に滲んだ。


『大きくなったら、結婚しよう』

『……うん。約束だよ』


 指先と指先を結ぶ、色褪せた紐の輪。

 真剣なくせにどこか照れくさくて、互いに顔を見られずに、並んで同じ方を向いたまま交わした約束だった。


 その「大きくなったら」に追いつく前に、約束を手放したのは自分だった。

 過去の映像と、今、腕の中で名を呼ぶ声とが重なりかけて、ゼノはその幻を力ずくで振り払うように、もう一度、目の前の熱へと意識を沈めていった。

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