02:香りの依頼人
鈴の余韻が消える前に、ふくよかな影が扉の向こうに現れた。
「やあ、おはよう、キアラちゃん」
丸眼鏡の奥から、いたずらを思いついた子どものような目が覗く。
新聞記者のジュリオだった。ゴシップ欄を担当する彼は以前、高熱を出した時にキアラの調合した薬草茶を服用して回復した。それ以来、この店を贔屓にしてくれて顔馴染みになっている。仕立てのいい上着の前は、少しきつそうで、ボタンのあたりが控えめに主張している。
「ジュリオさん、おはようございます」
キアラが笑顔で迎えると、ジュリオも胸に手を当てて、いかにも紳士らしいお辞儀をしてみせた。
「今日はどんなお茶がほしいの? お腹、冷やしたとか?」
首を傾げると、ジュリオは自分の腹に手を当てて、ふう、と芝居がかった溜息をつく。
「酷いなぁ。僕はね、仕事柄、街中を駆け回ってるんだよ。お腹を冷やす暇なんてないさ」
「でも、その割には……」
キアラが視線だけで、ぽこんと出た腹部を示す。ジュリオは、わざとらしく上着を引き締めた。
「これはね、街の真実が詰まっているんだ。売れっ子劇作家の不倫に、歌姫の駆け落ちに、侯爵夫人の新しい愛人の噂。全部、僕が取材して、ここに溜め込んでいるんだよ」
「それ、お腹じゃなくて、新聞に流したほうがいいんじゃない?」
キアラが笑うと、ジュリオも肩を揺らして笑った。
「そう言われると思った。でも残念、今日は買い物しに来たわけじゃないんだ」
「え?」
「ちょっと、座って話せる?」
「もちろん。……お茶淹れるから待っててね」
キアラはそう言って、カウンターから出ると、窓際の小さなテーブルを指さした。ジュリオが腰を下ろすと、椅子が少し軋んだ。彼は眼鏡を鼻の上で押し上げてから、楽しげに手を組む。
棚から、お気に入りのブレンドを取り出す。小さな薬缶に湯を注ぎ、立ち上る蒸気の香りを確かめてから、二つのカップに注いだ。
「はい。今日はこれ。目が覚めるけど、心臓には優しいやつ」
「おお、それは助かる。昨日の夜更かしが祟ってね。侯爵家の次男坊が舞台女優と駆け落ちしようとしてるっていう話を追ってたら、つい……」
「また、そういうの追いかけてるんだ」
湯気越しにキアラが笑うと、ジュリオは両手でカップを包み込んだ。その表情は、外で喧噪に浸っている男のものとは少し違い、ほっとしたような色が混じっている。
「それでね、今日はキアラちゃんに、ちょっとお願いがあって来たんだ」
「お願い?」
「今度、新しい領主様のお披露目を兼ねた夜会があるんだ。街の大きな館で夜通しの、いわゆる貴族の社交パーティーさ。音楽と踊りと、噂話と、退屈と……まぁ、いつものやつだね」
「しゃこう……パーティー?」
耳にした事はあるが、そうした華やかな世界は、遠くの灯りのようにキアラの日常とは交わらないものだった。首を傾げると、ジュリオは安心させるように笑う。
「安心して。踊れって言いに来たんじゃないから」
「じゃあ、何を?」
「君に香りを調合してほしいんだ。花を飾るだけじゃなくて、空気そのものに手を入れたいって話が出てね。男たちの煙草や、女たちの香油と白粉の匂いを、もう少し柔らかい香りで和らげたい。香りの水でもいいし、小さな香り袋でもいい。入口や窓際にそっと置いておけるものを、キアラちゃんに作ってもらえないかなって」
「私に?」
「ああ、香りって、贅沢なものなんだ。音楽が止んで人が帰っても、部屋にはまだ匂いが残る。そして記憶にも残る。あの夜は薔薇の匂いがしてたな、っていうふうにね。でも薔薇ばかりだと重たくて、料理の匂いも台無しになる。だから、軽くて邪魔をしない香りを、ハーブなんかでうまく調合してやるのがいいんだよ」
「……ふぅん」
「それに、そこで香りに興味を持つ人も出てくるだろうしね。『この香りはどこで?』って聞かれたら、『サン・ミケーレ教会近くの「サンタ・ヒルデガルト」という名前の薬屋で、ストロベリーブロンドの髪のお嬢さんが作ってます』って、ちゃんと名前を売ってあげるよ。報酬も弾むつもりだよ」
「なんだか面白そう……」
言葉が、自然に口からこぼれた。想像したこともない場所に、自分の作った香りが満ちていく様子が、頭の端にぼんやりと浮かぶ。
「でしょ?」
「うん、やってみたいわ」
「助かるよ。新しい領主様は、食べ物の匂いひとつにも口を出すくらい鼻のいい人でね。だから、うまく合う香りを用意できたら、きっと喜ぶと思うんだ」
そこでジュリオが、ふと思い出したようにキアラを見た。
「それにさ、夜会なんて、縁がないって顔をしてるけど。もしかしたらキアラちゃんも、良い人に出会えるかもしれないよ? 音楽とワインと、柔らかい灯りの中で、運命の出会いがさ」
「うーん、でも私には婚約者がいるから」
「えっ、それは初耳だな」
肩を竦めてみせると、ジュリオは目を丸くした。
「そんな人がいるなら、早く僕に紹介してよ。新聞か雑誌に載せるからさ。『サンタ・ヒルデガルトの店主、謎の婚約者を隠していた』って」
「そんな記事、誰も読まないわよ」
思わず笑いながらも、胸の奥で、昔の声がかすかに揺れた気がした。
泥と雨の夜、冷たい指を握りしめて交わした言葉。
「……ずっと昔の話なの。まだ私が小さかった頃、雨の日に、家の前の道で倒れてる男の子を見つけたの。身寄りのない子で、しばらく一緒に暮らしたのよ。それでね、私、その子に好きって言ったの。そしたら、彼も笑ってくれて……大きくなったら結婚しよう、って」
「それは、なかなか」
ジュリオが、感心したように口笛を飲み込む。
「で、その彼は今どこに?」
「……分からない。突然いなくなってしまったの。父さんも母さんも探したけど、町中どこにもいなくて。だから婚約者って言っても、もう……どうなってるか分からない人なんだけど……。ただ約束だけは、ずっと心に残っちゃってて」
ジュリオは、しばらく黙っていた。それから、いつもの調子を少しだけ和らげた声で言う。
「一途だなぁ、キアラちゃんは」
「そうかな?」
「そうだよ。普通は、そんな昔の約束なんて覚えていないだろうな。でもさ、いつか、ひょっこり会えるかもしれないね。街で角を曲がった拍子にとか、今度の夜会の会場でとかね」
「そんな都合良いことあるかな……。うん…でも、ありがと……」
「記者っていうのはね、いつもありそうもない話を追いかけてるんだ。奇跡みたいな偶然にも、時々出くわす。だから、信じてみてもいいんじゃないかな」
そう言ってから、ジュリオが「あ、そうだ」と膝を打った。
「それとね、さっき言いかけたんだけど。今回の夜会には、ついこの間、叙階されたばかりのコンラード司教様もいらっしゃるらしいよ」
「えっ、コンラード様、来るの?」
「知ってるんだ?」
「もちろんよ。私、コンラード様から堅信の秘跡を受けたんだもの」
堅信の秘跡とは、洗礼で授かった信仰を、今度は自分の意思で生涯貫くと神に誓う儀式だ。額に聖香油の印を受けた人は、聖霊に強められた信者として、一人前として扱われる。
キアラが堅信を受けたのは、十三歳になった時…今から六年前のことだった。
「コンラード様って不思議な人なの。あの人が祭壇の前に立つと、教会の空気が変わるのよ。だから、冗談半分に『いつか聖人になるんじゃないか』なんて言う人もいたくらい。司教様になったって聞いたときも、ああ、やっぱりって思ったわ」
「やっぱりそうなんだ。……僕も耳にしたよ。ミサのとき、彼だけ雰囲気が違うってね。その司教様も夜会に顔を出すって話だよ」
「へぇ……」
「よし。じゃあまずは、香りのこと考えないとね」
ジュリオがカップを空にして立ち上がる。
「料理の邪魔にならなくて、誰でも楽しめて、でもちゃんと印象に残る香り。僕としては、記事に書きやすい香りがいいな。『新領主お披露目会、ささやく柑橘の風』とか」
「勝手に書き出さないで」
笑いながらも、頭の中で香りの組み合わせを並べ始めていた。
重すぎる花の香りは、料理の匂いと喧嘩する。だから、最初に鼻に届くのは、レモンやベルガモットのような澄んだ柑橘がいい。そこに、森を思わす木の香りを少しだけ混ぜて、影のように薄く添える。香り袋なら、窓際や階段に吊るしておけば、人が通るたびに、ほんのり空気が変わるだろう。
「じゃあ、準備ができたら、また僕に教えて。領主様側に話を通しておくから」
「うん。なるべく早く作ってみるね」
ジュリオは帽子をかぶり、いつもの軽い足取りで扉の方へ向かった。鈴がもう一度鳴り、路地のざわめきが、少しだけ大きく流れ込んでくる。扉が閉まると、店の中にはハーブとお茶の香りが戻った。
「……がんばろう」
キアラは、自分に向かって小さく呟く。
初めての夜会での大仕事。しかも、新しい領主のお披露目会だ。そう思うと、胸のどこかがひやりとし、同時に高鳴った。路地裏の小さな店で作った香りが、大きな館の広間まで運ばれていくのだと思うと、指先が少しだけ熱を帯びた気がした。




