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03:夜会と再会Ⅰ

 夜会の当日、キアラはテーブルに置いた籠から、香り袋を一つずつ取り出していた。


 薄い生成りの袋の中には、砕いたハーブと乾燥させた柑橘の皮が詰めてある。紐を指に引っかけ、柱と柱の間や、窓枠の金具、階段の手すりの根元に、間隔を測りながら掛けていく。


 近くでは、男が燭台を磨いていた。反対側では、花屋から来たらしい若い女が花を活け、長机の上では、年嵩の女たちが、真っ白なクロスの皺を指先で伸ばしている。廊下の向こうからは、肉を焼く匂いと、強い香辛料の匂いが流れてくる。


 パーティーというのは、こんなにもたくさんの人の手が動いて、やっと形になるものなんだと、キアラは感心しながら、指先を動かしていた。その輪の中に、自分の香りも加わっていると思うと、胸の奥が弾むのを感じた。

 最後の香り袋を階段の途中に結わえつけていると、背後で足音が止まった。


「おお、働き者がいると思ったら、やっぱりキアラちゃんだ」


 振り向くと、見慣れた丸眼鏡が目に入った。ジュリオだった。濃い色の礼服に身を包んでいるが、前ボタンのあたりがきつそうなのは変わらない。


「ジュリオさん、こんばんは」

「ああ、こんばんは。今日はね、君に紹介したい人がいるんだ」


 そう言ってジュリオは背後を見遣った。彼の後ろに、ひょろりと背の高い男が一人、控えるように立っていた。キアラより少し年上だろうか。黒髪はきちんと撫でつけられ、痩せた頬にはうっすら影が宿っている。ジュリオは彼の肩を軽く叩いた。


「こいつはロマーノ。僕の所に入ったばかりの新米記者さ」

「初めまして。キアラ・ファリーナといいます」

「ロマーノ・ベッツィと申します。ジュリオさんから、お名前だけはよく伺っております」

「ふふ、何を聞かされてるのか、ちょっと心配になるわね」

「いいことしか言ってないよ。ね?」


 ジュリオが横目で促すと、ロマーノは笑顔で頷いた。


「……ええ、田舎にいらっしゃるお母様を養うために、一人で店を切り盛りしておられる働き者だと。それに、医学や薬学にも通じておられる方だと伺いました」

「大袈裟よ。独学でかじった位なんだから、本当に勉強した人が聞いたら、きっと笑われちゃうわ」

「でも僕はね、キアラちゃんの『ヒルデガルド式療法』は本当にすごいと思ってるよ。その人がどうして眠れていないかとか、いつから具合が悪くて、前にどんな病気をしたのかまで聞いてから、薬草や香り……時には石まで選ぶだろう? あれは、普通の薬屋にはなかなかできない」


 キアラが人の体調に合わせて薬草や、香り、石を選ぶときの考え方は、昔の女修道院長ヒルデガルドの教えを土台にしていた。風邪や頭痛といった身体の不調だけでなく、心が沈む日々にこそ効く薬草や宝石、食べ物や休み方まで揃えて勧める。

 心の不調はやがて身体にも及ぶのだと、それがヒルデガルドの教えだった。キアラは彼女の教えを学び、自分の店で取り入れていた。


 そもそも、キアラがヒルデガルドの療法を学び始めたきっかけは、ゼノだった。


 駆け足ができるほどには回復しても、体の弱さまでは消えず、すぐに高い熱で寝込んだ。汗で濡れた額に布を替えながら、この熱を少しでも軽くできないかと願って、古い書物を開き、夜更けまで小さな文字を追い続けたのだった。


 残念ながら治してやりたかった相手はいなくなってしまった。


 けれど、そのために覚えた事が、今は仕事として自分の生活を支えている。そう気づくたびに、キアラの胸の中では、ゼノの名が呼び起こされた。浮かびかけた記憶をそっと押し戻し、顔を上げてジュリオを見る。ジュリオは上機嫌なまま、話を続けた。


「それにしても、いい香りだね。さすがだよ、君に頼んで本当に良かった。さっき廊下を曲がったところから、空気が違ったよ」

「ええ、とても好きな香りです。最初はすっとして、その後に木の静かな匂いが残るので、ここに立っていて楽になります」


 ジュリオの言葉を受けるように、ロマーノも静かに続けた。真正面からの褒め言葉が立て続けに飛んできて、キアラは照れ隠しのように肩をすくめた。


「オレンジの皮とローズマリーを少しと、糸杉の香りも混ぜたわ。蜜ろうの蝋燭にも、同じ香りを含ませてあるの。香り袋だけだと、届かない場所もあるでしょ? 蝋燭の熱に乗せたら、部屋の隅まで行き渡るかなって思って」


 視線の先には、台の上に並んだ細身の蝋燭があった。

 真っ白な蝋に、薄く蜂蜜色が滲んで見えるのは、香油を混ぜてあるせいだった。火を入れれば、蝋がゆっくりと溶けて、熱に乗って香りが広がるはずだった。

 ジュリオとロマーノは、香りを確かめるように深く息を吸い込んだ。しばらく匂いを味わっていたジュリオが、「いい仕事をしたね」と満足そうに笑い、それから続ける。


「よし、じゃあキアラちゃんも着替えておいで」


 キアラは頷いた。

 数日前、店にやって来たジュリオが、茶目っ気のある顔のまま、けれど妙にきちんとした封筒を差し出してきたのだ。送り主の名は領主家、宛名はキアラ・ファリーナ。

 冗談かと思って見上げたら、「本気だよ」と胸を張られたのだった。ジュリオ曰く、「裏方だけじゃもったいないから」との事で、わざわざ夜会の招待状まで取ってくれたのだ。


 足元に置いてある小さな布袋を抱える。


 そこにはブルーグリーン色のドレスと、踵の高い靴が収まっていた。田舎を出て店を開く前に奮発して手に入れた一張羅だった。鏡の前で何度も合わせてみて、やっぱり不安で、母に笑われたことを思い出した。


「私、あまりドレスとか着慣れていないの。だからもし転んでも笑わないでね」

「笑わないよ。それに、転ぶ前に手を出してくれる紳士はたくさんいると思うよ。もしかしたら、そこから運命の出会いが始まるかもしれない」


 冗談めかして言うジュリオにキアラは笑い返す。


 運命の出会い。そんなものが本当にあったとして。もし今夜、そんな出会いが本当に訪れたなら、小さい頃に握りしめたあの約束を、ようやく手放せるのだろうか。そんな想いが胸の奥にふっと浮かびかけて、一つ息をついた拍子に、静かにほどけていった。

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