05:夜会と再会Ⅲ
やがて、楽団の奏でる前奏が止んだ。
大広間の奥、高い台の上に、領主が姿を現した。ざわめきが少しずつ止み、人々の視線が一方向に集まる。
「これより、宴を始めるにあたりまして……」
領主の言葉は簡潔だった。恩人や客人たちへの感謝と、これからも国の繁栄が続くようにとの願いを述べ終えると、彼は一歩横に退いた。
代わって前に進み出たのは、紫の法衣をまとった男…コンラード司教だった。
三十五歳という異例の若さで、神父からその上位である司教に引き上げられたコンラードは、そこに立っているだけで目を奪う男だった。聖人画にでも描き込まれそうな整った顔立ちが、司教服と不穏に噛み合っている。
やっぱり素敵だ、と、年頃の娘らしい感想を、キアラは胸の内でそっと転がす。
「今宵、こうして皆様とこの場を囲めますことに感謝しつつ、ご挨拶を申し上げます」
よく透る声は淀みなく続いていく。
領主に対する祝福と、豊かな食事への感謝。病の床にある者たちのための祈り。今夜ここに集えなかった者たちの事にも、静かに触れる。
「同じ食卓を囲み、杯を交わせる事を、この上ない喜びに思っております。どうか、この喜びが生きる者たち全ての上に、等しく注がれますように」
飾った比喩は少ない。けれど、一つ一つの言葉が、まっすぐに耳に届いてくる。
キアラは、じっと聞き入っていた。
日々の暮らしの中で、神のことを考える時間は、多くない。それでも、コンラードの声を聞いていると、自分の生活の奥に、目には見えない骨組みのようなものがあると、思い出させられる。
隣で、そっと吐息が聞こえた。ジュリオが、いつの間にか戻ってきていた。
「キアラちゃん、コンラード司教に会うの、久しぶり?」
「うん。私は、『クリスター』だから」
キアラは小さく肩を竦めた。
「クリスター?」
横から、ロマーノが小声で繰り返した。キアラは頷く。
「クリスマスとイースターみたいな大きな祝日の時だけ教会に行く人の事。クリスマスとイースターをくっつけた言葉で『クリスタ―』って言うのよ。ちょっとからかい半分の呼び方で、あんまり熱心じゃない不良信者ってやつ」
自分で言いながら、苦笑が漏れる。実の所、神そのものについては、キアラにはよく分からないというのが正直な所だった。姿も見えず、触れることもできない存在を、どのように信じると言えばいいのか、言葉にするのは難しい。
ただ、教会の教えそのものは、生活の基盤になると感じていた。
正直であること、困っている人を見過ごさないこと、働き過ぎないこと。そうした教えは、体と心のためには確かに正しいと思える事柄だった。だから自分は信者なのだと、彼女は考える。神の姿は分からなくても、日々を支えるための教えは信じている。
壇上の司教は、最後の言葉を締めくくろうとしている所だった。
「どうか、この夜が、私たち一人一人にとって、与えられた恵みを分かち合う時となりますように」
両手をわずかに広げ、祝福のしるしを描く。その動きもまた、大袈裟ではないのに、目を離しがたかった。香り袋から広がる香りが、部屋の隅々まで染み込んでいくように、彼の声と姿が、大広間の隅々まで届いている気がした。
コンラード司教の言葉が終わると、楽団の音がふたたび高まり、杯が掲げられた。領主の音頭で乾杯が交わされ、ようやく食事の時間が始まる。客たちは皿を片手に卓を囲みながら、あちこちで挨拶や世間話を交わし始める。
「じゃあ、僕達は一回りしてくるよ。キアラちゃんは美味しいもの、いっぱい食べて楽しんでね」
「うん、またね」
キアラが軽く手を振ると、ジュリオとロマーノは人波の中へ紛れていった。背中を見送ったあと、ひとり残った彼女は、もう一度壇上を見上げる。コンラード司教の姿はもう見えなかったが、さっきまでの声だけは、まだ胸の奥にかすかに残っていた。
余韻を胸にしたまま料理をとりに行く。骨付きの肉や香草を散らした魚料理、その合間に、彩りを添える野菜の皿がいくつも置かれている。目に入るのは、どれも見慣れない料理ばかりだった。
邪魔にならない位置に立ち、小ぶりな肉と、芋を少しだけ自分の皿に移した。
料理を口にしながら顔を上げると、視界には背丈の違う人影がいくつも行き交っていた。
華やかな衣装と笑い声、惜しみなく空けられていく高価な酒と料理。そのどれもがキアラには場違いなほど眩しく映る。それでも、自分が調合した香りをそっと吸い込むと、心がすこし落ち着いた。
その時だった。
扉のほうで、女たちの声が一段高く跳ねた。
椅子から身を乗り出す者、扇をぱっと広げて口元を隠す者、色とりどりのドレスの裾がいっせいに扉の方へ向かう。
「いらっしゃったわ」「ランベルティ様よ」と囁く声が幾つも重なり、甘い香水の匂いまで、そちらへ引き寄せられていくようだった。
キアラはつられて声のする方向を見る。そこに立っていたのは、背の高い青年だった。
肩にかからない程度の髪は、一目で染めたと分かる黄味の強い金茶色だった。染め方にむらがあり、何度も染め直したせいで傷んだ毛先だけが、首筋のあたりで軽く跳ねている。
通った鼻筋と整った口元は文句のつけようのない造作なのに、雑に撫でつけた前髪の下の瞳は、どこか楽しげで気安い色を帯びていた。片足にだけ軽く体重を預けた立ち方も、自分が人目を集めていることを承知した上での、気軽い色気をまとっていた。
たちまち女たちに囲まれた青年は、輪の中心で一人の肩を抱き寄せた。途端に、甲高い笑い声と歓声が弾ける。
……なんか、チャラい。
肉を頬張り、もぐもぐと口を動かしながら、キアラは内心で呟く。
今の世の中では、ああいうタイプの男性が持てはやされるのだろうか。
容貌も立ち姿も、たしかに申し分ないほど整っている。けれど、きっとああいう人は女性を泣かせるタイプだ。一途とは縁遠く、自分の美貌をよく分かった上で、欲望のままに遊び歩くのだろうと、偏見に満ちた評価を下す。
フォークで肉を刺し、もう一口頬張ろうとしたとき、ふと視線を感じて顔をあげた。さっきチャラいと決めつけた彼が、こちらを見ている。
深いオリーブグリーンの瞳と目が合った。
それだけの事だった。
声をかけられたわけでも、微笑まれたわけでもない。けれど、その色を視界に捉えた瞬間、胸の内側で何かが大きく軋んだ。喉の奥が締めつけられ、息を吸うことも忘れる。フォークを持った手が止まり、指先から力が抜けた。
この瞳をずっとずっと探していた。
そんな想いが言葉になる前に、身体のほうが先に反応した。
涙がこぼれて止まらない。視界が滲み、皿の上の料理が見えなくなる。熱いものが頬を伝い、ぽたり、ぽたりと手の甲に落ちていった。味わうつもりだった肉の味も、香りも、すべてどこかへ遠のいていく。
傍から見れば、料理を手にしたままいきなり泣き出した、なんとも奇妙な人にしか見えないだろう。それでも涙は勝手に溢れ続けた。
『でもさ、いつか、ひょっこり会えるかもしれないね。街で角を曲がった拍子にとか、今度の夜会の会場でとかね』
『記者っていうのはね、いつもありそうもない話を追いかけてるんだ。奇跡みたいな偶然にも、時々出くわす。だから、信じてみてもいいんじゃないかな』
あの日のジュリオの言葉が鮮やかに蘇る。
……ゼノ。
その名前が、音もなく脳裏に浮かんだ。
ようやく見つけた、という確信だけが、形にならないまま胸の中いっぱいに押し寄せてくる。
込み上げるものをどう扱えばいいのか分からず、ただ涙と嗚咽だけが落ち続けた。




