01:消えた約束
冷たい雨が、泥を跳ね上げながら地面を叩いていた。
浅い息を繰り返す間にも、雨が頬を伝い落ちていく。小さな手を伸ばすと、そこにあったのは、ひどく冷えた少年の指だった。
『大丈夫、ここにいて。お父さんとお母さんを呼んでくるから』
幼いキアラの声が、雨音にかき消されそうになる。
泥と雨水の混じった地面に横たわる少年の睫毛は濡れて重く、薄く開いた唇からは、かすれた息がもれていた。
『……いかないで……』
聞き取れるかどうかの小さな声だった。
泥で汚れ、痩せた頬に反して、その目だけは熱に浮かされて燃えるような色をたたえていた。
『すぐ戻るよ。絶対に一人にしないから。だから、ここで待ってて』
キアラは、少年の冷たい手をぎゅっと握りしめて言う。
その途端、足もとの水たまりが揺れ、透明だった雨粒が、ゆっくりと色を変えていく。
雨水に黒いしみが混ざり、細い赤い線が溶け出し、どろりとした影となって、視界の端からじわじわと広がっていった。
『約束ね』と、小さな自分が囁く。
『約束するから。一人にしないから。迎えに行くから。だから待っててね……』
* * *
胸の中で、心臓がどくりと跳ねた。
薄い天井板を透かして、階下のどこかで木が軋む音がした。窓から朝の弱い光が、レース越しに部屋へ入り込んでいる。
「……また、あの夢」
キアラは枕に横向きに顔を埋めたまま、小さく息を吐く。
幼い頃から何度も見てきた夢だ。泥と雨の匂い、冷たい指、あの声。年を重ねるごとに、細部は少しずつぼやけていくのに、約束の言葉だけは、色褪せないまま、耳の奥に残っている。
大きくなったら結婚しよう、と先に言ったのは、どちらだっただろう。
眠りと覚醒の境目にいるときには、思い出せそうでいて、目が覚めてしまうと、もう手が届かない。
毛布を押しのけて起き上がると、足もとに置いてある木箱に、踵を軽くぶつけた。痛みが、ようやく今を連れ戻してくれる。
彼が家に来た日のことは、今でもはっきり覚えている。
あの日、幼いキアラは雨の中で倒れていた少年、ゼノを見つけたのだった。
両親を呼び、彼を家へ運び込んだ。
しばらくの間、身寄りのないゼノは「遠い親戚の子」という事にされ、キアラの家で育てられた。家の奥の、一番、日当たりの良い部屋に寝かされ、母が汗を拭き、父が薬草と香油を持ち帰ってきた。
幼いキアラは、部屋の出入りを許されるたびに、ゼノの枕元まで走っていった。
彼が目を開けているときは、絵本を読み聞かせ、眠っているときは、じっとその顔を眺めた。
痩せた頬と薄い唇は、笑うと急に年相応の男の子の顔になった。
介抱の甲斐もあり、やがてゼノは少しずつ力を取り戻し、キアラと追いかけっこができるほどに回復した。それからは、石けり遊びをしたり、裏庭で秘密の隠し場所を作ったりと、一緒に過ごす時間が増えていった。そうして遊んでいるときも、彼は少し照れたように笑って、キアラの頼みならたいてい聞いてくれた。
「好き」と打ち明けたあの日も、少し頬を赤くして、自分もだと笑ってくれた。
この幸せは、当たり前のように続き、自分たちは大きくなったら結婚して、その先も変わらず寄り添っていくのだと、幼いキアラは信じていた。
それなのに、ある朝、ゼノはいなくなってしまったのだ。
両親は血相を変えて、近所の家々や教会、市場にまで足を運んだが、どこにも彼の姿はなかった。
日が暮れる頃には二人ともすっかり疲れ果て、それでもキアラが泣きながら問い詰めると、「事情があるのよ」「いつか分かる日が来るから」と同じ言葉を繰り返すばかりだった。
あの日から、ゼノは戻ってこない。
結婚の約束をした少年は、突然、どこかへ消えてしまった。手を伸ばしても、夢の中でさえ指先が触れる前に、世界が暗くなる。
「……起きなきゃ」
キアラは首を軽く振り、ベッドを整える。夢の続きを追いかけている時間は、もうない。
今日は、修道院から届いたばかりのハーブを棚に並べる予定だ。新しく考えたお茶のブレンドも、試してみたい。
洗面台の水差しから水をすくい、頬をぴしゃりと叩く。
冷たさに身を縮めながらも、その感触にほっとする。雨の冷たさではなく、ただの井戸水の冷たさだ。ここは路地裏の小さな家で、自分はもう、あの夜の子どもではない。
髪を編んでから、部屋を出て階段を降りる。
この家は二階が住まいで、一階が薬屋になっている。簡単な朝食を済ませると、キアラは店に出た。
右側の壁一面には、木製の棚が天井近くまで積み上げられている。
棚には、修道院から仕入れた薬草の束が紙で包まれて並び、ところどころに、手書きのラベルを貼ったガラス瓶が差し込まれている。反対側の棚には、丸い石鹸が積まれていた。
ラベンダーやローズマリーを練り込んだもの、修道女たちが作ったオリーブ油の石鹸。麻紐で結ばれた札には、材料が書かれている。
窓際の小さなテーブルには、キアラが調合したお茶の袋が並んでいた。
最近は教会の合唱隊の子たちが、喉用のお茶をよく買いに来る。そうした顔を思い浮かべると、胸の奥が少し誇らしくなる。
カウンターの上には、昨日のうちに磨いておいた天秤と、真鍮の分銅。その横には、木の板が立てかけてあった。キアラはチョークを取り、「本日のおすすめ」と書き、少し迷ってから、「目覚めの香る朝のお茶」と付け足す。
店の扉は、まだ内側から木の横棒で留めたままだ。窓の鎧戸を開けて、外に向かって押し広げる。湿った朝の空気が流れ込んで、乾いたハーブの匂いと混ざり合った。路地の向こうからは、遠くの市場から届くざわめきが、少し遅れて聞こえてくる。
「よし」
小さく呟いてから、扉の横に掛けた札を裏返す。
「準備中」の文字が「営業中」に変わり、木の横棒を外すと、小さな真鍮の鈴が揺れて、涼やかな音を立てた。




