06:夜会と再会Ⅳ
キアラは目元を手の甲で拭った。深呼吸をして、震える手で皿とフォークを置く。ゼノは何事もなかったように、すっと視線を逸らした。どうやらキアラには気が付いていないらしい。
(……まあ、それはそうか)
胸の奥で小さく呟く。
別れたのは、十年近く前だ。あの頃は、彼も自分も、ほんの子どもだった。
今、扉のそばで女たちを笑わせているゼノの姿は、その面影をかろうじて残しているだけで、あとはほとんど別人だ。それと同じで、きっと自分だって変わっているはずだ。それならば、分からなくて当然だ。
何とか話しかけたくて様子を窺うが、ゼノの周りを取り巻く女たちは、一向に数が減らない。
一人が離れたと思えば、すぐに別の人が隣に収まる。その度に彼は肩を貸したり、腰に手を添えたりして、あっさりと輪を作り直してしまう。
いつになったら話しかけられるのだろう、とキアラは胸の内でじりじりしていた。
今すぐにでも駆け寄って、「やっと見つけた」と抱きついてしまいたい。どうしていなくなってしまったのか、どこで何をしていたのか、聞きたいことはいくらでもあった。けれど、あの輪の中へ突っ込んでいって、女たちを押しのけながら抱きつく勇気は、いくらなんでも出てこない。
ドレスの袖を摘んでみたり、巾着を握り直したりしながら、落ち着かない足をどうにかその場に釘付けにしていた。
どれ位、そうしていただろうか。
やがて、群れの中でひときわ派手な赤いドレスの女性が、ゼノの腕に自分の腕を絡めた。
彼は軽く笑って、周囲に何か言葉を投げかける。女たちから不満の声が上がるが、それでも赤いドレスの女性だけを連れて、彼はバルコニーへ続く階段を上っていった。
話しかける好機だと、キアラは二人の後を追う。
バルコニーには、夜の冷たい空気が満ちていた。
石造りの手すりの向こうには、庭と、その奥に連なる屋敷の灯りが、点々と浮かんでいる。ゼノは手すりに背中を預け、女性と並んで立っていた。キアラは息を吸い込んだ。
「あのっ……」
自分の声が思ったよりも小さくて、慌ててもう少しだけ大きくする。
「あの、ゼノさんですか?」
呼びかけに、ゼノは顔をあげた。
灯りが、不自然に染められた金茶色の髪と、オリーブグリーンの瞳を照らし出す。さっき扉のそばで見たのと同じ顔が、今度は真正面からこちらを向いていた。
「そうだけど?」
拍子抜けするほど、あっさりした返事だった。
「私は……」
「キアラ・ファリーナ嬢だろ」
「えっ? ……あ、…うん……」
あまりにも自然に名前を言われて、キアラは思わず瞬きをした。気付かれていないのだと思っていたのに、彼は最初から分かっていたらしい。
だとしたら、なぜ十年近くも会えなかった相手が目の前にいるのに、こんな平然としていられるのだろうか。疑問と戸惑いが、一度に胸の中へ流れ込んでくる。
「俺に何か用?」
ゼノは、ほんの少し首を傾げて尋ねてきた。好奇心よりも、軽い確認、といった調子だ。
「用、というか……その……。……あの、久し振り」
頭が回らない。どうにか絞り出せたのは、それだけだった。女性が、ゼノとキアラを交互に見比べる。
「お知り合い?」
「ああ、幼馴染なんだ。会うのは久しぶりだけど」
「まあ、そうなの。じゃあ、積もる話もあるでしょうし、私は……」
「別に。大した話もないし。ここにいていいよ」
女性の言葉を遮るように、ゼノがあっさりと言う。その口調には、特別な悪意はない。ただ、本当にそう思っている、というだけの素直さがあった。
キアラは、口の中が乾いていくのを感じた。自分の中で十年分膨れ上がっていた何かが、今、あっけなく「大した話もない」の一言で切り捨てられてしまった気がした。
何と言えば良いのか分からなくなってしまい、言葉がほどけていく。
「……元気そうで、良かった」
喉が細くなったみたいで、声が思うように出ない。それでもどうにか言い切ると、ゼノが少しだけ目を細めた。
「ああ。キアラも」
その顔には、ようやくほんの少しだけ、懐かしさの色が浮かんでいた。けれど、それも一瞬のことで、すぐに元の軽い表情に戻ってしまう。
そこで、会話が途切れた。何を話せば良いのか分からない。十年分の沈黙が、まとめて立ちはだかっているみたいだった。
「……じゃあ、その。お邪魔しました。楽しい夜会を」
よく分からない締めくくり方でそう告げると、返事を待つ前に踵を返した。
数歩歩いてから、ふと、肩越しに振り返る。
ちょうどその時、女性がゼノの胸に手を添え、顔を近づけた。ゼノも自然な仕草で彼女の腰を引き寄せる。二人の距離がぴたりと詰まり、唇と唇が重なった。
呆然と、その光景を見つめていたが、不意に胸のどこかがズキリとした。
「……なに、それ」
思わず言葉が零れ落ちた。奇跡みたいな再会だというのに、「大した話もない」と言っておいて、女性と平気な顔で口付けをしているなんて。
記憶の中のゼノは、日向の子犬みたいに柔らかく、無邪気に笑う子どもだった。
それがどうだろう。今ここにいるのは、髪を何度も染め、女性を両腕に抱き寄せながら笑っている男だ。腰に添えた手つきひとつ見ても、慣れたものだ。
胸の奥で、何かがふつふつと沸き立ってくるのが分かった。悲しいとか寂しいとかいう感情が、途中で形を変えて、怒りになっていく。
気が付けば、巾着の口を勢いよく引き開けていた。掌いっぱいに飴玉を掴み取る。自分でも何をするつもりなのか、理解するより先に、腕が動いていた。
「…………っ」
キアラは声にならない息と一緒に、飴玉の詰まった手を振りかぶり、二人に向かって投げつけた。
小さな球体が夜気を切って飛んでいく。バルコニーの床を飴玉が跳ねる音と、ゼノの肩や腕にぶつかって弾く乾いた音が、ほとんど同時に響いた。
「うわっ」
「きゃっ」
驚いた声が二つ、重なった。女性はとっさに身を竦め、ゼノは肩を押さえる。足元には、包装紙に包まれた飴玉がぱらぱらと転がった。やってしまった、と頭のどこかが冷静に言ったが、もう遅い。
「ごめんなさい! そちらの方、失礼しました。大丈夫ですか? 本当に、ごめんなさい! あの、あなたには、なんの恨みはないんです」
「いえ……。大丈夫よ」
「よかった……。あの、それ、飴なんです。もし良ければ、差し上げます。本当にすみませんでした」
転がった飴玉を指さしながら、できる限り礼儀正しく頭を下げる。言いながら、謝っているのか、配っているのか、自分でも何をしているのか分からなくなってきた。だが今はそれどころではない。キアラはゼノを睨む。
「ゼノは……」
そこで一旦、言葉を途切る。そして肺いっぱいに空気を吸い込んで、思い切り怒鳴った。
「ゼノのバカーーーッ!!」
声が跳ね返り、夜会のざわめきの合間を縫ってどこまでも届いていきそうだった。女性がさらに目を丸くし、ゼノは言葉を失っている。何かを言われる前に、キアラは踵を返した。
階段を駆け下り、廊下を抜けて扉へ向かう。行きよりも足が速い。怒りが、いい具合に背中を押してくれている。背中のほうで、楽団の音と人々の笑い声が遠ざかっていった。




